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2010.01.28
まだ季節はすっかり冬だというのに、やけに空気が暖かくて少しおかしな気持ちになる。暖かな雨が降る。どうも体調がすぐれなくて、なにも食べたくない。オレンジジュースとヨーグルト、薄くつくった温かいカフェオレ。こんな調子なので仕事がはかどるわけもなく、外出から帰ってきた自分のデスクでついついぼんやりしてしまう。
1月ももう終わり、2月には一年に一度の大きなイベントがあり、3月は年度末で、逃げるの去るのと言うまでもなく、気ばかりが急く。
2010.01.27
ここ数日、夜ごと輝きを増す月が気になって仕方ない。
2010.01.26
ナイポール
ナイポールを読んでいる。
旅に出る前、友人から進められたのに手に入れられなかったので、今になって。
以前さらっと読んだことはあるのだけれど、その時と今とは受け取り方がまるで違うのが面白い。……そしてそのころのわたしは、インドなんて、一生行くことのない国だと思っていた。わたしは、70年代を生きる若者ではないのだし、バックパッカーにもなれない。それは今も同じだけれど。
ナイポールはイギリスの作家だが、当時イギリス領だったトリニダード・トバゴのインド人の家系に生まれている。だから、なのだろうか、彼のインドへの距離のとり方、……一定の距離を置いているのに、時折身体に染み付いた親しみのようなものがふっと顔を覗かせる、その感じが、妙に染みる。越境というのとは違う、そもそも生まれながらにして狭間に立っている感じ。好むと好まざるとに関わらず、宿命的に異国というものを身体に住まわせている。つまり、存在自体が、旅なのだ。
2010.01.25
インドの残り香、忘れられない
会社に出社すると、皆におかえり、と言われるのが嬉しい。まだ左手にくっきり残っているメヘンディが少しだけ後ろめたい。しかし、そこだけまだ、インドの香りがくっきりと残っている。
*
ガイドブックも買わずに行った。しかし張り切って、カフカを二冊、志村ふくみさんのエッセイを一冊、iPodにグールドのバッハと邦画を山ほど持って行ったのに、少しのカフカとグールドだけで過ごした。そして行きの飛行機の中見た、"THIS IS IT"が忘れられない。
2010.01.24
人生
昨日のこと、インドから帰ってきてみると、一通の封書が届いていた。夢のような手紙だった。
人との出会いが人生を変えるのだ、と、思う。
2010.01.23
インドゆき(おぼえがき)
ところで、もしかしたらインドの情報を求めて検索してくる方がいるかもしれないので、いくつか書いておきます。(2010年1月現在の情報)
【旅支度と準備について】
・1月の南インド(チェンナイ)は、日本の初夏くらいの気候でした。半袖でOKですが、室内ではクーラーがものすごく効いているところが多かったので、長袖の羽織るものは必須かと思います。わたしは半袖の上に薄い麻のジャケットを羽織っていましたが、それでも度々クーラーが寒くて震えました。
・蚊がたくさん飛んでいますので気になる方は虫除け&虫さされの薬を。
・ウエットティッシュとポケットティッシュは常備するのがおススメ。
・わたしはお腹は壊しませんでしたが、胃腸薬を持っていったほうがいいかも。正露丸は効かないそうです。できれば事前に病院で処方してもらった方がよいです。
・パスポートとヴィザのコピーをとっておくのを忘れずに。
・お土産には、折り紙やボールペンを。
・日本ではルピーは両替できません。現地の空港やホテルなどで円→ルピーの両替が出来ます。余ると再両替が大変なので、小まめに両替した方がいいかも。ホテルや大きなレストラン、マーケットなどではカードが使用できます。
・女性は、足を出さない服装が無難です。ミニスカートやショートパンツは絶対おススメしません。滞在中、足を出している人は本当に一人も目撃しませんでした。
・基本的に英語は通じます。ただ、向こうでは、同意を表すときに首を傾げるような動作をするので注意(←わたしも事前に友達から聞いていて助かった)。
・可愛い犬を見ても手を出さないこと。(狂犬病の危険があるので)
・ラッシュ時は渋滞がすごいです。時間が決まっている場合、早目早めの行動を。(たぶん時間の感覚が大幅に違います。30分くらい……と言われた道のりは大抵1時間半くらいかかりました。いつも大体所要時間三倍くらい。車の移動時間に限らず。)
・のど飴&腹巻きが大活躍しました。
【食べものについて】
・辛いものが苦手な方はレトルトのおかゆを持っていきましょう。
・生水は決して飲まないこと。飲み物に入っている氷にも気をつけて。
・ペットボトルは蓋が開いた形跡がないかよくよく確認してから飲むこと。
・チェンナイに日本食レストランは3軒あるそうです。
・トマトのパスタを頼んだら、スパイスがたっぷりかかって出てきました……。
・基本的に、右手のみで食べます。気になる方はウェットティッシュを。左手はテーブルの上にさえ出してはいけない、と事前に聞きましたが、現地の人をじっと観察したところ、そうでもなかったような……?
・お酒を飲む習慣はありません。お酒自体をおいていないレストラン多し。
・紅茶を頼むとき「レギュラー」はミルク入り、「ブラック」はストレートです。
・デザートはものすごく甘いです。食事のときにも、時々、ものすごく甘いスープなどが出てきます。辛いにしろ甘いにしろ味が濃い。
・あ、でも、わたしは結構美味しくいろいろ食べました。
【物価について】
・2010年1月現在、1ルピー≒1.95円くらい。大体2倍です。
・ホテルのレストランでパスタ一皿=300ルピーくらい、手に描いてもらったヘナ=50ルピー、ココナツジュース=15ルピー、インドシルクのサリー=600ルピー~、レストランの伝票発行システム=30,000ルピー、3ベッドルーム、ホームシアター付の豪邸=17,500,000ルピー、旅の思い出=Priceless
インドゆき(3)
部屋に戻ってサリーを脱ぎ、日付が変わったころにホテルを出た。午前三時の飛行機でインドを発つ。
空港はすごい人だった。チェックイン・カウンターには長蛇の列、その後の出国審査も然り。余裕を持って到着したはずなのに、出発時刻は刻一刻と迫っていて、少し気が急く。
出国審査のカウンターを通った後、スタンプをパスポートに押してもらうのでさらに並んだり、手荷物のチェックに使うトレーが一つしかなかったり、まあ、なんというか、全てがシングルタスクなのだ。何たる非効率、と嘆きたくなるのはこちらの勝手な理屈だろうか。
出発ロビーに出たところで、「桃さん!」と肩を叩かれた。見ると、昨日(というかつい何時間か前)にサリーを着せてくれたナターシャさんがニコニコと立っている。香港に住む彼女も、同じ便に乗るのだと言う。わたしは彼女のひまわりみたいな笑顔を見てパッと気持ちが明るくなり、手を振って離れていった彼女を追いかけていって自分の名刺を渡した。日本にきたらご飯を食べに行きましょう、連絡してね、と言って。……わたしが、強く心動かされるのは、やっぱり人に対してなのだ。人をどこかに繋ぐものがあるとしたら、それはやはり人でしかないと思う。
*
飛行機に乗り込み、ブランケットをかぶって思う。旅はつくづく個人的なものだ、と。 わたしが語れるのは旅そのものではなく、抽象化された旅でしかない。
旅はいつも結局はひとりきりのものなのだ。けれど、心細く、たったひとりで、肌に刻んでいくことしか出来ない旅というものを、わたしはだから好きだと思う。そして、できることなら本当に、この旅を、誰かに伝えたいのだと希うように思う。できることなら、肌に触れた空気を、見た色を、吹いた風を、そのままここで取り出して見せたいのに、と、なにか心がちりちりと焼け付くように、強く思う。
*
乗継をして、成田に着いたのは夜も遅くなってからだった。荷物が出てくるターンテーブルで、その荷物が取りやすいように、そっと持ち手を上にして並べられているところを見て、これが日本、と思う。数日前、投げ出されたようなかたちのまま流れてきた荷物のことを思い出しながら。
最終の成田エクスプレスで帰る。寒くて、立てたコートの衿を掻き合せながら、星を見上げて家までの道を歩いた。
2010.01.22
インドゆき(2)
朝食に降りるとき、同僚の部屋のベルを鳴らしたが反応がなかった。昨日、もしかしたら遅くまで飲んでいたのかもしれない。わたしが皆の部屋を出たのが午前1時過ぎ、残ったメンバーはまだまだほんの宵の口、といった風情だった。
エレベーターで今回同行しているお客さまとバッタリ一緒になって、昨日何時まで飲んでたんですか、と聞くと、ああ、確か五時くらいまでだったかなあ、と言う。しかも時差ボケなのか眠ったと思ったら起きちゃったし、殆ど寝てないよ、と。心なしか、腫れぼったい目をしている。早々に部屋に戻り、しかも今日も目覚ましが鳴るまで夢さえ見ないで眠ったわたしは少し後ろめたい気持ちになって、コーヒーでも頼みますか、と、言った。
インドの結婚式は、三日間ほど続くらしい。しかも、今日は朝五時から始まっているという。びっくりして、朝五時からが普通なんですか、と聞くと、それが普通というよりは、その日の惑星の動きによって結婚式を始めるのに相応しい時間が決められるのだと言う。ナタさんは、もちろん五時から参列しているが、わたしたちは夕方少しだけお邪魔させてもらう予定になっている。
午前中はナタさんのお兄さんに案内してもらい観光。ナタさんのお兄さんもかなり流暢な日本語を話し、こちらで日本語の先生をしているそう。カーストの「ブラフマン」は、本来聖職者の意味で、厳密にベジタリアンだということが多いのだというけれど、お兄さんも、魚や鶏卵も食べないピュア・ベジタリアンで、肉どころか葱やにんにくも食べない。「落ち着いて祈れなくなるので、食べないのです」、という、その物言いが静かで、それでも俗世離れをしているのとは少し違う。
車の中で靴を脱いで、シヴァを祀る寺院へ。シヴァは破壊の神であり踊りの神、シヴァの子どもはガネーシャとカールッティケーヤ……、という説明を聞きながら、お兄さんに促されて本尊へ。その建物に入った瞬間から祈りの声があちこちから聞こえ、わたしは思わず、誰に言われたわけでもないのにふっと手を合わせていた。トンネルのようになった暗い奥の方に白くぼんやりと座っている何か、それがシヴァ神だという。ゆらめく蝋燭の明かり、響く祈りの声、人々が手を合わせる姿、そこここに置かれた神々……。あそこには確かにシヴァがいる、と思った。そして誰もわたしたちを咎めだてはしなかったけれど、異教のわたしはふと心苦しくなり、痺れたように鳴る頭を抱えながらそこから出る。裸足の足を見つめ、歩きながら、わたしは、これはもはや宗教ではない、と、思っていた。
カースト制度はもう廃れたし、法律的にはもう意味はない、今は殆どの人たちが最上級のブラフマンを名乗っている、という話もよく聞くが、実際に現地で見聞きした限りでは、まだカーストの影はあちこちに残っている。お兄さんは、やはり同じカーストの人とのお見合い結婚で、結婚式当日まで花嫁の顔も見なかったと言うし、それはナタさんも同じだそうだ。そして、「カースト制度は気分がよくない」と、お兄さんが顔を曇らせるそのことこそ、カーストがまだ根強く残っている証拠なのではないかと思う。
まだまだ日本人が珍しいのか、車に乗って移動しているだけで、いろいろな人の視線を感じる。すれ違ったバスの中、可愛い男の子がこちらを見ていたから思わず手を振ったら、いつのまにか、バスの中の全員が、こちらに向かって手を振っていた。
*
寺院を出た後、立ち寄った小民家が連なる部落で、縁側に座った女性から、「ヘナ、やらない?」と聞かれた。まあここに座りなさいな、というように、自分の隣をぽんぽんと叩く。思わずそこに座ると、チューブのようなものから茶色い染料を搾り出しながら、彼女はわたしの手と腕に絵を描いていく。
「孔雀よ、これ」と言いながらあっというまに美しい模様がわたしの腕に出来上がっていき、いつの間にか周りに出来ていた人だかりから、歓声が聞こえる。
*
午後、ミーティングを兼ねたランチで市内のレストランへ。ここで、システムのデモを行い、実際の話を聞くことになっている。シーフードを使ったそこの料理は、とても美味しかった。インドに来てからと言うもの、食べもので辛い思いをしたことは一度もない。
デモをする前までは、インドの飲食店にわたしたちのシステムなんて、と少し思っていた。そもそも文化が違うのだし、オペレーションだって違うだろう。ところが、話し始めて少し経つと、出てくる質問質問が的を射たもので、しかも、日本の……それもかなり高いレベルのサービスと売上分析をしている店舗と殆ど同じ考えを持っている。マス分析ではない顧客管理の仕方、サービス料の分配方法、売上の計上と支払方法の選択についてや、税金の計算と表示のやりかた、など。
わたしははじめびっくりして、それから段々と楽しくなって、次々といろいろなことを話した。日本から来た、海のものとも山のものとも分からないシステム会社とのミーティングに、二十人近くが集まってくれるところがインド的といえばそうだが、なんとここにいる人たちは、やっぱり皆仲間なんだな、と思う。仲間というのは、同じ仕事を持ち、同じテーマを持ち、同じような目的と希望を持った人たちだということ。
仕事が人を繋ぐ、システムが人を繋ぐ、ということがこうしてあるのだ。システムが媒体になり、人が交わり何かが広がっていく。
お店で今使っているというシステムを見せてもらい、その完成度の高さにまたびっくりする。よくできている。ほんの少し手直しすれば、日本でもこのまま使える、と誇張でなく思う。まだチェンナイ市内で、このシステムを使っているところは数店舗しかないそうだけれど、それでも。
がっちりと握手をして、手を振ってお店を出た。皆興奮気味に、いいお店を紹介してもらったね、面白かったね、と口々に言う。わたしも、気分がすっかり高揚していた。ただ机上で話していたときとは違う、手触りのようなものを感じたからだ。そして手に触れたそれは、言ってみれば希望というものの、あるひとつのかたちだった。
*
ホテルに戻り、荷物を置いてから結婚式場へ向かう。きらきらの電飾、派手な建物。インドの結婚式は皆踊っているのだと聞いたけれど、そんなことはなく、大きなふろあにたくさんの人がひしめき合っていて、舞台の上に新郎と新婦が立っていた。
舞台の上ではなにやら儀式めいた祈りが行われ、それをカメラが追いかけ、舞台の左右に設置された大きなモニターに映し出されていた。
こっちこっち、と手招きするナタさんに、この人がサリーを着せてくれるからね、と美しい女性を紹介される。ハロウ、と言いかけると彼女は先ににっこり笑って、「わたし、ナターシャです。はじめまして」と、言った。
会場の脇にある階段から上ると、ホテルの部屋のような雑然とした部屋が現れ、さらにそこから階段で上り、同じような部屋で着替えさせてもらう。ナタさんが持ってきたサリーを検分しながら、ナターシャさんが、あれ、ペチコートがないよ、と叫ぶ。サリーを着るにはね、ブラウスとペチコート、それとサリーが必要なの。ペチコートがないと着られない、ペチコートにサリーをはさんで着るのよ、と言う。ナターシャさんはしばらく腕組みして考えた後、しかたない、そのジーンズでやってみましょう……やったことないけど、と言い、ゆるく履いていたわたしのデニムを試す眇めつしてから、ちょっとベルトをきゅっと締めてみて、と言った。
サリーは一枚の長い長い布で、それを身体に巻きつけて着る。お腹にぐるっとひと巻きしてからプリーツをつくり、肩にかける。ぎゅっとデニムのウエストのところに端を挟み込み、全体の形を整えこちらを見ると、ナターシャさんは、よかった、結構上手くできた
じゃない、と笑った。
着るのにほんの三分くらい。どこも苦しくないし、歩きにくくもない。なにせ布を巻いて挟んでいるだけなのだから脱げないか心配だが、意外にもしっかり着付けられていて、ラジオ体操したって大丈夫そうな感じ。……しないけど。
ナターシャさんは最後にビンディをつけてくれると、さあ下へ行きましょう、写真たくさんとらなきゃね、と言った。
*
食事は、ミールス、と呼ばれる、バナナの葉に盛られた正餐だった。なぜか横一列に並べられた長い机、そこに座って食事を取る。バナナの葉の前に座ると、次々にバケツに入った(!)お料理が運ばれてきて、盛り付けられる。もちろんフォークもスプーンもない。右手で食べるのだ。
なんというか、広い広い食堂、そこに並べられたテーブル、横一列に並ぶ人たち、次々に目の前に盛られる食事、その全てが、わたしの知っている結婚式、というものとは違ってびっくりする。ふと隣を見ると、新しいスーツを着た上司が、情けない顔をして右手を口に運んでいた。ヨーグルトで炊いたご飯、ココナツミルク入りのカレー、ドーサ、甘いチャツネ(のようなもの)、ブロッコリーを揚げたもの、などなど。ホテルの料理とは違い、外国人用に調整されていないのだろう。甘さにしても辛さにしても強烈で、わたしは甘いものと辛いものと交互に食べながら、時々は予想が外れてさらに辛い思いをしながらもくもくと食べる。美味しかった、というより、面白かった、と正直に言った方がいいだろう。毎日これを食べていたら、きっと好きになるだろうけれど。
外の水道で手を洗いながら見上げると、月が見えた。夜の色が濃い。
2010.01.21
インドゆき(1)
チェンナイ国際空港に到着したのは、午前1時を少し回った頃だった。入国審査を通過し、預けた荷物受取のターンテーブルの前で、わたしは不安な気持ちで荷物が出てくるのを待っていた。ターンテーブルの前の人垣はなくなり、ちらほらと人が残るばかり。最初の荷物が流れ始めてもう、三十分ほど経つだろうか。わたしのスーツケースは、いつまでたっても出てこなかった。
荷物の出口に目を凝らしながら、もし本当に荷物が出てこなかったらどうしよう、と考える。どうしても必要なのは、パソコンとデモのための資料だけれど、最悪、パソコンは現地で誰かに借りよう。日本語のフォントセットはないだろうから英語だけで何とかするしかない。資料は、メールで送ってもらえばどこかで受信して印刷できるだろうか。薬は替えがないけれど、これ以上症状が悪化しないことを祈ろう。……たぶん、大丈夫。ただのいつもの風邪なのだし。しかし、荷物が出てこなかったときの手続きのことを考えるとうんざりする。英語は通じるだろうか、荷物はどこへ行ってしまったのだろう、どちらにしろ、ホテルに着くころには朝になってしまうだろう……。
そんな悲壮な覚悟をしていたのだが、最後の最後でわたしのスーツケースは無事に姿を現した。グローブトロッターの、紺色のトローリーケース。よく出てきたねえ、と、頬ずりしたい気持ちになりながらピックアップし、税関を抜ける。
*
出迎えのホテルの人に連れられ、駐車場まで歩く。夜中だというのにすごい人。彫りの深い、浅黒い顔の人たち。床で寝ている人もいれば、大声で話している人もいる。わたしは圧倒されながら、人ごみを掻き分け、歩く。
インドの空気は違うのだと、出発する前に誰かから聞いていた。わたしは大きく息を吸ったが、それはすんなりとわたしの肺を満たし、身体に溶けていった。
ホテルまでは二十分ほどだという。夜が深い。道路は広く、車線など関係なく、車は走って行く。クラクションがずっと鳴っていて、しかしそれは耳障りというよりは、あたりまえの音のように聞こえた。
なんて快適なんだろう……、とわたしは思い、その気持ちの裏にあった覚悟のようなもの、つまりインドという国に行くからには、何かしらの不便や我慢を強いられるのだろう、という思いが少しずつ消えていくのを感じていた。ホテルの車はすみずみまでよく手入れされていて、シートは革張りだった。迎えに来てくれた運転手さんはかっちりした制服を身にまとい、丁寧な英語を話す。ビジネスで来ているのだ、バックパックを背負う旅ではないのだから……、と思いながらも、わたしはなにか気が抜けたような、何かが物足りないような気持ちで、深い夜を眺めていた。
*
ホテルに着いたのが三時過ぎ、簡単にミーティングをして、シャワーだけ浴びて眠りに着いたのが四時ごろだろうか。ホテルの部屋は快適で、何も不自由はなかった。うがいをしようとして水を口に含んだとたん、その味の強さにびっくりする。そういえば、歯を磨くのもミネラルウォーターを使ったほうがいいと言われたんだっけ。少し軽はずみだったかな、と思いつつ、そのままうがいをしてコップを置いた。
一旦ベッドにもぐりこむと、目覚ましが鳴るまでぐっすり眠った。
*
朝、身支度を整えて朝食に降りる。途中で同僚の部屋をノックし、ダイニングに行くと、先に到着していたお客さまと上司の姿が見えた。隣の席に座り、紅茶を頼む。レギュラーかブラックか、と聞かれたのでブラックと答える。出てきた紅茶は、確かにこれはブラックだ、と思うような、とても濃い紅茶だった。
インドはヒンドゥー教の国で、宗教上の理由で菜食主義の人が多いのだという。お酒も煙草も基本的にはやらない。ホテルの朝食はビュッフェだが、やはり、ベジタリアン、ノンベジタリアンとコーナーが分かれている。
ぐるっとひととおり出されている食事を見て、パパイアの生ジュース(ホテルだから大丈夫だろう)と、温野菜をとった。シェフが立っているので、何をつくってくれるのか聞いたところ、オムレツとドーサだという。ドーサというのは、お米の粉で作ったクレープのようなもの。折角なのでドーサを焼いてもらい、なにか適当にカレー(のように見えるスパイスの入ったスープ)につけて食べる。このドーサはお米でできているだけあってやさしい味で、この後も何度も好んで食べた。
恐れていたほどスパイスもきつくなく、中でも野菜は美味しくて、おかわりまでした。後で聞いたら、南インドの料理は米中心で、日本人の口に比較的合うのだという。ココナツミルクとココナツオイルの香り、ひよこ豆を煮たもの、お米でつくったドーサなど。
結局のところ、旅をするということは、その国の空気を吸い、ものを食べ、水を飲む、そういうことなのだ。そして少しずつわたしの細胞も、チェンナイのものに入れ替わっていく。
朝食を終え、支度をしてロビーまで降りると、ナタさんが迎えに来てくれていた。ナタさんと始めて会ったのが年末のこと、それから一月もたたないうちに、わたしはインドに来てしまった。しかし物事が始まるときと言うのは、こういうものなのかもしれない。
ナタさんは、インドの大学を卒業してから日本の大手企業に入り、その後独立して自分の会社をつくり、今は日本とインド、ヨーロッパに支店を持っている。日本語はペラペラで、カーストで言えばブラフマンなのに、お酒も飲むし肉も食べる。独立する前は、年収二千万クラスのコンサルタントだったという。
普段は日本に住んでいるナタさんだが、友だちの結婚式に出席するために一時帰国する、それに合わせてインドのオフィスで協業の話をしましょう、というのが今回の趣旨だった。
ナタさんはこちらに気づくとにっこり笑い、なにも問題はありませんでしたか、という。全く問題ありません、全てが快適で、と答えるともう一度にっこりして、それではそろそろ行きましょうか、と言った。
ホテルはチェンナイの中心部にあり、ナタさんのオフィスはそこから少し離れた海の近くにある。ナタさんの会社の車に乗り込み、オフィスまでの道を行く。これがなかなかすごい。広い道路に、ずっとクラクションの音が鳴り響き、秩序もなにもなく、ただ車が前に進んでいく、という感じ。ものすごいスピードで車を追い越しながら進んでいくのだが、何度も、これは正面衝突するのではないかとひやひやした。それでも事故は一度も目撃しなかったのだから、インドの人の運転技術はたいしたものなのかもしれない。
ものすごいスピードでバイクに乗っていく人たちはヘルメットさえかぶっておらず、オートリキシャにはドアはなく、バスにももちろんドアがなかった。よく誰も振り落とされないものだ。サリーを着た女性たちは、バイクの後ろに横座りして長い布を風に揺らしている。バイクに乗る人たちの足元が皆サンダルで、わたしなどひやひやしてしまうのだが、皆平気な顔をしていて、終いにはわたしも慣れてしまい、靴などわずらわしいという気になってしまうのだから不思議なものだ。
これはITロードと言われているんですよ、という立派な道路でさえ、牛が達観した顔で誰に連れられるわけでもなく歩いている。しかも、牛が道路を悠然と横切っていくのを皆きちんとよけて走り、あたりまえなのだが、誰も騒いではいなかった。
この道路は十年前にできました、ちょうど十年前からいろいろな整備が始まっています、とナタさんが言う。それを聞いて、十年前に来たかったな、とちらりと思ったが、それこそ、それはわたしのエゴなのかもしれない。
道端の屋台で果物を売る人がいる。電柱が林立し、電線が垂れ下がっている。人々が、どこへ行くでもなく道に佇んでいる。
つきましたよ、と言われて入ったビルは、東京の基準で考えても立派なオフィスビルで、入り口のドアには生体認証のユニットがついていた。しかしそのビルのすぐ横では、野良牛が水溜りから水を飲んでいる。このギャップ、と思う。
数年前から、インドのITはものすごい勢いで進歩していて、実際、ナタさんの会社では殆ど日本向けの開発を請け負っているが、バグもほとんどないという。オフショア開発、というと、上流工程と下流工程の意思疎通が大変だというイメージがあるが、教育と体勢作りで品質はいくらでも向上させることができる、ということだろうか。
しかし、日本人エンジニアとしては微妙な心情である。インドの人口は約十二億人、そのうちの何割かがITエンジニアになったとして、優秀なプログラマーはこれからどんどん増えるだろう。オフショア開発の割合が今後増えてくるのは確かなことで、そうしたとき、安い人件費でつかえる優秀なプログラマーのところに仕事が流れるのは当然のことだ。そういう意味では、日本で暮らす日本人プログラマーに、質でも量でも今後も今と同じ仕事が残る可能性はとても少ない。もはや国内だけで競争していればいい時代ではないのだ。
ビジネスの世界で勝ち残ること……、わたし自身の本当の気持ちで言えば、そんなことに興味はない。しかし自分が仕事をして食っていかなければいけない以上、自分の価値をどうやって保持していくかは考えざるを得ない。いや、自分の価値だけではない。自分の会社の価値、それをどうやって高めていくかを、考えていかなければいけない。
その結果のひとつが今回のインド行きなのだけれど。
ケーブルを繋げばすぐにインターネットが繋がる環境で製品のデモ。協業の可能性がどれだけあるか、今の時点では楽観的な見込みしか出ていないけれど、本当は今後どうなのかは、まだ分からない。
*
仕事を終え、結婚式へ向かうナタさんを見送り、わたしたちはナタさんの共同経営者であるチェナンさんの家へお邪魔する。ここがわたしの家です、と言われて見上げたその建物は、大袈裟ではなく、白亜の豪邸、といった感じ。マンションだと言われても信じただろう。家の真ん中にプールがあり、ホームシアターやゲストルームが何室も。メインのキッチンだけでうちのリビングより広い。バスルームだって、広すぎて落ち着かないんじゃないかと思うくらいだ。
わたしたちは半ばあっけにとられて、言葉少なに、プールを見ながら、奥さんが入れてくれた甘くて濃い美味しいカフェオレを飲んだ。
上司が、ぽつりと、日本じゃ一生働いてもこんな家に住めない、俺の人生一体なんだったんだろう、というのを聞いてそれがおかしくて、みんなで少し笑った。
日本とインドの物価の差がどれだけあるかは正確には分からないが、この家の土地と建築費を合わせた金額は日本円で三千五百万程度だという。金額だけで言えば、わたしの家より安い。しかし、この差は一体なんなのかといえば、一言で言えば狭間から生まれる差なのだと思う。越境に伴って、お金は価値を変え伸びたり縮んだりする、そのギャップを上手くつかえば、こういう豪邸が建つということ。そしてそれは、ただそういうことがある、というだけで、羨むことでも嫉むことでもない。
しかし、BOSEのスピーカーが備えられた立派なホームシアターを案内しながら、皆この部屋には寄り付かない、だから一人で見るんだけど、それもちょっとさびしいものだよね、と肩をすくめて言うチェナンさんはなんだかとても感じがよくて、わたしたちはすっかり彼のことが好きになってしまった。
家はまだ建築途中で、沢山の人が出入りしている。屋根の瓦を張っている人がいれば、芝を植えている人がいる。チェナンさんの家を出るとき、その人たちは皆一様に、夕陽を浴びてきらきらと光っていた。
2010.01.20
インドゆき(0)
夜中、ダイニングの床にスーツケースを広げながら、ぼんやりと途方に暮れていた。何が必要なのか途中ですっかり分からなくなり、Tシャツを出したり入れたりしながら、時間だけが過ぎていった。スーツを一着、モノクロのフィルム、カメラ、アロマオイル、処方してもらった抗生物質と咳止め、もしものときの解熱剤、ノートパソコンと、バッテリー……。結局はいつも自分が使っている好きなものだけを詰め込んで、スーツケースを閉める。山奥に行くわけではなし、短期間の出張なのだし、なんとかなるだろう。
それでも、朝起きたとき、もう心は旅に向かっている自分、それを楽しみにしている自分に気づいて苦笑する。自分は、進んで外に出て行く人間ではないと思っている。本質的に、臆病だし内弁慶なのだ。(ずっと若い頃はそれを格好良くないことだと思っていて、努めてそうではない自分を装っていたのだけれど。)それでも、旅に出ることは、つかのま、いつもと違う新鮮な空気を吸うことに似てて、肺は冷たく痛むし、指先は震えるけれど、同時にそれを楽しみにする自分がいる。
昼過ぎ、行ってきます、と会社を出て空港へ向かった。成田空港。空港に向かうときはいつも、初めてそこから旅立った小学生のころのことを思い出す。何年生だったのだろうか、あれは夏だった。パスポートは父と一緒で、行き先は姉が留学していた北京だった。海外旅行が今ほど気軽ではなかった頃だった。わたしは新しく買ってもらったワンピースなど着て、父に手を引かれて出国のゲートをくぐったのだった。あれからもう、二十五年近く経つ。それから何年か後に、イギリスの中学校に行くことになり、今度は一人で日本から出た。それ以来何度となく成田から飛んだが、越境ということには、今も慣れない。
成田からチェンナイへの直行便はない。今回は、香港で乗り継ぎすることになる。成田・香港が約五時間、香港・チェンナイが五時間半。日本を夕方四時過ぎに発って、チェンナイに着くのが現地時間の夜一時半。
オンラインでチェックインを済ませていたので、気が抜けるほどあっさりとチェックインが終わり、出国ゲートを通り出発ロビーに出た。会社でプリント・アウトしてきた搭乗券を見せ、パスポートを差し出し、それでおしまい。こと日本からの出国に関しては、どんどんと手続きが効率化されているように思う。列に並ぶこともほとんどない。たぶんいつかは、身体のどこかに埋め込まれたICチップか生体認証で、ゲートを通り過ぎるだけで出国審査が済む日がくるのだろうと思う。そしてそれは、そんなに遠くないことなのではないだろうか。少なくとも技術的には、もうそれが実現できる状態にあるはずだから。
定刻に飛行機は飛び発ち、わたしはシートに身を沈めたまま、本を開くわけでも、眠るわけでもなく、ただぼんやりとこれから先のことを考えていた。前へ向かって飛ぶ飛行機の中では、過去への後悔はなく、先のことしか考えられない。インドの……チェンナイの空気のことを考えながら、機内の夜を過ごした。
2010.01.19
・金曜日の夕方、高熱(39℃)
・一晩で熱が下がり、インフルエンザ検査の結果は(-)
・土曜日一日は元気
・日曜日、微熱及び咳+喉痛
・咳止め及び抗生剤服用中。症状一時沈静化。
・明日からインド。用意手つかず←今ココ
いざとなったら、行かないという決断をせねばなるまい。
2010.01.13
旅行記
インドに旅したことのある友だちが、いいなあ、インド、と言う。昨日の会合以来、単純なものですっかりインドが楽しみになってしまったわたしはそれを聞いて、余計心弾ませながら書店で、薦められた本などを買う。
夜、湯船に浸かりながら中谷美紀のインド旅行記を読んでいて、それは率直でとても面白く、わたしは中谷美紀という人まで以前よりずっと好きになったが、結局のところ旅行記というものは、どんな人でも最後には自分で書くしかないのだな、と思った。
2010.01.12
起きたとき少し寒気がした。今日は早く帰ってこよう、とその時思ったのだけれど、パソコンを立ち上げると、今夜、インドのスケジュール確認も含めて新年会でもいかがですか、というメールが届いていた。ありがとうございます、参加します、という返信をして会議へ向かう。今風邪をひくわけにいかない、少し困ったな、と思いながら。
それでも、練習だと言われて行った南インド料理のお店はとても美味しくて、今回同行する他の人たちとも会えてそれが皆気持ちのいい人たちだったものだから、ついつい時間を忘れて話し込んでしまった。お店の人が、そっと閉店の時間だと告げにくるまで、わたしたちは時計を見ることさえ忘れていた。
そういえば、右手だけでものを食べる練習だといって頑張っていたのだが、四苦八苦しながらふと、今回一緒に行くインド人のナタさん(ヒンドゥー教徒)の方を見ると、すました顔で両手でチャパティなどちぎっている。わたしの視線に気づいたナタさんは肩をすくめて、子どものように少し笑ってから、またすました顔でワインを飲んだ。
2010.01.11
帰ろうかな、どうしよう
なくなってしまったウェンディーズの跡を、悲しい気持ちで眺める。買いものに来たのに、なにも買う気になれずに明るいお店の中をうろうろとする。何が必要かって、本当は、もう、なにも必要ないのだ。自分でもそれが分かっている。小さなクッキーだけ買ってお店を出ると、もう、日が、暮れていた。
帰ろうかな、どうしようかな、と少し迷って、それでも誰かが入れてくれたお茶が飲みたくて、いつものお店へ。連休の最終日は、どこのレストランも売上確保に苦労するのだ。少しくらい貢献して帰ろう……、というのは自分への言い訳だけれど。
シフォンケーキと、しっかり淹れてもらった濃い紅茶。ここ何ヶ月も、モームの『サミング・アップ』を鞄に入れているのだけれどちっともはかどらない。しかし、さっき立ち寄った書店でも、なにも読みたいものがなかったのだ。本を読むのはあきらめて、椅子に深く座った。インド行きの準備を、そろそろしなければならない。インドの紅茶は、きっと、美味しいだろうと思う。
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友だちからメールが届いていたのに気づかなかった。「昨日はどうもありがとう、渡したかったものを忘れていたので、玄関先においておきました」だって。見ると、平べったい箱が、戸口に立てかけられている。付箋で貼り付けられたメッセージを読んで、少し笑った。
家に入って廊下に座り込んで開けてみると、それは白い額に入った絵だった。なんともその友人らしくて、わたしはその絵を持ったまま、指先でお礼のメールを送る。
2010.01.10
トラックでラーメンを食べに行く
昨日見た、井上雄彦の展示が忘れられない。忘れられなくて、ぼんやりと朝を過ごす。今日もいいお天気。洗濯機を回しておいてから、部屋に風を通す。寒いけど。
そうこうするうちに、いくつか家具をあげる約束をしていた近所の友だちがトラックに乗って登場したので、荷物を積んだあと、借りたのだというその大げさなトラックに乗ってラーメンを食べに行く。美味しかった。トラックでラーメン、というのがまたよい。
後で買いものに出かけよう、ついでにコーヒーを飲みに行こう、と思っていたのに、友だちから借りた本を読みながら眠ってしまい、目が覚めるともう日が沈んでいた。それから出かける気にもなれず、冷蔵庫を開けるとなにもなかったので、オリーブオイルでしめじとベーコンを炒めてパスタを茹でる。パスタ鍋からもうもうと立ち上る湯気を見ながら、自分の指先が随分と冷たいことに気づく。
2010.01.09
いちにち
朝、駅のホームで空を見上げたら雲ひとつない、冬の青空。指先は冷たいけれど、息を吸うと澄んだ空気が胸の辺りですうすうして気持ちがいい。日向で空を見上げながら電車を待つ。
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行くところをいくつかだけ決めて、友だちと散歩。両国からスタートして、回向院を通り、木場の現代美術館に寄って、月島でもんじゃ焼き、銀座で写真展、浅草で善哉。
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現代美術館のパブリック展示は素晴らしかった。作品に共鳴するように歩き、立ち止まり、また歩いて、その共鳴を断ち切るように太刀が振り下ろされる。力のある作品というものはそのものだけはなく、受け手も含めてひとつの物語にしてしまえるのだな、と、思う。
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お正月の浅草はすごい人だった。お賽銭を投げて、手を合わせたがなにも願いごとが思いつかない。最近、いつもだ。そしていつも結局は、皆が幸せでありますように、とだけ、ねがう。引いたおみくじは大吉、たびだちよし。
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友だちと手を振って別れた後、また別の友だちといつものお店でビールとワイン。カウンターで、皆にこにこと笑っている。知り合ってもうすぐ十五年ほどになる同い年の友だちが、あの頃は若かった、何も判ってなかったよ、と困ったようにいうのにほろほろと笑いながら夜が更ける。
2010.01.08
T.G.I.F.
それにしても、インド、インド、と昨日からインドのことばかりを考えている。出張に行くのに、こんなに緊張するのは久しぶり。終いには、「行きたくない……」と口走って後輩に笑われる。そういえば、「知らない」ということは、「恐い」ことなんだった。
自分はもう若くないのかもしれない、とふと思う。昔だったら、仕事で海外、なんてたとえ行き先がどこであっても喜んで行ったものだったのに。今は頭で先にいろいろ考えて、腰が引ける。自分の範囲内の仕事に慣れるのは悪いことではないけれど、しかし、心を錆付かせてしまってはいけない。
夜、新年会しましょうよ、と言われて川沿いの居酒屋でビール。一月からの組織変更で、配属のプロジェクトが変わった。みんないろいろ思うところがあるのだろう、後輩の愚痴などを聞く。わたしにはできることとできないことがあって、できれば皆ハッピーに仕事をしてほしいけれど、いつもそういうわけにはいかない。いろんな人の思い、思惑であっちにいったりこっちにいったり、それを傍で見ていて、道を大幅に逸れそうになったら調整するのがわたしの役目だ。
終電を逃したので誰かのうちに泊まる……、と騒いでいる皆に手を振って一人で駅までの道を歩いた。冬の夜はきれいで、気持ちがいい。金曜日の終電だというのに、電車が妙に空いている。
2010.01.07
インドゆき
それが仕事で、その必要があるなら、行けと言われればどこへでも行く。……つもりではいるのだが、突然「月末にインドね、明日パスポート持ってきて」と言われたらさすがにびっくりする。気配があったといえばそうなのだが、すっかり冗談だと思っていた。インドの企業と協業する話はあるが、まだスキームも何も決まっていないのだ。今この段階でわたしが行く必要があるんですか、と、多少抵抗したのだが押し切られてしまった。社長にしてみれば、たまには海外でも、というねぎらいの気持ちも含まれているのだろうと思う。……たぶん。
それにしてもインドだ。これが中国やアメリカならまだしも、わたしはインドのことを何も知らない。ナイルレストランのムルギーランチ、ラマチャンドランの絵、マハーバーラタの断片、タゴールの詩をいくつか、それだけだ。これから、何をどう準備するのか考えることにする。
どなたか、インドへの旅に相応しい本を思いついたらこっそり教えてください。
2010.01.06
不穏な顔
風邪をひいたかな、と思ってはいたのだが、お客さまとの新年会で飲んでしまった。黒龍のしずくから始まって、火いら寿、八十八号、仁左衛門、石田屋、とオールスター。黒龍酒造はお酒の名前の付け方がうまいと思う。日本酒だったらわたしは、どちらかといえば初亀醸造のお酒の方が好きなのだけれど、初亀の中汲み、亀、瓢月、滝上秀三、ひとくち口に含むと、名前から想像するよりずっとよく香る。
お寿司屋さんだったので、最初から最後まで日本酒。そんなこんなで朝起きたとき、ひどい顔をしていた。まぶたが腫れていて、しかも喉が痛くて、だめだこりゃ、と眼鏡にマスク。銀行強盗でも出来そうな感じ。新年早々、穏やかではない。
2010.01.05
ひとりごと
それにしても、正しく、賢く、やさしくありたいなんて、なんて鼻持ちならない高校生なんだろう、と(今は)思う。そしてそれから十年以上が経って、それをこうしてここに臆面もなく書いてしまう(今の)わたしもわたしである。恥ずかしいよ、まったく。(でも、こうして残しておこうと思う)
2010.01.04
If I couldn't ever be gentle,
仕事始め。
新しいワンピースなど着て、朝の道を行く。新年の抱負を語ったけれど、結局はいつも、あたりまえの話になってしまう。基本を忘れず、わたしたちにしか出来ない仕事をしましょう、ということだ。
高校の頃、何かをはじめるときいつも、それが正しいことかどうか、賢いことかどうか、やさしいことかどうかを考えていた。正しさと、賢さと、やさしさと、そのどれもが欠けてはいけないのだと、その時から、今もわたしは信じている。それがこんな日には特に頭をよぎるけれど、しかし、フィリップ・マーロウには未だ程遠い。(それでいいんだけど)
夜、いつものメンバーでささやかな新年会。和食つづきだったので、中華が妙に嬉しい。紹興酒と腸詰。
2010.01.03
そろそろ帰らなくてはならない。
2010.01.02
初夢の朝
湯上り、ガラス張りの部屋から山を眺めながら、今年は人を大切にしよう、と思った。人を大切にしよう、というのはどういうことかというと、大切な人たちには敬意を払って、きちんと関係を続けていく、ということだ。初夢に、喧嘩別れしたようになりもう連絡が途切れて何年も経つ友人が出てきた、それも、もしかしたら何かの啓示かもしれない。
お正月なので、朝からお屠蘇とお祝い膳。山の上にある神社にお参りしてから、友だちのところへ向かう。それがどんな土地でも、何度も通ううち、何かに引き寄せられるように知り合う人たちがいて、そこで友だちになる人がいる。年齢も職業ももちろん性格もさまざまだけれど一緒にいると楽しい、その秘密は何か知らないけれど、強いていえば引力のようなものではないかと思う。そこにあなたがいてあなたたちがいて、ここにわたしがいてわたしたちがいて、ゆるやかに軌道が重なりまた離れ、いつかまた近づいていく。
最初の友だちの家を辞して、別の友だちと一緒にその友だちの家へ。暖炉を囲みながら夜遅くまでおしゃべり。どんなものでも最後は人に行き着く、結局は人なんだよね、と、いう話。
2010.01.01
どこかここではないところ
どこかここではないところ、できれば海の近く、景色がよくて、あったかくて、でも遠すぎない場所……、一人でふとどこかに行くときは、いつもそんなことを思っている気がする。
明け方まで仕事をすることが続いた仕事納めの後、一旦実家に帰り、また東京に戻ってきて年越し。わたしは、お正月の東京を好きだと思う。どこかがらんとしていて、空が青くて、道が広くて。電車もまだすいていて、少しだけ眠くなる。
いつものショルダーバッグに、少しの着替えだけ詰めて家を出てきた。電車は川を越え海沿いを走っていく。海が見える。
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あけましておめでとうございます。
年末からの記憶がさっぱりないのは、忘年会(赤坂)忘年会(六本木)徹夜(会社)忘年会(六本木)徹夜(会社)、という恐ろしい毎日を送っていたからで、すべてがひとつの夜とひとつの昼のようで判然としません。
それでも、今思い出すのはいいことばかり。去年もいい年でした。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
