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2025.02.17

たまに泣く

“もう眠りはないぞ!マクベスが眠りを殺してしまった。汚れを知らぬ眠り、気疲れでもつれた心の糸をすっきりと解きほぐしてくれる安らかな眠り、一日のいのちの死、ささくれた労働をいやす湯浴み、こころの傷の塗り薬、大自然からの餐、人生の主菜“

マクベスを引くまでもなく、睡眠は薬なのだけれど、最近目覚めると毎朝身体のどこかが痛く、今朝は思わず涙が出た。痛くて、というより、もう気持ちよく目覚める朝はこないのだろうか、という、悲しさに。

肩関節の痛みにもう一年悩まされている。リハビリのおかげでその痛みは徐々によくなっているが、膝は軋み、最近は指の関節まで痛い。特に朝起きた時がひどくて、目覚めるたび、手を握ったり開いたりして、鈍い痛みを確認している。虚しい。

身体の不調に慣れていない、ということは、今まで健康に生きてきたということで、それがどんなに幸せなことだったかあの頃のわたしは分かっていなかった。癌の治療ははっきりした目的もゴールもあったが、この不調には終わりがないように思え、それがなおさらしみじみと自分の何かを蝕んでいく。

少しだけ泣いた後、それでも起き上がった。まだやるべき仕事があるのだし。

身支度を整えて、仕事をしていると少し気分がよくなって、涙の気配はあたたかな春の気配に紛れていった。

 



2025.02.15

京都の夜

昔は、仕事とプライベートの間にくっきりとした線を引くのに躍起になっていたけれど、歳を重ねるにつれて少しずつそれが曖昧になっていく。
特に、ここ何年かで仲良くなった友人の多くは、仕事で出会った人たちで、仕事上の関係が終わった後でも、一緒に旅に出たりご飯を食べたりしている。

京都と東京を行ったりきたりしている友人に誘われて京都のレストランへ。もう何年も通っているけれど、最近めっきり予約が取れなくなったそこを友人が貸切にしてくれたのだ。仕事を終えて、ホテルから歩いてお店へ向かう。20分ほどの距離は、東京だったらタクシーに乗るけれど、京都にいるとついついたくさん歩いてしまう。細い路地が多く、決して歩きやすいわけではないけれど、もの珍しく楽しいから。

その日は、知っている人が半分、初めましての人が半分。お店はこぢんまりしていて、カウンターに10人も座れば一杯になる。その会を主催した彼女は、真っ先に一番端に座り、「わたし端っこでええわ、桃ちゃん隣に座りなよ、後の皆さんはご自由にお座りください」とにっこり笑った。

お料理は相変わらず美味しかった。ふるふるの、このわた入りの茶碗蒸しからはじまり、からすみもちやお造り、てっさに唐揚げ。わたしたちはいつもの通りよく食べてよくしゃべってよく笑い、楽しい時間を過ごした。

その場には芸能関係の仕事をしている人たちが何人かいて、一人は誰もが知っている美しい女優さんだった。争ってその人の分のお会計を払おうとしている男性陣を横目で見ながら、友人はさっとお金を集め、支払いをすませると、それでは皆さんごゆっくり、と言ってお店を出た。

美人によってたかってなんか滑稽やったな、と彼女が眉を顰めていうのがおかしくて、二人で笑いながら夜の街を歩いて帰った。

 



2025.02.05

写真

ロラン・バルトは、写真のことを「貴金属の変化によって愛するものが永遠に変わる」と書いたという。

カメラの始まりは、ラテン語で明るい部屋を意味するカメラオブスクラだが、世界最古の写真は1827年にニエプスが撮ったヘリオグラフィだと言われている。ニエプスは、合金版と感光性物質と太陽光で、窓から見える景色をそこに焼きつけた。デジタル以前の写真は全て、金属の化学反応で、時を永遠に定着させていたのだ。

プラチナは、科学的に安定性の高い金属で、それゆえ、プラチナパラジウムで感光させたプラチナ・プリントは耐久性もとても高い。その手法が発明されたのは1870年代のことだからまだ本当には分からないけれど、論理的には500年持つとされているプリントで、しかも白から黒までの階調がまるで無限にも思われるくらい豊か。プラチナ・プリントされたサラ・ムーンの作品を見たことがあるけれど、ものすごい奥行き、まるで香りさえ、音さえ感じられそうなプリントだった。

全てが0と1に帰結する世界のなかで、今からわたしが500年後に何かを残せるとするなら、プラチナ・プリントくらいかもしれない。それは500年経ったこの世界のどこかに向けた手紙のようで、画面の中では完結しない、世界に向かった窓のようで。



2025.02.03

男の子に生まれていたら、わたしの名前は桃太郎だった、らしい。わたしは三人姉妹の一番下で、姉二人とは歳が離れている。小さな会社を経営していた父親はどうしても男の子が欲しかったのだろう、きっと。わたしがお腹にできた時、父も母も、男の子を期待して、男の子の名前しか考えていなかったという。

「ねえ、本当に男の子に生まれていたら桃太郎だったの」
「あらいいじゃない、誰からもすぐ覚えてもらえて」

生まれた子が女の子だと分かった途端、おそらく少しがっかりしたであろう両親は、考えていた名前から、桃という一文字を取ってわたしの名前をつけた。気に入っているからいいのだけれど、まあ。

なので、鬼退治に行くあの勇敢な主人公のことは人ごとではないのだけれど、小さい頃のわたしは、気は優しく力持ち、とは全く逆の、気だけは強くてすぐ泣きべそをかく、弱い子どもだった。とても鬼を成敗できない。

そのせいか、何かを退治する、ということ自体にあまり心惹かれない。そしてアニミズムのこの国では万物に魂は宿り、その字の通り魂は鬼のことだ。魂は状態次第で鬼にも妖怪にも幽霊にも神にもなり、この島でさきわっている。

フランスの写真家、シャルル・フレジェの『YOKAI NO SHIMA』はその魂の造形を映し出した写真集で、その全てがなんとも美しい。魂と人間が一時的に同化し、また離れ、土地を浄化する祭りの姿が、写真として永遠に定着されている。https://www.charlesfreger.com/portfolio/yokainoshima/

 

 



2025.02.02

恵方巻

季節の行事を大事しなければ、と思い込んでいた時期があって、その頃節分には必ず豆を蒔き、年の数だけ食べていた。今はいい加減なもので、お昼に近くのスーパーに行って蟹といくらが乗った豪勢な恵方巻きを買ってきて切って食べ、豆を少しだけポリポリ食べた。多分、年の数だけ食べたらお腹が痛くなるだろうと思う。

わたしが小さい頃、実家のあたりでは、日中家に人がいれば玄関に鍵をかける習慣がなく、考えてみればおおらかなことだけれど、例えば時折近所の農家のおばさんが野菜を玄関先に置いてくれていったりもした。茄子のおばさん、と呼んでいたそのおばさんの苗字も正確な家も誰も知らなかったけれど、そのおばさんのお野菜はいつも美味しかったから、母はそのおばさんが来るたびに玄関先でお茶を飲み、お菓子を出していた。たまにはおばさんの野菜で作った煮物や、母が一時期凝っていた太巻きなんかも渡していたように思う。お金の介在しない、善意と善意のやり取り。

ある年の節分に、学校から帰ると、玄関から続く廊下に豆が撒いてあった。あら、お母さん豆撒きしたの?と言いながら台所へ行くと、母が振り向いて、「それがね、お母さん気づかなかったんだけど、気づいたら豆が撒いてあって、ぴかぴかの5円玉が一緒に落ちてたのよ」と言った。お寺のお坊さんかもね、と母は家事に戻り、わたしもそんなものかと気にせずそのまま遊びに行ったけれど、今考えてみれば不思議な話だと思う。毎年のことではなかったような気がする。たぶん。

母が凝っていた太巻きというのは、房総の太巻き祭り寿司、というもので、確か新聞で見つけたその太巻き寿司の本を取り寄せ、一時期は本当に何かといえば、母はその太巻きを巻いていた。でんぶやほうれん草、卵焼きで色をつけ、お花や蝶々の柄の太巻きをつくる。ひな祭りなどはもとより、ことあるごとに食卓に上がったそれは、ほんのり甘くてとても美味しかった。母は海苔巻きが好きだった。食べるのも、つくるのも。なので、太巻きを食べるといつも、わたしは母のことを思い出す。

実家には恵方巻きを食べる習慣はなかったけれど、わたしも海苔巻きは大好きだから、毎年喜んで恵方巻きを食べている。なんというか、太巻きというのは、わたしにとってはハレとケの中間に位置する、大切な食べものなのだと思う。

https://www.komenet.jp/futomakimatsurizushi/

 

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