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2008.05.30

 グールドのゴールドベルクを聴きながら朝を過ごす。
 昔、ピアノを習っていた頃、歌え歌えとよく言われたものだけれど、グールドのピアノは決して歌わないのだな、と思う(いや、本人はうたっているけれど)。あの、音から色を削ぎ落とすスタイル、モノクロの音だけをつきつめて音楽の輪郭を際立たせるやり方、いつ聴いても、どこで聴いても、そこがまるで違う場所になってしまう。



2008.05.29

 もう、梅雨なのだろうか。もう、梅の実が熟す季節か。
 朝から雨なので、向日葵みたいな色の麻のストールを首元に巻いて出かける。少しだけ、太陽が近くにいるみたいだ。
 会社に着くと、昨日客さまから届いた芍薬の蕾が、一晩で満開になっていた。雨の日は、花が強く香る。芍薬は好きだけれど豪華すぎて、目の前にあると少しだけ気後れしてしまう。わたしは、芍薬のようにはなれないなあ、と、思う。



2008.05.28

きれいなもの

白い自転車/雨上がりの蜜柑山/伊集ぬ花/ハイゲージのニット/五月の青空/鯛の鯛/グールドのバッハ/縦縞の絣/冷たい明日葉茶/芍薬の蕾/鉛筆デッサン/ラファエロの天使/小さな寝息/赤い状袋/露地もののトマト/時計の針/「友だち」/版画の雨/わたしたちを、夢見る夢



2008.05.13

 薄手のニットでも暑い……、などとつい数日前まで思っていたのに、今度は、革のジャケットをしまってしまったのを悔やむようなお天気。なんて気まぐれな空なんだろう。五月晴れ、なんて随分と見ていない気がする。

 朝、なにを着るのも気が進まなくてパジャマのままぼんやりと、いっそのこと会社に行くのをやめてしまおうか、なんて思っていたら、あやうく遅刻しそうになった。これじゃわたしが子供みたい。こんな日は着心地のいい服を着るに限るので、コットンとカシミアの混ざったニットと雨粒みたいな模様のスカート。今日の来客予定をざっと思い出し、まあこれでいい、と思う。

 午後、会議室がやけに静かで自分の声が響くように思う。渡された書類を眺めながら、肌に触れる生地の柔らかさに少し救われる。



2008.05.10

 父の誕生日。昭和八年生まれだから、今年でいくつになるのだろうか。まだまだ元気で仕事も続けているとは言っても、もう随分な歳なのは確かだ。
 五年前、食道癌を患う前と後とでは、父はすっかり別人になってしまった。体重は減り、食が細くなり、お酒もぴたりと飲まなくなった。もともと怒りっぽく、すぐかっとなって大きな声を出したものだが、最近はその声にも張りがない。気力だけはまだまだあるが、体力に引きずられるように、だんだんと気弱になっていく。出かけるのが好きで、今年も夏にみんなで旅行に行こうと言い出したのは父なのに、「やっぱり父さんは行けそうにない」なんて、聞いた時には思わず自分の耳を疑った。

 昼休み、パソコンのファイルを整理していると、ふと、昔の写真が出てきた。確か、わたしが会社に入ったばかりのゴールデンウィーク、みんなで北京に行った時のものだ。あの時は、姉二人のそれぞれの家族と、父と母、それとわたしの御一行、賑やかな旅行だった。大学を出たばかりのわたしは、デニムの上着を着てサングラスなんてかけて、小さな姪っ子は「万里の長城」なんて書いた赤い帽子をふざけてかぶっている。父親は変な唐傘みたいな帽子をかぶっていて、日に焼けて、元気そうで、みんな心配事なんて一つもないみたいににこにこ笑っていて、お天気が良くて、なんというか本当に幸せそうで、見ているうちになんだかぐっときて泣いてしまった。父さんに任せておけば心配ないよ、なんていうのが口癖だったころの父。もうあんな父と、旅行することはたぶんできない。

 何も変わってほしくない、と思うほどナイーブではないし、それが叶わないことももちろん知っている。「あのころ」があまりにもぴかぴかしていたので、少し懐かしくなっただけ……、そんなことを思いながら立って鏡を見れば、あれから十年近く生
活を重ねた自分がそこにいて、その顔と向かい合い、少しだけ笑う。



2008.05.09

 出先から戻ってくると、眼を真っ赤にして席に座っている子がいた。今年入社の新卒で、確か、ひとりだけ文系出身の女の子。新入社員教育は、今週からプログラミングに入っている。そっと、教育担当の同僚の席に行き話を聞くと、やはり一人だけ進捗が果果しくなく、悩んでいる様子だという。就業時間が過ぎ、泣きながら部屋を出て行く小さな後姿を見て、昔のことを思い出した。

 わたしが入社した年度も、文系学部出身だったのは自分だけだった。周りは、コンピュータの専門学校卒ばかり。だから、一通りの講習を終え、プログラミングに入ったとたん、これは大変なところにきてしまった、と思ったのだ。なにしろ、講師の先輩が話している言葉が日本語に聞こえない。言葉が分からない、考え方も分からないので焦る上に、周りはどんどん課題をこなしていく。ひどく落ち込んで、毎日会社に通うのでさえ苦痛だったあのころ。結局、劇的な解決策などなく、とにかく日々を必死で過ごしているうちに何とか乗り切ったのだが、渦中にいるときはそれこそ涙の日々だった。

 あなたの気持ちは分かる、と慰めるのは簡単だけれど、本当にそれがいいのか分からないので、迷いながらメールを送る。(最初からうまくできることってあまりないかもしれません。けれど諦めないで続けていくうちに、少しずつ分かってきて、いつか必ずできるようになるから、………)そういえばこれは、いつか母に言われたセリフだな、などと思っていたら、隣の席の先輩が、あれからもう10年だね、早いね、と、溜息をつくように笑った。



2008.05.01

やがて麗しの五月が訪れ

 麗しの五月、と思いながら目を覚ますと、カーテンの隙間から朝陽がさしていた。この空の色、空気の清んだ感じ。春とも初夏とも違う「五月」という季節がある、と思う。
 ブーツをやめて、華奢な薄い色の靴を履くと、それだけで足取りが軽い。川べりの道、ふわふわと風に揺れる柳の新芽を眺めながら歩けば、身体がうす青い朝で満ちて、指先から透き通ってくるような気がする。