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2009.09.30
悲しくてやりきれない
久しぶりに、六本木のキャバンクラブ。お客さまの送別会なのだ。ビートルズを聴くのもちょっと久しぶり。ビールと、フィッシュアンドチップス。
入社そこそこのころから知っている、もう随分長い付き合いのお客さまだけれど、業績の悪化で地方の営業所へ転勤だという。たぶん、遠回しの退職勧告。業界では、誰もが羨む一流企業だけれど、その分、中では容赦がないのだろう。頭では理解できても、心が納得できなくて本当に寂しく思う。今年に入って、こんなことが本当に多い。
できれば転職したい、という相談が内々であって、わたしもいろいろ動いてはみたのだけれど、年齢がネックになってどこからもいい返事はもらえなかった。50代半ば、よっぽどの実績がない限り、相当厳しい。それでも、まだ、解雇でないだけいいのかもしれない。いや、本当のところは、まだ分からないけれど。
ステージを2つ聴いてから、いつものお店へ流れた。生ギターの伴奏で歌える小さなバーで、今日は貸切。歌って、明け方まで飲んで、タクシーに乗って帰っていくその後姿を見て、やっぱり、グッときてしまう。同情はしないしできない。明日は我が身かもしれないのだ。……それにしたって。
悲しくて悲しくて、とてもやりきれない、と、酔っ払ったわたしが小さな声で歌うと、タクシーが来るまで隣に立ってくれていたママが、わたしの腕をゴシゴシさすって、頑張んなさい、と言った。
2009.09.26
日帰りで四国へ。
久しぶりに窓側の席に座って、外を眺める。空の青がまぶしい。
今さらこんなことは恥ずかしくて口にも出せないけれど、大切なプレゼンが控えていて、吐き気がするほど緊張していた。失敗の出来ない種類の仕事、というのは確実にあるが今回はまさにそれで、もちろん大失敗をしないように準備も根回しもできる限りしたし、失敗を失敗にしない小狡さだって身に着けてきたはずなのだが、それでも、胃が痛くてうんざりする。そんなことでもなければ、行くのが嬉しい大好きな町なのに。
それでも、汗びっしょりになりながら、なんとか仕事を終え、外に出てみると現金なものでお腹が鳴った。お腹すいたなあ、というと、寿司でも喰うか、と上司が言う。最終の飛行機が飛び立つまでのほんの少しのあいだ、酢橘をかじりながらビール。疲れた。
2009.09.25
孤独エコー
いますぐにでも眠れそうなほどだるく、身体のどこにも力が入らないのに、頭の芯のほうだけ妙にはっきりと覚醒している感じ。変なの。歩くのさえふわふわと心もとなくて、カツリカツリと靴が鳴る。
どこかへ行きたいのにどこへも行きたくなくて、何かを保留するように夜の喫茶店でコーヒーを飲む。家でもなく、仕事場でもなく、レストランでも公園でもなくて、喫茶店、という場所が恋しいときがある。つかのまの時間を過ごす確保された場所ではあるけれどどこでもない感じ。突き放されているのに親しげで、つまらないのに離れがたい。寂しいときはよけい寂しくなるけれど、結局のところ、その増幅していく寂しさこそ、ここで自分が求めていることなのかもしれない。
2009.09.24
さなかの秋
残暑が、というメールが友だちから届き、そうでなくても日差しが窓からきらきらと差し込んでくる午後三時。夏はとうに走り去ったはずなのに、まだその曲がり角の前に背中が小さく見えそうなくらい暑い。
連休の合間、平日だと言うのにオフィスはがらんとしていて、心なしか、電話もあまり鳴らない。連絡を取りたい人たちが何人かいたのだが、軒並みお休みで、そうかそうだよな、とつぶやくように思う。
仕事を終えてとっぷり暮れた夜、空を見上げて、吹く風に秋を知る。なんだすっかりと秋じゃないか。この清んだ漆黒の空、うるうると光る月。やっぱり秋だよ、と、昼間のメールの友だちに伝えたい気がしたけれど、取り出した携帯はそのまま鞄にしまった。言葉に出さない方が、伝わる種類のことがある気がする。
2009.09.23
髪を切る。
一度短くしてしまうと勢いがついて、結果、ここ数ヶ月で随分と短くなった。最近変えた美容院は繁盛していて、シャンプー、トリートメント、カット、シャンプー、ブロー、と、流れ作業のように自分が「捌かれて」いくのは気に入らないが、カットがびっくりするくらいうまいので、我慢して通っている。この、うまい、というのがどういうことかというと、一度切ってもらうとその後しばらくはストレスがない、ということ。この美容院に来るようになってから、カットを終えて鏡に映った自分に感動したことは一度もない。むしろ、その時は、あまりにも普通でガッカリしさえするのだ。なのに、後からじわじわとその髪型が気に入ってきて、一ヵ月後くらいには、もうあの美容院(というか、美容師さん)とは離れられない、とまで思うのだから不思議なものだ。今まで、美容院から出る瞬間だけはきれいな自分、というところには、何度も行ったことがあるのだけれど。
わたしがする仕事も、こんなふうに持続するといい、と思う。初めて手に取ったその時は特別感動しなくてもいい、ずっと使っていくうちに、だんだんと好きになって離れられなくなる、そんなものが作り出せたら本望かもしれない。
お店を出、表参道まで出ると、東京オリンピックの招致パレードをやっていた。すごい人。シャネルの前で思わず足を止める。この時期に見るツイードのスーツは特に素敵。
少し歩いて、紀伊国屋の新しいビル、AOの中のカフェ、ラントマンへ。クラシックな内装、ここのエスプレッソはとても美味しい。ぼんやりと頬杖をつきながら、連休最後の午後を過ごした。
2009.09.22
夜、友だちからメールが届く。「あのレストラン最高でした。やっぱり食べ物は偉大だ」って。
わたしはすっかり嬉しくなって、気持ちよく眠りについた。なんだろう、まるで自分が褒められたような、そんな気分で。
東京に、転勤でやってきたばかりの友だちから、連休中に家族が上京するのでおすすめのレストランを教えて、としばらく前に聞かれた。わたしにとって、聞かれて嬉しい種類の質問、というのがあるとするとこれがまさにそれで、その友だちと相談しながら、東京で過ごす数日の予定を立てた。お昼はとにかく眺めが良くて素敵なここ、クラシックな甘味処でおやつ、夜は軽めにして……、このレストランは最高で東京にしかないから、ちょっと遠まわりしてでも行く価値があると思う、最後の日にお土産にこれを買ったらいいよ……、なんて。ちょっとおせっかいが過ぎるかな、と思うほどあれこれお店を並べ、もちろんそのどれもが自分の大好きで信用しているお店で、友だちがそこでいい時間を過ごしてくれたらいいな、と思う場所だった。
昔、外食関係のコンサルタントをしているある人が、こんなことを書いていたのを読んだことがある。――大好きなレストランであればあるほど、ほんとうは独り占めしたい、と思う。でも、自分ひとりがそのレストランを支えられるわけではもちろんないから、独り占めには出来ない。そんなとき、自分ができることといえば、そのレストランに自分自身が通うことと、そのレストランにとっていいお客さま……つまり自分が信用できる大切な人たちにそのレストランを紹介して、そういう輪を広げていくこと。それがつまりはそのレストランを大切にするということだと思う、って。
わたしは、ことあるごとにそのことを思い出す。ほんとうにそうだな、と思うからだ。わたしはレストランという場所が好きだ。ほんとうに好きだ。それは、自分が今まで、何度もレストランという場所に助けられてきたからだと思う。レストランというのは、わたしにとって、ただ空腹を満たすためのところではなく、だれかと本音を話し、大切にされて時間を過ごし、日常の中でいつしか損なわれてしまう何かを取り戻す場所なのだ。
だから、大切な友だちには、大切なレストランを紹介する。喜ぶ顔が見たいから。何かを共有したいから。そして、そのレストランが、いいかたちで続いてほしいと、希うように思うから。
2009.09.20
連休の中日、アップルストアで写真家内田ユキオさんのトークイベント。「旅するように写真を撮り、手紙を書くように旅を撮る」。タイトルを聞くだけで、もう、ほとんど満足、といったら大袈裟だろうか。この、銀座のアップルストアのシアターがわたしは好きで、座席もゆったり、なんとなく名画座みたいな雰囲気。時間ギリギリに駆け込んだのだけれど、客席は六分くらいの入りだろうか。
わたしは、カメラには興味がない。本当のことを言うと、もしかしたら写真自体にも興味がないのかもしれない、とたまに思う。それでも、いくら言葉を紡いでも伝えられない何かを写真だったら伝えられるかもしれないと信じているから、撮るのだ。
映される写真を見、話を聞きながら、この人は信じているんだな、と思う。何をって、世界をだ。手放しで世界を愛す、という人がいたとしたら、その人をわたしはそう簡単には信用できない。でも、世界への愛憎半ばする中で、信じられない、信じたい、それでも信じている、という姿勢で生きている人なら、その人の撮る写真なら、わたしはずっと見続けていきたい、と思う。
ビルを出ると、銀座の街はきらきらとまるで真夏のようだった。なぜだか、ほんの一時間前、話を聞く前とは少し世界が違って見えて、太陽がつくる影に目を奪われながら、うたうように歩いて帰る。
2009.09.19
連休前の金曜日、夕方から(所謂)接待で旅行。IT系のベンチャー企業なんて、そういったことから最も遠いところに存在していると思われがちだが、そうでもない。
行く前までは憂鬱なのだが、行ってしまえばそれなりに楽しい。大広間での浴衣もカラオケも大騒ぎもなくて、温泉街の落ち着いた割烹で食事。事前に連絡されていたドレスコードは、デニム可、ショートパンツとサンダルは不可、というものだった。
宿に戻ってひとり、夜の温泉に入る。朝起きて朝食が用意された広間には、月見台と薄、絞りたての蜜柑が甘い。山に登ってバーベキュー、靴を脱いで小川に入って、手を振ってみんなと別れたときには、少し寂しい思いをしさえした。
2009.09.14
ということで、少し冷静になって考えてみると、昨日の苛立ちのほとんどは、腹を立ててしまった自分に対してのものなのだった。まだまだ修行が足りません。頭にくることがあったら、これからは、心の中でお経を唱えることにする。
きっと、世の中に対する不満や不安は、裏を返せば、自分に対する不満や不安だということが多いんだろう。
2009.09.13
愚痴です。
少し嫌なことを書く。
週末、仕事でひどく気が滅入ることがあって、遅くまで自分のデスクで鬱々と座っていた。……たとえ相手がどんなことを言ったにしても、それに悪気がなければ腹を立てるべきではないのだろうか、と考えていたのだ。
うちの会社が販売している、他社が開発したあるセキュリティ機器及びサービスがある。もともと、うちの会社が開発・販売しているソリューションと組み合わせて展開すれば、双方にメリットがあるはず、ということで結んだ販売パートナー契約だった。
その機器及びサービスの新しい売り方をしてはどうですか、と、つい最近、その会社の営業さんから提案があった。もともと想定している使い方とは違う使い方だが、あるサービスを追加し、うちのサーバーにも設定を入れることによって、うちのソリューションのセキュリティレベルが上がる、という内容だった。わたしはその話を聞いて、基本的には賛成だし前向きに取り組む、という回答をしたうえで、「でもリリース前に稼動に問題がないかテストをしたい」と言った。……言ったのだよ。だってシステムベンダーだもん。テストしないシステムなんてリリースしたくないじゃないですか。
そうしたら、「理論的には全く問題がありません」「テストをしたいなんてなんて神経質な!」「とにかく問題ありません」と言われた。わたしは、提案に何か物言いをつけたわけでも否定したわけでもない。かけらもない。ただ、ほんとうに、「稼動テストをしたい」と、言っただけなのだ。
それなのに、それを否定され、神経質だと言われ、再三説明してもすれ違うばかりで、あまりに腹が立ったので、「新しく作った創作料理を一回も味見しないでお客さまに出すレストランに行きたいと思いますか。わたしは絶対行きたくありません」なんて言ってしまった。あーあ。
わたしは、「システム」に「絶対」なんてないと信じている。どんなにテストを重ねたシステムでさえ、信じられないような不具合が起きることがある。それを知っている。だから、できる限りのテストをしたい、というのは当たり前のことだ。特に、業務システムを提供している立場の人間なら、システムがたとえ五分でも止まることのリスクが身にしみて分かっていると思う。
もちろん、パッケージソフトをそのまま販売する時に、「テストさせてください」、なんてことはわたしだって言わない。例えばマイクロソフトのOfficeをお客さまに売る、その時に、「それがベンダーとしての責務なのでテストをしてから出荷します」なんて言ったら神経質どころかただのアホである。そんなの分かってる。今回の提案は、パッケージをそのまま販売するというわけではなく、新しい(イレギュラーな)設定を入れた新しいサービスで、しかもうちのシステム側の設定を変更する必要もあって、(しかもセキュリティというのは導入する際に非常にトラブルが起きやすい部分で)、万が一それがうまく稼動しなかったらシステム自体が使用できなくなる。稼動テストをしないで導入するのはリスクが高い、という判断自体がそれほど間違っていたとは思えない。
わたしは、もともとズボラで大雑把な人間である。そしてそれはシステム開発者としては致命的な欠点だ。だから、できるだけ緻密であろうと努力してきた。必死で。わたしたちは、毎日、どれだけシステムが安定稼動するかに心を砕いている。バグや不具合やトラブルをできるだけ回避するために、日々努力している。なのに不具合は必ず起きる。おきてしまう。だから、テストをしないでシステムを売ることはできるだけ避けたい。……ということが伝わらない。どう頑張っても伝わらなかった。
もう誰もいないフロアで一人大きな溜息をつきながら、チカチカとカーソルが点滅するモニタを眺める。どうすればいいのかは、たぶん分かっている。でも、気持ちが収まらなくて、わたしはしばらく頬杖をついたあと、ちぇ、と言った。
2009.09.12
友だちの、結婚式の二次会へ。
どの服も気に入らなくて、ユニクロの黒いワンピース。どうして洋服って、着ようと思ったときにぴったりのものがないんだろうか。代わりにアクセサリーを沢山つけて、靴と鞄だけは少しいいものにして、まあ、なんとか許容範囲か、と思う。
少し早めについたので、表参道を歩く。昨日の夜もこのあたりで食事をしていた。あまり高い建物がないので空が広い。くもりぞらの、欅並木。
並木道を見下ろすカフェで、わらびもちとお抹茶。……お茶、習いに行こうかな。
新郎新婦は幸せそうだし、久しぶりに集まった友人たちとは話が弾んで、楽しい夜だった。大学時代はゆるやかに同じ場所にいたわたしたちだけれど、今はそれぞれ違うところで違う生活があって、なのに間違いなく、自分たちの人生のある部分、それを共有しているということ、それがお互いを繋いでいる。
2009.09.11
メールどうもありがとう。
その画家の話は以前聞かせてくれたと思うけど、すっかり忘れてました。
検索してみたけれど、とってもいいね。
絵も良いけど、版画が素敵だと思いました。
版画って好きです。
オリジナルであって、複製でもあるところがいいと思う。
写真と似ています。一瞬をつかまえているのに、そこには永遠があるところが。
一枚ほしいな……、と思って、いけないいけない、と思い直しました。
そういう心とは遠いところに行きたいと思っているのです。
でも、わたしはたぶん、所有欲が強いんだと思う。
だから、永遠がほしくなるのかな。
いや、でも、もしかしたら永遠を手に入れたいのではないかもしれません。
昨日、ほんとうに風が気持ちよくて、空が清んで青くて、こんな一日をどこかにとっておきたい、と思ったけれど、 それは、時間よ止まれ、と思っているわけでも、一日をポケットに 入れてしまいたいわけでもない。
ただ、忘れたくないだけなのです。
今日の風の感じとか、その風に吹かれたときの自分の思いとか。
そういう意味では、移ろっていくのが生きることだと思っていて、変化するものこそ美しい。
だからなおさら、その一瞬を凍ったまま取っておきたい、と、 思っているのかも。
そして、所有欲って余分なものだな、って思うけど、 でもそれを目くじら立てて否定することもないかなとも思う。
だって、所有したい、って、大切にしたい、っていうことと同義だと思うから。
大切だから、責任を持って手に入れる、ということです。
ところで、今日のテーマ曲は、オフコースの「秋の気配」。
こんなことは今までなかった 僕があなたから離れてゆく
永遠なんていらない、と、いつか心から言ってみたい。
また近いうちにお会いしましょう。
2009.09.10
秋は喨喨と
朝、家のドアを開けたとたん、秋だ、と思った。昨日までと空気が全然違う。深く清んだ風、空の色。秋だ、秋だ、と思いながら往く道を振り返ると、街路樹がつくるアスファルトの影、その色の複雑な美しさにはっとする。夏の、ただ鮮やかな日差しとは違う、光の陰影。
季節がすれ違っていく、そのほんの数日が一年の間で一番好きだ、と思う。
*
永遠ということについて話したり書いたりしていたら、友だちがメールで、香月泰男の言葉を教えてくれた。
花は来る年来る年、新鮮に咲き続けている。
私はそれを追いかけながら描いてみるが、花のように毎年新鮮には描けない。
そういえばその友だちは、永遠って造花の花言葉だ、って、前に言っていた。
*
あんまり風が気持ちよいので、また別の友だちに携帯でメール。
「秋はいいなあ」って。
そうしたら、
「バロックみたいな朝だね」と、いう、返事。
*
秋は喨喨と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水こころに流れ
こころ眼をあけ
童子となる
(高村光太郎/「秋の折」)
2009.09.09
秋
ワードローブの前、もう麻の手触りに心惹かれなかった。ハイゲージのニット、アイスアメリカーノではなくあたたかいカプチーノ、くもりぞら。
むかしは曇りの日が嫌いだった。今は好きだ。やさしいから。もう、太陽の下を歩き続けるのには疲れてしまった、ということなのかもしれない。
人間というものは、飽きるものなのだと思う。永遠の愛なんて、どこかにあるのかな。
2009.09.08
「以前受講いただいた講座が本になりますので、提出物の掲載許可をいただきたく……」という電話がかかってきた。講座というのは、もう、随分前に受けたアンソロジーの講座のことで、提出物というのは、自分で編んだアンソロジーのこと。
「アンソロジーというのは、自分自身の中の球体を『これがわたしです』と差し出すようなものです」ということを講師だった北村薫先生がおっしゃっていたけれど、本当にそうなのだな、と思う。
その講座で、自分の好きなアンソロジーを発表する、という課題もあった。その時は選ばなかったけれど、この季節になると必ず思い出す一冊がある。堀口大學の『月下の一群』。訳詩集とはいえ、大學自身が訳す詩を選んでいるのだから、アンソロジーといっていいだろう。詩の採りかたとかその日本語の美しさとかリズムとか、なんというか、もう、……うっとりする。
昨日、あまりにも月が冴え冴えときれいだったので、会社からの帰り道、ほんとうは誰かにそれを伝えたかった。でも、もう遅かったので、一度は鞄から取り出した携帯電話を、そのまましまった。きっと、ほんとうにこの月を届けたい誰かがいるとしたら、もう、その人は、この月を見ているはずだと思ったのだ。家に帰り、薄いカーテンだけひいて眠った。月はそのまま高くのぼり、明け方にはうっすらと空に溶けていった。
秋風のヴィオロンの節ながき啜泣
もの憂き哀しみにわが魂を痛ましむ
同じヴェルレーヌの詩が、上田敏だと「落葉」、堀口大學だと「秋の歌」になる。金子光晴だと、「秋の唄」。小さい頃から聞いてきたのは上田敏だけれど、今は、堀口大學が好きだ。十年後は分からない。そしてわたしは、フランス語も知らない。
2009.09.04
あ、今この人に信用してもらった、という瞬間がある。仕事をしていて。
不思議なことに、それは明らかに分かるのだ。距離が縮まる瞬間、少なくとも話が分かる仲間だ、と思ってもらった瞬間というのは。それは、ふとした言葉であったり、表情だったりするのだが、なかなかうまく説明できない。
今日、少し大切な、新しいお客さまへのプレゼンがあった。話し始めて30分、最初は強張っていたその人の眉間の辺りがふうっとゆるみ、かすかに頷きこちらを向いたその時、あ、今届いたな、と思った。そして虹を見たときみたいに、気持ちが少し明るくなる。
エレベーターの前でお客さまを見送って、今日はいい日、と思う。こんなふうに始まった仕事は、うまくいくことが多いから。
2009.09.03
絶対、なんて世の中にはないんじゃないかと思う。人の気持ちとか、……そうでなくてもたとえば、会社での自分の立場とか、そもそも会社の存続とか、仕事の納期とか、自分の健康とか、愛する人の存在とか、数え上げればきりがないけれど、絶対なことなんて、なんにもないよな、と、思っている。
そういう意味では、わたしは、自分が立っている足元をあまり信じていないのかもしれない。だから、ときどきものすごく不安になる。これからどうやって生きていけばいいのか、と、得体の知れないかなしみのようなものが身体に膜を張ったようになって、背中の方がすっと冷たくなる。どこで、どんな仕事だってできる、生きていける、と思っているけれど、それでも。
でも、それとは同時に、やっぱり信じていることもある。信じている、のか、信じたい、のかは分からないけれど。
例えば、わたしはありのままのこの人のことを嫌いにならないし、この人はありのままのわたしを嫌いにならないだろう、と、思える友人たちがいる。
少し前までは、どんな人に対しても、そんなふうには思えなかった。わたしは、そもそも、自分のことを人には良く見せたくて仕方がない人間で、自分の中の嫌なところを努めて隠そうとしていた。感じよく振舞うのは、もう習性みたいなもので、「ありのままでいいよ」なんて、絶対に嘘だとそう思っていたのだ。
それでも最近、ふとした拍子に、あれ、今わたしはなにも作為がなかったな、と思う瞬間があり、そんな時恐る恐る目の前にいる友人の方を窺うとその友人は変わらずににこにこしていたりして、それが度重なると、あれ、これでよかったんだっけ、と思うほどに、本当の自分でいられることがある。
もしかしてこれって、信じている、ということなのかもしれない。
やっぱり絶対なんてないよね、と、それでもわたしは思っている。でも、たぶん、それでも、なにかを信じられる瞬間があるから、こうしてやっていけるのだろう。そしてそれって、結局のところ、わたしは結構幸せだということなのかもしれない。
2009.09.02
少し疲れていた。
朝から、社内打合せと顧客との会議がミルフィーユのように隙間なくスケジュールに入っていて、途中でクッキーをつまんだきりで、自分の席に戻っている暇もなかった。午後五時すぎ、最後の打合せが終わった頃には頭がガンガンしていて、目が回る。それでも、仕事を畳み込むように終わらせて、駅前のビルの書店で友だちと待ち合わせ。わたしは、本屋さんで人と会うのが好きだ。なんといっても、ゆるゆると自由なところがいいのだ。好きなときに入っていけて、好きなときに出られる。どちらかになにかがあって遅れたときでも、何時間だってそのまま過ごせるし。
たぶんこのあたり……、と見当をつけて歩いていった棚の前で案の定友だちを見つけ、遠くから小さく手を振るとこっちを向いてにっこりする、その顔を見て少しだけほっとした。今朝、夜の予定がぽっかりあいて、急にした約束だった。遠くからごめんね、というと、こちらこそありがとう、という。この人はいつもこんなふうに、ことさら無理するふうでなく誰かを受け入れるのだ。わたしはそうはできないなあ、とこっそりと感心する。
他人に疲れた顔は見せるな、と言われて育ったのだが、その友だちがそんな調子であるので、もはやなんの遠慮もなく、疲れたよう、と言いながらご飯。遠くまで帰る友だちの終電を気にしながら、二軒目、話した内容はもう覚えていないのに、いつの間にか澱のように溜まっていた頭痛と憂鬱はどこかへ消え、友だちと別れた後うたうように、家への道を歩いた。
2009.09.01
わたしの仕事はね、ルーターだよ、って友だちに言ったことがある。
ルーターというのはその名の通り道筋をつくるもの、という意味で、ネットワークとネットワークの間をつなぐ機械のこと。ルーターだ、というのはつまり、誰かと誰かの橋渡しが役目だということだ。人と人との間を繋ぎ、必要な情報を選んで渡し、どことどこを繋ぐのかを決めていく。何の生産性もない、と、時々嘆きたくなるけれど、最近は、結局のところ、お互いの意思疎通さえできていれば仕事って最後にはうまくいく、と信じているから、それはそれで大切な仕事なのだとは思う。
と、いうわけで、あちこちに電話をかけ、メールを出し、社内の部署を横断(縦断?)して調整し通訳をし(技術部門と営業部門のね)、こんがらがっていた話を解きほぐし、時にはさらに混乱を招き、謝って、お礼を言われ……ているうちに一日が終わった。机の上には、書類仕事がこんもり溜まっている。ぐああああ、と、給湯室でコーヒーを煎れながら伸びをしていると、後輩がひょいと顔を出して、「焼肉連れてってください」と言う。「ダイエット中だからダメ。焼き鳥。」と返事をしながら、まあ、悪くない仕事だよな、とも、思った。