2024.11.26
懐かしいというにはまだ早いけど
久しぶりの友人と食事。
2024.10.11
30年後も
新幹線の駅からホテルまでは歩いて20分。少し迷って、それでもタクシーに乗った。
「近くてごめんなさい」と行き先を告げると、「なんのなんの」と運転手さんが言う。「このホテル人気なんだねえ、今日行くの3回目だよ」と。
手頃で、品質が安定しているから使いやすいのだろう。実際、仕事でここに滞在している友人も、同じホテルに泊まっているというし。
チェックインして部屋に入ると、中は眩しいくらいだった。カーテンを半分閉めて、オンラインでいくつかミーティング。どこにいようと会議ができるのは、あの感染症がもたらしたよいことのうちの一つだと思う。出張が少なくなったことだけが寂しいけれど。
仕事を終え、着替えてロビーへ降りると、約束していた友人が座っているのが見えた。かすかに猫背の後ろ姿。あの頃、高校の教室で見慣れた後ろ姿そのままだな、と思って少し笑う。正面に回ってお疲れさま、と声をかけると、「おおっ」と言って顔を上げる。低音の、いい声。相変わらずいい声だねえ、と思ったけれど言わずに隣に腰を下ろした。
彼は人前に……というか、舞台に立つ仕事をしていて、今回は少し大きな仕事でここにきている。わたしもそれを観にきたのだけれど、前入りするなら久しぶりに食事をしようよ、ということになったのだった。
入り口から、手を振りながらもう1人の友人がやってきたので、立ち上がってタクシーに乗る。「君を連れて行くレストランを選ぶのは難しいんだよ」と彼がいう。「なにそれ、わたしの食い意地がはっているということ?」と言ったら、「ふふっ、楽しみにしててよね」ともう1人の友人が言った。その友人は、彼をサポートする仕事をしている。
タクシーは、会員制、とのれんに書かれたお店の前で止まり、彼は慣れた感じで入り口をくぐった。入ると、カウンターの中にお母さんがひとり。お母さんはわたしの顔を見て、可愛い子連れてきたね、韓国の男の子みたいね、と言った。ピンクの短い髪をしていると、たまにそんなことを言われることがある。
高校の同級生でね、と彼が言うと、あらいいねえ、とお母さんが言う。もう30年経つね、とわたしたちは顔を見合わせて笑った。
抗がん剤の影響で髪の毛がなくなったあと、坊主頭のわたしの写真を見て、「坊主似合うから、色変えたりして遊んじゃいなよ、金髪とかさ」と言ってくれたのが彼だった。わたしはそれを間に受けて、髪の毛を脱色してピンク色に染めて今に至るのだけれど、まあ、なんというか、ピンクの髪は病気に負けないわたしの意思表示なのだ。それを後押ししてくれた友人には感謝している。
「わたしの髪の毛がピンク色なのはこの人が言ったからなんですよ」とお母さんに伝えると、彼は、「だって本気にするとは思わないじゃん」と笑った。「長い付き合いの友だちというのはいいねえ」というお母さんに「30年後もまた一緒に来ますよ。お母さんがお店やっている限りね」「嫌だそんなにやらないわよ」というやりとりをして、ひとしきり笑ったあと、「いや、本当にね、桃ちゃんが元気でよかったよ」と、友人がしみじみ言った。
後輩たちと飲みに行く、という彼と手を振って別れて、友人と夜の街を歩いて帰った。暑くもなく寒くもなく、どこまでも歩いていけそうな夜だった。本当にね、生きててよかったよ、と空を見上げながら思った。あの高校の教室から30年。次の30年もこうして、たまに一緒に笑えますように。
2024.09.14
向日葵みたいな
中学1年生の終わり、というともう30年以上前の話だけれど、アルミ加工の工場を経営していた父の仕事が少し大きくなり、工場を拡張することになって、生まれ育った町から千葉のある街に転校した。得意なこともなく、引っ込み思案でコミュニケーション下手だったわたしは学校に馴染むのに時間がかかり、毎晩、前の学校の幼馴染に電話をしては泣いていた。昔から、新しい環境に馴染むのに時間がかかる性格なのだ。
中2にあがり、当時のわたしの人生を救ってくれたのが、Tちゃんだった。Tちゃんのお家は昔から地元で商店をやっていて、おしゃべりで明るくて可愛くて、勉強もできて、向日葵みたいな子だった。
中学3年で今度はイギリスの学校に転校することになっても、Tちゃんは毎週のように手紙をくれた。当時はメールなんてなく、だからわたしはTちゃんのことを思い出すと、Tちゃんの几帳面な字を同時に思い出す。手紙のやり取りは、高校を卒業して日本に帰ってきてからも続き、わたしは、会わなくても強く長く続く友情があるのだと言うことを、実感としてよく知っている。
そんなTちゃんと久しぶりにランチ。少なくとも10年くらいは経っているけれど、会った瞬間から話が止まらなくて、たっぷり2時間おしゃべり(でもまだ話し足りないくらい)。霧のかかったような昔と、ここ最近で話が行ったり来たりして、2人で壮大な織物を一緒に織っているようだった。また会おうね、すぐにね、と誓い合って席を立ち、「そうだTちゃん、来週お誕生日だね」とふと言ったら、彼女は目を丸くしたあと少し涙ぐんで「なにそれ、なんで覚えてるの、嬉しくなっちゃうじゃん」と、ハンカチで顔を拭った。多分ね、家族と一緒でね、わたしはあなたの誕生日を一生覚えてるよ、と思ったけれど言わなかった。そして、そんな彼女の屈託のなさに、あの頃のわたしは、心から救われていたんだ。
2024.08.19
投薬はあと10年
右胸の全摘手術、化学療法、左側の予防切除、付属器予防切除、両胸のインプラント入替、という4回の手術と治療を経て、今はアロマターゼ阻害薬の服薬と経過観察のみで落ち着いている。落ち着いている、という言葉は何を意味するんだろう。少なくとも外科手術後の傷口の痛みは落ち着き、化学療法時に悩んだような貧血の症状もない。けれど、落ちた体力は完全には戻らないのですぐ息は切れ、関節はいつも軋み、こわばっている。これが加齢によるものなのか病気なのかは切り離せないことなのだろうと思う。
乳がんのことがなくても、遅かれ早かれ踊れなくなる日は来たのだろうし、フルートは吹けなくなったのだろう、とは思う。四十肩のせいか手術のせいか薬のせいなのか、腕が頭上にあげられないし真横に伸ばせないのが致命的で、ラジオ体操第一の最初の動きすらできない。つまりバレエで言えば基本のアンオー(頭より高い位置に腕をあげる)ができないし、フルートに至っては楽器を構えることができない。バレエもフルートもそこにはなはだしい情熱があるわけではないけれど、以前できていたことが望んでもできない、努力ではどうにもならない、ということに、とてつもなく自由を奪われた気がしてしまう。
幸い、今のところ仕事に支障はほとんどなくて、リモートと出社を使い分けながら自分の役割は果たせている、ような気がするし、それは本当にありがたいことだと思う。ただ、人生の余剰の部分、無駄で痛みのない自由な時間が時折とても懐かしい。
2024.08.18
イギリスで育ったにしては、
高校時代の先輩方と、これまた高校時代の先輩がやっているレストランへ。
わたしが卒業したのは、イギリスの田舎にあった全寮制の小さな学校で、いわゆる在外教育施設だ。初等部から高等部まで200人あまりで、当時にしてはのんびりした学校だったように思う。人数が少ないせいか、学年を超えた関係性が卒業しても続いていて、もう30年経つ今でも、連絡をとりあっている。
集まった4人のうち1人は現代美術家、1人は絵画教室を主宰していて、なので会話も馥郁としている。1人の先輩はがん患者としても先輩で、お互い、科学を信じてよく生きようね、と励まし合う。芸術と科学の間には美しい橋がかかっているのだ、たぶん。新鮮なお魚とお野菜。あの、食に関しては不遇な場所で育った人がやっているレストランにしては、信じられないくらい美味しいね、と誰かが言って、ひとしきり当時の愚痴を共有し合う。つまり、芯の残ったご飯とか、ぐずぐずに煮えた野菜とか、出汁の気配のないスープとか、そんな思い出を。あの頃、何者でもなかったわたしたちは、何者でもなかったなりに色鮮やかな日々を過ごしていたんだよな、と思う。
たくさん食べて、たくさん笑っていい夜だった。30年なんて、あの時は永遠と同じ年月だと思っていたけれど、ここから30年経った時にも、こうやって笑っていられるといい。