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2025.09.19

バスの二階で

バスの二階に姉と並んで座り、景色を眺めながらぽつぽつと話をする。わたしがロンドン郊外の寄宿舎にいたのはもう三十年も前のことだけれど、あの頃も、こうして姉とよくバスで移動した。寮でも学校でも姉の家でもなくバスに乗って同じ方向を向きながら話すと、異国で暮らす緊張も少しだけ緩み、頑固だったわたしも少しは素直にいられた気がする。

姉にとっては異国でなく、姪たちには故郷で、わたしはいつも好ましく思っているこの国この街に、これからもたまに来られるといいな、とそんなことをぼんやり思っていたら、そっけないアナウンスが聞こえ、バスはこの先の停留所で停止するから全員降りろという。文句も言わず次々にバスを降りる人につづきながら、そういえば昔は、こういうことにいちいちびっくりし、腹を立てていたっけな、と懐かしく思い出した。

あの頃は月に一度、外泊許可をとってロンドンの姉のフラットに来るのがとても楽しみで、だから週末を過ごした日曜の夕方、夕食に間に合うように寮に帰るのがいつもとても憂鬱だった。時には涙がこぼれるくらいに。
わたしの寮があった郊外の町へは、ロンドンのある駅から特急に乗る。当時はタッチ式のカードもなかったので毎回紙の切符を買うのだが、本当にロンドンの券売機はよく壊れている。その日、特急の時間には十分余裕を持って駅に着いたはずなのに、券売機が悉く壊れていて切符がなかなか買えなかった。なんとか買えた時には出発時間の寸前で、ホームに駆け込もうとしたところで、姉とわたしは駅員さんに止められた。もう間に合わないから、といって。手を広げてわたしたちを止める駅員さんの前で姉は烈火の如く怒り、ギリギリになったのは券売機が全部壊れていたせいだし目の前にいる電車はまだ発車ベルさえ鳴っていないではないか、と抗議したけれど、そのうちに電車の扉は閉まり、出発してしまった。おそらくその後の電車でわたしは寮に戻ったのだと思うけれど、普段は温厚な姉が怒っていた姿をわたしは今も覚えていて、得体の知れない理不尽に直面した時はこうして怒っていいのかもしれない、と感じたのだった。

まあ、今は理不尽と感じるハードルがだいぶ下がった。なんにせよ、きっと理由はあるのだ。バスが急に走るのを止めてしまう理由さえ。

*

ロンドンにいくつかあるマーケットのうち、食品を扱う人気のマーケットへ。お昼どきで、あちこちの店頭から美味しそうないいにおい。スパイスを取り扱うお店でお土産に色々なお塩を買って、グリル料理が有名なお店で早めのアフタヌーンティを。お肉がみっしりとサンドされたサンドイッチや、スコッチエッグ、ケーキにスコーン。どれもとても美味しかったけれど到底食べ切れる量ではなく、半分くらいは包んでもらう。

お腹をさすりながら歩いて王立裁判所へ。アレックスはワシントンDCで弁護士をしているので、結婚式のゲストにも法曹関係者が多い。その中でも有名な判事さんと一緒に、案内してもらうのだ。入り口でアレックスのご両親とご親戚に挨拶すると、お母さんはにっこり笑って、あなたAmyとそっくりね、と言った。

王立裁判所は素晴らしかった。教会のような、立派なゴシック建築。教会のような、と思ったけれど、聞いてみればはじめは本当に教会として建てられたそうで、司法というのは神の仕事なのかもしれない。つい最近、バンクシーが壁面に絵を書いたらしいけれど、あっという間に跡形もなく消されたのだとか。

見学の後は近くのパブで、結婚式前日のパーティ。とにかくたくさん食べて飲んでね、飲み放題だよ、とAmyちゃんがいうので、わたしも何度かカウンターに行って、普段飲まないビールやらジントニックやらをがぶがぶ飲んだ。義兄(Amyちゃんのお父さん=長姉の夫と、次姉の夫)たちは二人ともとても上機嫌で、わたしの五倍は飲んでいたけれど途中から見張るのをやめた。途中で姪っ子(Amyちゃんの妹)のボーイフレンドもやってきて、賑やかで楽しい、とてもいい夜だった。

 

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2025.09.18

越境

イギリスで食事は期待するな、と言われた時代はもう過去の話。ロンドンで最近人気のモダンインド料理のレストランでお腹いっぱい食べたあと、コベントガーデンを通り抜けウエストエンドへ。

なんといっても結婚式が一番大事だけれど、時間に余裕があればできる限りミュージカルが観たいわけで、「レミゼラブル」と「となりのトトロ」をはしごする日。日本から一緒に来ている次姉家族を付き合わせるのは心苦しく、チケットを取るときに別行動も提案したのけれど、結局は全員観たい、となり、連れ立って劇場へ向かう。

以前レミゼラブルをやっていた劇場ではハリーポッターが上演されていて、そこよりは少し小さいけれどその分舞台が近くいい劇場だった。座席は狭く近代的とは言い難いし、舞台が全部見えない席もあるけれどその分チケットの値段のバリエーションが多い。平日のマチネだというのに客席は満員で、雰囲気もよく素晴らしかった。なんといっても音楽が素晴らしく、もう何度観たか分からないけれど、まだ何度でも観たい。

本当に素晴らしかったね、といいながら劇場を出ると、姪っ子から電話。結婚式前のネイルサロンが終わって、近くにいるというのでカフェでお茶を飲む。お茶を飲んでいると、すぐ後ろのガラスからにこにこと手を振る人がいて、見ると姪っ子の結婚相手のアレックスだった。聞けばお互いの居場所を見られるようにしてあるとのことで、アレックスも少し加わって賑やかにおしゃべり。

となりのトトロは素晴らしかった。シェイクスピアカンパニーが上映しているそうで、ストーリーはあのままだけれど演出に工夫があって、あのアニメーション映画がうまく舞台になっていた。それにしてもロンドンの劇場では幕間にみんなこぞってバーに行きドリンクを飲みながらみんなおしゃべりするところまでがセットな気がするけれど、日本の劇場もこうだったらもっといいのにな、と少し思う。

素晴らしい時間を過ごし、劇場から出てきたらすっかり夜になっていた。タクシーをつかまえてホテルへ。ロンドンの夜の風景はいつも好きだ。美しい石造りの建物、パブの看板、外で賑やかに飲んでいる人たち、サイネージの少ない通り。わたしにとってここは、知っているようで知らない、でも懐かしいような、特別な街なのだ。



2025.09.17

人をその土地に結ぶもの

余裕を持って準備していたはずなのに、荷物を詰め終わった頃には日付が変わっていた。数時間後にはタクシーが迎えにくる。しかし、お祝いごとで旅行をするので、スーツケースの中はいいものしか入っていない。いいものというのは、美味しいお菓子や、プレゼントのお香や日本酒や、結婚式で着る予定の和服やバッグ。迷った末に仕事用のPCは置いていくことにした。最近はわたしが手を動かす必要のあることはほとんどないし、スマートフォンさえあれば、まあ、なんとかなるはずだから。

 

姪は、わたしが高校生の頃イギリスで生まれた。長姉はロンドンに、わたしは郊外の寄宿舎にいて、生まれたとき、本当に本当に嬉しかったのを覚えている。あの頃は携帯電話すらなかったから、寮の電話で姉から出産の連絡を受けたのだった。そういえば、姪のはじめての飛行機にも一緒に乗った。赤ちゃん連れで、姉もわたしも緊張していたのだけれど、ヒースローで、優しい老夫婦に温かい言葉をかけてもらったんだっけ。

そんな姪が結婚するというのは、特別なことだ。

 

早朝の道路は空いていて、予定より少し早く空港に着いた。チェックインと出国を済ませ、追加のお土産を探してぶらぶらしていると、わたしよりほんの少し後に出発する次姉家族とばったり会う。みんなよい笑顔。多分わたしも。

また後でね、と手を振って別れて、ひと足さきに飛行機に乗る。

 

*

 

お飲みものはいかがですか、と言われて、ついついシャンパンのグラスを取ってしまう。少し前までは、シャンパンもオレンジジュースも大好きな飲みものだったのに、今やどちらが身体にいいか(もしくは害がないか)をまず考えてしまい、それならお水を頼めばいいのに、結局は欲に負ける。まあいいか、お祝いだしね。

最新のエアバスは広くて快適で、しかしロシア上空が飛べないせいでやたらと時間がかかる。あかりの消えた機内で、はじめてイギリスに向かったときのことを、ぼんやりと思い出していた。

 

*

 

窓から青い芝生と石造りの建物、それとラウンドアバウトが見え、イギリスだ!と思う。少し前までイギリスの入国審査は厳しいことで有名で、必ずきちんといろいろ質問されたものだが、今は自動化ゲートであっという間に入国できた。スーツケースをピックアップして税関を通り抜けると、結婚する姪の妹がそこで待ってくれていた。少し眉毛を寄せてこちらの方向を見ていた彼女はわたしのことを見つけるとパッと笑顔になった。身体の前で小さく手を振り、駆け寄ってきてスーツケースを持ってくれる。今日は平日だから、仕事を休んで迎えにきてくれたのだろう。

地下鉄の駅で、後から到着した次姉家族を含む全員と合流し、都心へ。なんとアメリカの大統領の訪英日程と重なっているため、車で移動するのが難しいそう。ホテルにチェックインすると、だいぶ前に予約をしたせいか、広い部屋を用意してくれていた。

 

*

 

日本よりずっと寒いから気をつけてきてね、と言われていたが、長袖のニットを着てちょうどいい気候だった。外に出て、乾いた空気が少し懐かしい。持ってきたお土産を抱えて長姉の家へ。香港生まれで、ずっとレストランの仕事をしていた義兄が、夕食を用意してくれているという。フラットに入ると、一番年下の姪っ子、あいちゃんが飛び出してきて、「みんなハロー!」とにこにこ手を振った。

 

ココナッツが丸ごと入ったスープ、カリカリに焼いた豚肉、春巻きに水餃子、鴨のロースト。身体に染み入るように美味しくて、みんな忙しく箸を動かしながらも絶え間なくおしゃべり。最高だね、お腹いっぱいだね、と言っていたら、義兄がにこにこしながら手作りの焼き豚を追加で持ってきて、これは食べないわけにいかないね、と、それからも沢山食べた。姪の結婚相手も途中から合流し、デザートを持ってきてくれて、美味しく楽しい最高の夜だった。