2010.08.11
背中を汗がつたう。
午後一番の打ち合わせを終えた後、新幹線に乗り長野まで。車中、中島京子の『小さいおうち』を読む。ノスタルジックで、品のいい文章で素敵だけれど、残念ながらそれだけかもしれない、とも思う。穏やかな愛情の話だと思っていたけれど、実は切ない恋の話。
2010.01.26
ナイポール
ナイポールを読んでいる。
旅に出る前、友人から進められたのに手に入れられなかったので、今になって。
以前さらっと読んだことはあるのだけれど、その時と今とは受け取り方がまるで違うのが面白い。……そしてそのころのわたしは、インドなんて、一生行くことのない国だと思っていた。わたしは、70年代を生きる若者ではないのだし、バックパッカーにもなれない。それは今も同じだけれど。
ナイポールはイギリスの作家だが、当時イギリス領だったトリニダード・トバゴのインド人の家系に生まれている。だから、なのだろうか、彼のインドへの距離のとり方、……一定の距離を置いているのに、時折身体に染み付いた親しみのようなものがふっと顔を覗かせる、その感じが、妙に染みる。越境というのとは違う、そもそも生まれながらにして狭間に立っている感じ。好むと好まざるとに関わらず、宿命的に異国というものを身体に住まわせている。つまり、存在自体が、旅なのだ。
2009.10.14
リンさんの小さな子
装丁がきれいだから、という理由だけでその本を手に取った。やさしい水彩の絵、オレンジ色の、あたたかいけれど澄んだ色づかい。クラシックな佇まいで、あ、好きな感じの本だ、と思ったのだ。
フィリップ・クローデルの『リンさんの小さな子』は、短いものがたりだ。祖国を追われ、小さな孫娘を腕に抱いて生きていくリンさんのものがたり。端整な文章に手を引かれるように読み進めるあいだ、ずっと、気持ちがざわざわしていた。なんなんだろう、この、乾いた哀しみの気配。穏やかな情景のなか、しみじみと差し込んでくるような悲劇の影。
注意深く断定が避けられているが、リンさんはアジアのある国から来た難民で、たどり着いたのはフランス語が話されるある港町である。戦争が続くなか、リンさんは美しい妻も息子夫婦もなくし、小さな孫娘だけを抱いてその国にやって来た。
難民宿舎で、リンさんはただ淡々と日々を送る。欲もなく、どんな諍いにも加わらず、何もかも諦めたようで、でも、両手に抱いた可愛らしい女の子を守ることだけに心を砕いて生きている。片時もその子を放さない。まだ生まれて間もない、リンさんの小さな宝。
その子のためだけに生きていたリンさんは、ある日、散歩に疲れて座ったベンチである男に出会う。男は、遊園地で働く妻を失い、一人ぼっちになったばかりだった。リンさんはその男の言葉が分からない。その男もまた、リンさんの言葉を知らない。ただ、リンさんは、徐々にその男が話す言葉の響きを好きだと思う。孫娘と二人きり、ぴったりと閉じていたリンさんの心に、男が寄り添うようになるのだ。そして男もまた、リンさんと過ごす時間に救われていく。
難民宿舎が解体され、リンさんと男はどうにもならない事情で離れ離れになり……、と、こう書いていくと、これはよくありがちなものがたりだと思われるかもしれない。例えば喪失と許しとか、絶望の中のかすかな希望とか、真実の友情には言葉はいらないのだ、とかいうテーマの、美しいものがたりだと。……でも違う。これは全然違う。
最後の一行まで読み終えたとき、こんなのは久しぶりのことなのだけれど、それまでとは世界がまるで違って見えた。目に映るもの全部が切なく悲しくて、そして素晴らしく美しくて、涙が出た。
どんなに言葉を尽くしても、わたしはこの本を語れないと思う。だから是非、読んで欲しい。大袈裟な言葉が似合わない本だけれど、でも、わたしはこの本のことを、一生大事にしていくと思う。
フィリップ・クローデル 『リンさんの小さな子』 みすず書房
http://www.msz.co.jp/book/detail/07164.html
2009.07.14
朗読。
「ものがたり」というものは、やはり語られるためにあるのだと思う。わたしは、誰かに本を読んでもらうのが好きだ。自分で読むのも、もちろん。ここでいう「読む」というのは音読のことで、文字が言葉として発話されると、とたんにそれが新しい命を得るように思えるのはなぜだろうか。うずくまっている物語が、むっくりと起き上がるみたいに。
池澤夏樹さんの朗読会へ行ってきた。淡々とした語り口、色をわざと無くしたような声。そこから物語が生き生きと立ち上るのを、しみじみと聞く。いい時間だった。
『熊になった少年』は、池澤夏樹が創作した民話だ。新聞に連載された長編『静かな大地』が(長編小説としては)終わったのに、なかなか響きが収まらない。そこで生まれたお話なのだという。長い小説を締めくくるため、添えられた小さな民話。
いわゆる変身譚で、アイヌ的心を持ったトゥムンチの少年のものがたり。きらきらと光る小石のような素敵な話だが、池澤さんはそれを、「でもこれはニセモノだという思いがつきまとう」と言う。つまり、神話とか民話と言うものは、世代を渡り口承される段階で知恵で磨かれるのもので、こうして文字になることで固定されて命がなくなる。いわば、命を奪ってモノにしたものが、こうして書かれた物語なのだということ。本来、民話というものは人々が集まる場で語られる楽しいものなのに、本になると、寂しいものになってしまう。本によって人はつながるけれど、物語が語られる場がなくなってしまう。だから、こうして朗読して、フリーズドライした物語に少しお湯をかけるようなことをするのだけれど、と。
帰り道、ずっと、わたしもあのとき熊についていきたかった、と思っていた。あの森をわたしも知っている、あのとき熊に、ついてきなさい、とわたしも言われたのだ、と。
そう思ってしまうこと自体がきっと物語の力なのだろうと思う。抗えない。
2009.06.17
お風呂の中で、カズオ・イシグロの『夜想曲集』を読む。『わたしを話さないで』は本当に素晴らしかったけれど、イシグロは一作ごとに随分と雰囲気が変わる作家だ、と思う。ブッカー賞を受賞した『日の名残り』にしても、『充たされざる者』にしても、作家名を知らされずに読んだら、もしかしたら同じ作家だと思わないかもしれない。
長編のイメージが強いイシグロだけれど、これは短編集。タイトル通り、音楽にまつわる作品集で、イシグロ自身がミュージシャンを目指していたというイメージも相まってノスタルジックで素敵だけれど、楽しみにしていたあまり、急いで読みすぎてしまった。
きっと、丁寧に丁寧に読むべき小説なのだろう。もう少ししたらもう一度読み返す。
2009.06.02
『1Q84』 その後
村上春樹の『1Q84』について自分のために覚書として少し書いておきます。(以下、内容に言及します。)
*
一度読み始めたらやめられない、というのは、村上春樹の小説を読むといつものことで、読み始めたら最後、現実と小説世界の境界があいまいになってしまう、というのもいつものこと。もちろんそれはそれだけ「力のある」小説だという証拠なのだと思うし、わたしが村上春樹の小説を好きだということなのだと思う。
確かに夢中で読んだし、好きなのだ。間違いなく。
でも、わたしはどうしてこんなにいろいろなことが気になるんだろうか、と思う。何かは分からないけれどささやかなほころび、宙ぶらりんになってしまった(ように見える)エピソード、陳腐というのとは違うのだけれど、いつかどこかで感じたようなこと、聞いたようなセリフ、突然混ぜ込まれる違和感。これは、全て作者が意図したものなのかどうか。(もちろんこの気持ちの裏には、「あの」村上春樹が、物語の中に齟齬を残すわけがない、という思いがある。つまり、わたしの方が読めていないだけなのでは、という危惧)
ものがたりの途中、チェーホフの小説が引用される部分がある。「物語の中に銃が出てきたらそれは発射されなくてはならない」。つまり、壁にかかった猟銃を描写したなら、その後その猟銃を発射しなければいけない、小説というものはストイックに必然性を尊重し追求して書くものである、というとてもチェーホフ的な――日常や人物を丁寧に描写して破綻がない――宣言なのだが、もしその立ち位置から読むとすると、ほんの少し、取り残されたような気分が残る。
あ、もしかしたらそれは、平均律に残る不協和音のようなものなのかもしれないけれど。(……と、こんなふうに書くのはただの文学趣味かも)
# ……それにしても、バッハのマタイにしても平均律にしても、チェーホフにしても、筋肉の描写にしても「プロであること」にしても、コミュニティ論にしても痛みにしても新宗教にしても、「キター!」と思ってしまうのですよね。もちろん嬉しいし、それが好きな作家を読む醍醐味なのだけれど、もっと新しく眼を開かれたい、と思ってしまうのは贅沢か。反対に書き手からすると、なんて恐ろしいことなんだろうかと思う。つまり、いつも先を走っていなければいけないということ。闇の中を先頭切って走っていくなんて、本当に本当に怖い。村上さんについては、あの背中(『走ることについて語るときに僕の語ること』)が全てを象徴しているのではないかとわたしは思っていて、あんな背中をしている人にしかこんなふうには書いてこられなかったのではないかと思う。
このものがたりはそれ自体で「閉じて」いるように見えて閉じていないのだと思う。印象としては、よくできたオーバーチュアみたい。プレリュードではなく。次に来るのはオペラかバレエか……、どちらにしろ、続編を待ちたい。(その前にもう一回読み直そうかな)
2009.05.30
1Q84
届いた包みを横目で見ながら、しばらくは読まないつもりでいたのに、気づいたら手にとってページを捲り始めていて、そうしたらもう止められなかった。長い小説を読むときには、その間中、日常生活がある程度損なわれること(もしくは、自ら進んで損なうこと)を覚悟しなければいけない。ぼんやりしていて料理の途中で指を切り、しようと思っていた仕事を先延ばしにしてしまった。 ずっと楽しみにしていたのに、あっという間に読み終わり、まるで、もらったお菓子を全部食べてしまわなくては気がすまない子どもみたい。
それにしても、今年は結構、心に残る小説をたくさん読んでいる気がする。新刊でも、そうでなくても。(理由がひとつ思い当たるのだけれど、いつか確信が持てたら書こうと思う。)
2009.05.12
ところで、池澤夏樹はいつも、「納得できる理由」を用意してくれている。例えば昨日の「帰ってきた男」にしても、表題作である「マリコ/マリキータ」にしても、ものがたりが始まるだけの理由がきちんと説明されていて、すんなりと心に落ちるのだ。つまり、ありえない、どこか違う世界の話ではないということ。十分ファンタジックなのに甘くなりすぎないのはたぶんそのせいで、現実世界の枠組みに嵌ったり外れたり、按配が絶妙なのだ。(と、言う意味では、同じ短編集の「アップリンク」だけは別格かもしれないけれど)
たとえばこれがスティーブン・ミルハウザーの小説だとまた違う。現実ではなく、でも現実と見紛うばかりに精巧な架空の世界に有無を言わさず連れて行かれる感じ。納得できるかそうでないかは問題ではなく、それこそ、否応なしに「向こう側」を見せられてしまう感じだ。理性とか現実とか枠組みとか、そんなことさえ飛び越えて、溺れてしまえるということ。
どちらにしろ、こういう小説は橋なのだと思う。渡ればそこには新しい世界があり、この世界と「あちら側」とをつなぐのはいつもこういった物語だ。
2009.05.11
何か本が読みたくて書店までは行くのだけれど、どれもこれもピンと来なくて、手ぶらで店を出ることが続いていた。こんなときにもいつも必ず読めるのは池澤夏樹の短編なので、『マリコ/マリキータ』を持ち歩いている。このなかの、「帰ってきた男」という短編がどうしようもなく好きで、いつも読み始めるとたちまち、ここではないどこかへ連れて行かれてしまう。ファンタジックだけれど理性的で、リリカルだけれど現実的。素晴らしい短編なのでわたしが説明するよりも是非読んでいただきたいが、これは、「向こう側」を見てしまい、そこに留まった男と、帰ってきた男の物語。
「向こう側」というのは、あなたも知っているあの場所のことだ。ここではないどこか、そこにはあの調べが響いていて、一度それを聴いたら忘れることはできない。一度その場所があることを知ってしまえば、それに憑かれてしまい、もう、それ以前の自分には戻ることはできないし、その場所が身体の一部になってしまうから、たとえそこから「帰ってくる」ことを選んだとしても、本当の意味では、もうそこからは「帰れない」、純粋で、強烈で、具体的で、でも、泣きたくなるほど普遍的な、あの場所のこと。
わたしも向こう側に行きたい、と、読みながら思う。物語の甘美な呪い、というものがあるとすれば、たぶんこの気持ちはそのせいで、こんな気持ちを味わえるなら、それこそ、もう、呪われてもいいかもしれない。
2008.12.08
読書メモ
パワーズ 『われらが歌う時』 : なんという物語だろうか。読んでいる間中、頭の中で音楽が鳴り響き、読み終えた後もしばらくその残響が消えなかった。パワーズって賢すぎて、時々とてもあざとく見えてしまうけれど、やっぱりすごい。
ファトゥ・ディオム 『太平洋の海草のように』 : 越境する文学。この人は、身体の中に既にいくつかの世界を持っている。
オースター 『幻影の書』 : こんな本を前に何を言ったらいいのか。ただ夢中で読むしか。
ハントケ 『左ききの女』 : 小景。雰囲気のある文体はいくら翻訳されても損なわれないのかもしれない。
2008.10.03
楽園への道
リョサの『楽園への道』は、画家ゴーギャンとその祖母で革命家のフローラ・トリスタンの物語なのだけれど、わたしはこの小説を一息で読み終えると同時に、今まで何一つ知らなかったゴーギャンという画家にも夢中になってしまった。
タヒチの、健康的な女たちのイメージとあの色彩、ゴッホとのあの事件、生前には売れなかった絵。ゴーギャンはそれだけではなかったのだ。放蕩が服を着て歩いているような人で、ナイーブで自信家でめちゃくちゃだけど魅力的。力があって、でも弱くて、絶望の中から絵が生まれていく。あの画家にとってタヒチは夢の楽園ではなく、あんなにすごい絵を描いたのに、それは画家を救わなかった。それが、切なくて悔しい。
それからというもの、画集や評伝やゴーギャン自身の文章を読み続けている。
結局のところ、ゴーギャンは、やはり、楽園への道を探し続けて生きた人なのだ。楽園はいつも、永遠にたどり着けない次の角にある。
2008.07.02
『或る女』
有島武郎の『或る女』を15年ぶりに読んで、恐ろしくて震えた。美しい女が取り乱す姿は凄まじい。自分は美しくなくてよかったことよ、と、負け惜しみのように思う。それにしても怖い。それでも、以前読んだときよりずっとずっと面白かった。毎日寝る前に読んでいたのだが、途中で止められなくて少し寝不足になったくらいに。こんなふうに「読める」本が増えるのなら、歳をとるのもいいものだな、とちょっと思った。
最近読んだ本で印象に残ったもの。忘れないように。
ジョン・バンヴィル『海に帰る日』:センチメンタルで、重く湿っていて素敵だけれど。
リョサ『フリアとシナリオライター』:とても好き。装丁は酷いけど。リョサっていいな。
菊池信義『樹の花にて』:装丁家のエッセイ。独特の美意識が鼻につかず素敵。いい文章。
カミュ『ペスト』:カミュって世界を信じているんだな、と思う。
夏目漱石『門』→『我輩は猫である』→『三四郎』→『夢十夜』→『こころ』:やっぱり『夢十夜』が一番好きだけれど人に薦めるなら『三四郎』かもしれない。
ミルハウザー『ナイフ投げ師』:大好きミルハウザー。もう、呪われてもいい。
小川糸『食堂かたつむり』:ごめんなさい、わたしはダメでした……。
川上弘美『風花』:川上弘美はどこへ行くのだろう?
池澤夏樹『星に降る雪/修道院』:ここではない、「あちら側」へ向かう心。わたしも、向こうへ行きたい。
2006.10.28
川上弘美
川上弘美の『光ってみえるもの、あれは』が文庫になった。書店で見かけて、思わずずるい、とつぶやく。表紙が、小林孝宣の"Forest"なのだ。この絵は、『ひかりのあるところへ』という作品集の中に収められていて、絵自体がどこかうっすらとひかっているような、絵の中の明るさに向かって歩いていきたくなるような、そんな絵だ。今の日本の画家の中で、わたしはこの人が一番好きで、特に、ひかりを描きはじめたころからが本当にいい。自分が本当によく知っている光景を窓の外に見ているような、ひそやかで安らかなひとときがすぐそこにあるような、そんな気がする絵だ。ずるい、というのは、川上弘美の文章とは、なんというか「合いすぎる」からだ。調和しすぎていてかえって危うげで、……なんて、うらやましい。
ところで、川上弘美はどんどんまっさらになっていく気がする。少しあざといくらい、まっさらな佇まい。ぽん、と、いろいろなものから自分を振り払って、しかしそんな気配など微塵も見せずにまっすぐにただ立っている感じ。一度目の中を覗いたら、きっと、二度と目が離せないに違いない。ふう、危ない、危ない。
川上弘美『光ってみえるもの、あれは』(中公文庫)
小林孝宣『ひかりのあるところへ』(日本経済新聞社)
川上弘美『真鶴』(文藝春秋) …これは今日買って読んだ本。感想は後日
2006.10.01
本棚に、
本棚に、一冊のペーパーバックがある。よしもとばななの、『とかげ』。Faber and Faberの、ポケットサイズだ。
いつ買ったのだったか、もうあまり覚えていない。高校の頃だったか、大学時代に遊びに行ったときだったか。どちらにしろ買った場所はロンドンのオックスフォードストリートにある大きな書店で、確か、白い壁の清潔な店内のところどころに大きな椅子が置いてあった。今はどうか分からないけど。
それがどんな国であれ、わたしは書店という場所が好きだ。なんというか、自分の居場所があるという感じ。だから知らない街角を歩いていて疲れたときには、いつのまにか書店に入ってしまうことがある。この本も、そうして買った一冊だった。
そのころ、英語の本と言えば、例えばジェーンオースティンとか、デュ・モーリア、ワイルドやディケンズを読むことが正しいと思っていて、思っていたのだが、多分そういうのに疲れていたのだろう、わたしはふらふらと日本人作家の棚の前に行ったのだった。三島由紀夫…川端康成…阿部公房……村上春樹、と追っていくと、ふとよしもとばなな、という名前が目に付いた。『とかげ』はいつか読んだことがあったが、わたしはこの一冊を選び出しレジへ向かった。"Lizard"。それからわたしは、馬鹿みたいに繰り返し繰り返しこの本を読んだのだった。そうして、"Lizard"は『とかげ』より深く深く、その頃のわたしに吸い込まれていった。
よしもとばななの『ひとかげ』を読んだ。『とかげ』のリメイクだが、『とかげ』よりずっとずっといい、と思った。あの頃のわたしは『とかげ』を好きだったけれど、今のわたしは『ひとかげ』が好きだ、という感じ。実は、もうずっと長いこと、よしもとばななの文章の中では「ムーンライト・シャドウ」が一番好きだ、と頑なに思っていたのだが、去年くらいからだんだんと、ああ、やっぱり最近のものがいいな、と思うようになったのだった。『ひとかげ』を好きだ、と思うのも、その感じに少し似ている。
よしもとばなな『ひとかげ』幻冬舎
2006.09.20
天青
出張に行くとき、なぜか必ず持っていきたくなる本がある。詩人、宇佐見英治氏と染織家である志村ふくみさんの対談と往復書簡が収められた、『一茎有情』。もう何度読み返したか知れないが、どこを開いても作意ない自然な言葉がこぼれるように美しく、ふかぶかと染み入るようなやりとりが綴られている。折にふれて思い出しては、心なだめられる、わたしにとっては大切な一冊だ。
そのなかで、天青、という色が語られている。天青は、雨上がりの空の色。昔中国の皇帝が、雨上がりの空を見ると大変に清んだ美しい色をしていた。そのときお后が懐妊したという知らせが来たので、大変縁起がいい色だということで、陶工にこの色のうつわをつくらせたのだという。台湾の故宮博物館にもあるこの天青の青磁は、言うに言われぬきれいな色をしているとか。志村ふくみさんもこの色を染め、織っている。素晴らしくいい青、なにか、天上の音楽でも聞こえてきそうな。
今朝の空を見て、ああこれを天青というのかもしれない、と思った。濁りなく澄み切った空の色、瑞々しく豊かに青い。太陽がしんしんと降り注いでいる、光をたたえた青色。
天青、ではないのだが、白磁の作家で水野克俊さんという方がいる。彼の磁器は、雲のように白く、うっすらと青みがかっていてどこか清らかだ。それなのに、手に馴染む感じが素晴らしくて、白にもいろいろあるけれど、これは空に浮かぶ雲の白だ、と思う。そしてその白のうしろには、どこかにいつも青がある。
それにしても、こうしてみると、なんとかして自然に近づこうと希う、それの繰り返しでわたしたちは生きてきたような気がする。自然の作為のなさに手を伸ばし、何とかその空の青を、夕暮れを、雲の形をうつそうとする。詩人は言葉によって、染織家はその色を織ることによって。そしてそこに残るのはおそらく余分な装飾をそぎ落とされた芯のようなもの、研ぎ澄まされた音色のようなものなのではないだろうか。それは移ろいゆくのになぜか確かで、いつまでも響きが残る、そういうものなのだ、と、わたしは思う。
2006.09.08
ヘンリー
ヘンリー・ジェイムズの『アスパンの恋文』を読む。何故読んでいるのか、といえば、呼ばれたから、としか言いようがない。書店で、ぼんやりと岩波文庫の棚の前に立っていたらふと目に付き、いつの間にか買っていたのだった。
今は亡き高名な詩人の、恋人にあてた未公開の書簡がベネチアにある。そんな噂を聞いて、どうしてもその手紙を手に入れたい主人公が、所有者であるアスパンの元恋人に近づく画策をするところからものがたりは始まる。その老婦人は気難しく、以前仲間が出した問い合わせの手紙もぴしゃりと拒絶されたくらいであるので、主人公は身分を隠し、その老婦人とハイミスの姪が住んでいる館に下宿する算段をし……、と、話は続くのだが、なんとも一息に読んでしまった。淡々と語られる世界は美しく、一方で薄暗く後ろめたく、主人公になにひとつ共感できるところはないのに、なにか納得させられてしまう。どっしりとした、ほこりっぽい洋館を歩いていく感じ。足元には擦り切れた赤い絨毯、金色に縁取られた房のついた天蓋つきのベッド、軋みながらつぎつぎと開く重い扉、そんな感じで最後まで読んだ。
あなたがもし大詩人のかつての恋人で、年老いて手元にただ一束の手紙が残されたとしたら、さて、どうしますか。
それにしても、「妻でも妹でもない女の人」って小説に出てきても絵に描かれても独特の雰囲気があってちょっと素敵だ、といつも思うのは何でだろう。
2006.08.24
わたしを離さないで
読む前と後で、自分が全く変わってしまう本がたまにある。ほんの数時間前と同じ成分でわたしはできているはずなのに、目にうつるものものがまるで違って見えるのだ。嬉しくもあり、怖くもある。もしかしたら、もうずっと小さい頃には、読書とはいつもそのようなものだったかもしれない。わたしはそのたびごとに、新しい人生を新しく生きなおし、新しく眼を開かれてきたのだ。
カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んだ。これはわたしのものがたりでもあり、すぐ隣にいる誰かのものがたりであり、誰のものがたりとも違う、と思った。わたしが過ごしたあの寄宿舎は、この寄宿舎ではなかったか、あの体育館、芝生の広場、ゆるやかに広がる丘、教室棟、並んだ寮のベッド、授業で広げられる地図……ここは、あそこだ、と繰り返し思ううち、現実と小説世界の区別は曖昧になり、ぼんやりと頭が痺れるうちに夢中で読み終えていた。久しぶりに、本を読んでこんなにしびれた。苦しいけど、極楽。
カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』 早川書房
2006.06.27
ブックカ
ブックカバーをつけずに持ち歩くのはなぜかというと、装丁の柄が好きだからだ。幸田文の『流れる』。おかげで、文庫の表紙は随分くたびれている。
この本を読むたびに、若い頃、母に言われた言葉を思い出す。確か、どこかへ着ていく着物だったか、仕立ててもらう反物だったかを選んでいたときだったと思う。ある柄を手に取ったわたしに、「縞の着物は粋過ぎてまだあなたには無理」だと、母はいつもの調子でのんびりと、でもきっぱり言ったのだった。中学生だったか高校生だったか、その時のわたしは複雑な気持ちで、ううん、と唸ったきり他の柄を選んだ。そうかまだ無理か、という気持ちや、一体、粋とはどういうことなのか、やら、それではいつ縞の着物を着られるときが来るのか、などと思ったが何故か言われたことはすんなり腑に落ちたのだった。そもそも、何故縞の着物を素敵だと思ったかというと、当時はまだたまにテレビに出ることもあった女優の沢村貞子さんが、よく縦縞の着物でいたからだ。粋かどうか、その頃のわたしには分からなかったが、彼女は文句なしに格好よく見えた。立ち居振る舞いも、生き方も、書くものも。くつろいでいるのにどこかしゃっきりとした着方、そうか多分、縞が似合うとはああいうことを言うのか、と、納得したのだと思う。
それから何年か、十何年か経っても、だから縞の着物は憧れではあったが、自分が身につけるものではなかった。小さい頃は格子や小花、少し経てば絣柄。とっておきのときには蝶々が飛んだとろりとした薄桃色のを。縞ははなから手が届かないものだと諦め、それはそれで納得できることではあった。
ところが去年の夏前だったか、浴衣でも新調しようかと歩いていたら、遠州木綿の生地をみつけた。紺の縞。いつものように一度は通り過ぎたのだが、これが妙に心に残る。ちょっと上等なスーツ一着ほどの値段だった。とても買えないほどではないが、それにしても、スーツは仕事着だし、着物を日常で着る生活をしているわけではないし、よそゆきになるようなものでもない。同じ値段を出せば、綿紅梅の浴衣が仕立てられそうだったのだし、まあ、いろいろ理由をつけて一と月くらいは迷ったのだが、結局、縞の単が手元に届いた。端的に言えば憧れに負けたのである。……これが、悲しいかな、驚くほど似合わない。着物に着られて、といえば穏やかだが、まあまるで、着物の上に顔が乗っているような有様なのだ。それで出かける勇気は出ず早々に脱ぎ、それでも手放す気にはどうしてもなれず、たとう紙に包んだままクローゼットに入っている。
それでも、いつか縞の着物を、という気持ちは褪せず、本棚からこの文庫を取り出すたびに、ふ、と、いろいろなことを思いだす。読めばいつも懐かしく、同時にいつも新しく、いつかどこか写真で見た、この表紙と同じ縞の着物を着た幸田文という人のことをも、なにか眩しく思っている。
幸田文 『流れる』 新潮文庫
2006.01.14
実家の二
実家の二階には本棚が置いてある部屋があって、そこには、「違う世界」があった。橇で行く吹雪の冬や、干草が詰まれた小屋、天蓋つきのベッド、暖炉に屋根裏部屋。…見たことのない、知らない世界。それでも、ページを開けば、わたしはすぐにそこへ行けた。窓の外にはバラが咲く広い庭がある場所へ。
*
ガルシア・マルケスの『エレンディラ』を読む。短編集だが、「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」が素晴らしい。亡霊のような過去を繋ぎとめようとする祖母、静かに吹く運命の風、全財産を失い、ベッドに繋ぎとめられその身体を売り、それでも尚美しいエレンディラ。どの童話の姫君よりも美しく高貴で、しかしエレンディラは無垢ですらない。
ほんの数ページで作家は世界を語る。過去は現在であり未来であり、緑の血が流れ、聖と俗は入り交じり、現実と幻想の境界は溶けだし曖昧に宙を漂い、ただそこに残るのは走り去るエレンディラが巻き起こした風のみである。
何故こういう世界を創り得るのか。溜息をつきながら書き手に嫉妬を覚える。ページを開けばそこには違う世界が息づいていて、それは、すぐ近くにありそうで手は届かず、けれど完成された異質で美しい世界である。
読み手としては、幼かった頃のようにただうっとりとその世界に身をゆだね、一冊の本の中に広がる世界に、ただ感嘆の溜息を漏らすしかない。
ガルシア・マルケス 『エレンディラ』 ちくま文庫
2005.12.22
柚子を浮
柚子を浮かべたお風呂につかりながら、志村ふくみの『色を奏でる』を読む。
手触りのある文章、というのは多分こういうものなのだろう。派手なところはなにもないのに、しみじみと切ない。せつない、という言葉は、古語では、人や物を大切に思うということだという。「染織家」である著者の、自分の仕事、人生、自然に対する愛情が、こういう文章になるのだろうか。
「光は屈折し、別離し、さまざまの色彩としてこの世に宿る。植物から色が抽出され、媒染されるのも、人間がさまざまな事象に出会い、苦しみを受け、自身の色に染めあげられてゆくのも、根源は一つであり、光の旅ではないだろうか。」 (志村ふくみ『色を奏でる』ちくま文庫)
2004.09.21
読書メモ
■村上春樹 『アフターダーク』 講談社
今までのハルキの小説はどちらかといえば「違う世界」に連れて行ってくれるものだった。ページを開くたびに、否応なしにわたしは小説の世界を覗き込み、しばらくそこへ留まり、またこちらの世界へ帰ってくる。「向こう」と「こちら」はまったく違う世界で、それを行ったり来たりしながらわたしは文章を読み進める。
ところが、この小説を読みながら、わたしはいつまでも「自分の世界」に留まっていた。心ごと「向こう」に持っていかれるのとは違う、すぐ隣で起きているようなものがたりだ、と思った。いつも必ず夜が来て朝が来て、そのなかに潜むふとしたものがたり。
■小川洋子 『沈黙博物館』 ちくま文庫
完成されたひとつの世界だ、と思った。
「ごく普通の人たちの形見を集めた博物館を完成させること」そんな依頼を受けて、主人公は仕事に取りかかる。形見は、きちんと「形見」でなくてはいけない。つまり、一番その人をあらわすものでなくてはいけない。たとえば、はしごから落ちて死んだ庭師のナイフとか、娼婦の避妊リングとか。
文章は美しく密やかで、それだからこそ恐ろしく不気味で、ひんやりとしている。聞こえない耳にぴったりのものがたり。
■池澤夏樹 『アマバルの自然誌 沖縄の田舎で暮らす』 光文社
幸せな生活の記録だ。沖縄の知念村に移り住んだ作家の毎日を、横からおすそ分けしてもらうような楽しさ。見知らぬ鳥が飛んでいれば「君は誰だい」と心で問いかけ、図鑑で調べ、名前を知る。月を見上げ、家に差し込む月明かりで、月齢を意識する。目の前には海、沖縄の海だ。
基本的には、「身の周り」の自然誌だが、その自然を見つめる眼があたたかく、そして優しい。そして、根底にある知識の確かさ。自然は須く本物である。手触りのある、幸せな生活。
2004.08.12
バンビ
ザルテンの『バンビ』は、児童書の棚に並んでいる本の中で、一番大人っぽい本だ、と書いていたのは江國香織だったと思う。久しぶりにこの本を読み返してみて、確かにそうだ、と思った。媚びることなく、世界が確かなまなざしで語られている。一匹の小鹿が誕生し、生きていく様子が、ただ甘いだけではなく描かれる。そこには生も死も等しく正しい重さで存在していて、感情に寄り添いすぎることなく淡々と、続いていく。
わたしが心打たれるのは、バンビのまっすぐな確かさだ。どこまでもひとりで、どこまでもまっすぐに生きる姿。それはただそれだけで、はっとするほど美しいのだ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/...
2004.07.27
はつ恋
「せつない」という言葉は、もともと、人やものを大切に思う、という意味だったという。なんて綺麗な言葉だろうか、と、思う。
相手のことをぎゅっと大事に思ったり、それゆえに何もかも許せるような、むしろ許せる、という言葉さえ無意味に思えるような気持ち。その人の過ごす一瞬一瞬さえもが誇りに思えるような…、そんな気持ちが「せつない」ということならば、なんて素敵な言葉だろうか、と、思う。
……なんてことを考えながら、よしもとばななの『High and dry(はつ恋)』を読んでいます。
2004.07.03
読書メモ
川島誠 『ロッカーズ』 角川文庫 2004
"rock"、という英単語の意味を教えてもらったのは姉からだった。どこでだったかは忘れてしまったが、そのときそこにはイギリスのバンドが歌うある曲が流れていた。印象的なリフレイン。あるフレーズが耳にとまり、「ねえ、rockって、動詞だとどういう意味なの」と聞いたのだ。「揺さぶる、って意味よ」、という姉の返事に、頷いたのを覚えている。
そう、だからロックなのだ、と思う。
コレット 『青い麦』 新潮文庫 1955
夏になると必ず読みたくなる一冊。鮮やかで、切なく美しい。あざみを見ると、わたしはこの本を思い出す。
いくつかの訳がでているが、この新潮文庫の堀口訳が秀逸。
山崎マキコ 『ためらいもイエス』 文藝春秋 2004
28歳で年収600万を超え、仕事が好きな主人公。多分外から見たら、いまさら使うのも恥ずかしい「キャリアウーマン」ということになってしまうのだろうけれど、内面は結構葛藤している。
ストーリーは荒唐無稽で、「そりゃあないでしょ…」と思うのだが、それもご愛嬌で面白い。
2004.06.30
読書メモ
■梨木香歩 『家守綺譚』 新潮社, 2004/01
恋する百日紅が出てくるのはこの小説。主人公が根元で本を読んでやると、満足そうに目を閉じる。
随分と昔のこと。死んだ友人の実家から家守をしてくれと頼まれた男が、大きな古い屋敷に住みはじめるところから、物語がはじまる。百日紅が主人公に恋をし、狸は和尚に化け、河童の少女が衣を探しにやってくる。
文章の流れは眼や心に心地よく、きっと読んでも美しい。静謐で、馥郁とした愛すべき一冊。
■江國香織 『思いわずらうことなく愉しく生きよ』 光文社, 2004/06
「自分のしたことに後悔なんてしないわ。」
溜息をつきながら読み終える。この小説にでてくる三姉妹とは随分違うけれど、うちも、三姉妹。
(ちなみに、「末っ子です」とわたしが言うと、いつも反応はきれいに二通りに分かれる。「そうよねえ」と深く頷く人と、「そうはみえない」と首を振る人と。「君は本当に我侭でうそつきで甘えてばかりだからねえ」と、言う人も。)
いつもながら、ディテールの勝利だ、と思う。江國さんの書く小説のディテールは、他のすべてを差しおいて、わたしを世界に引き込んでいく。
■よしもとばなな 『海のふた』 ロッキング・オン , 2004/06
読んでいて、かき氷が食べたくなった。白いやつ。杏がのっているのがわたしは好きで、口の中でほんのり甘く溶けるあの食べ物は、どちらかといえば奇跡に近い味がする、と、思う。
陳腐な言い方をしてしまえば、愛なのだ。終始流れる、いろいろなものへの率直な愛情。それゆえの憤りと、美しい諦念。
2004.06.08
ビューティフル・ネーム
彼女の名前を初めて見たとき、こう思ったのを覚えている。
きれいな名前だな、と。
美しくて、凛としているように見えた。
その後、彼女の写真を見て、ああ、名前の通りの人だ、と、思った。もう、10年以上前のことだ。
『ビューティフル・ネーム』
「テーマは、正しく歌の歌詞の中にある「つよくてきれいなあなたの名前」です。」と、生前、作家自身が言っていた通り、この小説には、強くてきれいな名前をもった人たちが出てくる。例えば、「姜江以士」。「崔奈蘭」。
彼らにとって、その名前は、最初から美しいものだったわけではない。その美しさは、日本で、言ってしまえば「普通ではない」名前で生きてきた、(そしてこれからも生きていくだろう)彼らが、自らの手で手にいれてきた美しさだ。
心から血がにじむほど辛い思いをして、泣いたり、叫んだりして、そうしてやっと手に入れられる種類の美しさがあるように思う。わたしは、そんな美しさを、愛しく思う。
「思ったり感じたりしたものの勝ちだ」
いつか別の小説で、鷺沢萠が書いた言葉が、いまさら切なく響いてくる。「思ったり感じたり」するのは、時々ひどく辛いことだ。だからこそ彼女はあえて書いたのだろう。「思ったり感じたりしたものの勝ちだ」、と。そして、その、「思ったり感じたり」した末の美しさを、彼女もまた、手に入れていたのではなかったか。
自ら死を選んだ彼女のことを思いながら、それでもわたしは、考えている。やっぱり、思ったり感じたりしたものの勝ちだ、と。彼女の名前も、本当にきれいな名前だった、と。
鷺沢萠 『ビューティフル・ネーム』 新潮社
2004.06.03
まんげつのよるまでまちなさい
まんげつのよるまでまちなさい。
*
まだ字も読めないちいさいころ、寝る前に、母が本を読んでくれるのが常だった。
あたたかなふとんの中で、スタンドの明りだけつけて、うとうとしながら母の声を聞く。
いつもいつも、あっという間に眠ってしまって、気づけば朝がきている。
わたしにとって、夜は、いつもあたたかく、守られていた。
そのころ、母が好んで読んでくれた絵本があって、それは、小さなあらいぐまの親子の話だった。穴に住んでいるあらいぐまのぼうやが、夜を見に行きたいのだと言い出すところから物語は始まる。おかあさんは、そのたび、坊やに言うのだ。まんげつのよるまでまちなさい、と。
母は、よく、わがままをいうわたしに言った。ほら、「まんげつのよるまでまちなさい」でしょ、と。あらいぐまの坊やのように、あなたも少しは我慢しなさい。そういう意味だ。
わたしはそのたび、口を尖らせて返事をする。「はあい。」
だから、小さい頃のわたしにとって、「まんげつのよる」は、少し特別な意味を持っていた。ただ月が満ちるだけではなく、まんげつのよるには願いがかなうのだ。
*
仕事に疲れて、外に出たら、まんまるな月が浮かんでいた。
「満月の夜だ!」
わたしは思って、うれしくなる。
「よるをみにいかなきゃ」
唐突に思い、わたしは夜を歩きはじめる。
木の葉がさわさわしていた。照らされた芝生はうるうると輝き、水面は揺れ、風が吹いていた。
月のひかりに照らされながら、自分の影を見つめている。
*
おかあさん、ぼく、もう、まちきれないよ。きょうこそ、もりに、よるをみにいくよ。
いっておいで、だって、きょうは、まんげつのよるだもの!
*
見上げると、月はそこに、冴え冴えと光っていた。
2004.04.28
読書メモ
■小川洋子 『ブラフマンの埋葬』 講談社
ひんやりした小説を書く人だ、とずっと思っていた。『妊娠カレンダー』にしても、『冷めない紅茶』にしても『薬指の標本』にしてもそうだ。ところが、『博士の愛した数式』はあたたかかった。切なさは底辺にあるものの、あたたかい小説だ、と思った。この本もそう。最初から分かっていたような結末に向かって小説は走っていくが、いつも感じるのは、ほんのりとしたあたたかさだ。そう、生まれたばかりの赤ん坊を抱いている時のような。
小さなブラフマン。両腕に抱いてみたい、と思うのは、わたしだけではないはずだ。
■池澤夏樹 『パレオマニア 大英博物館からの13の旅』 集英社
面白くないわけがない、と思って手にとった本。期待は裏切られず、わたしは毎夜、楽しみにこの本を開いた。
ギリシャから始まって、エジプト、インド、イラン、カナダ、イギリス、カンボディア、ヴェトナム、イラク、トルコ、韓国、メキシコ、オーストラリア。大英博物館の収蔵品の中から池澤夏樹が一点を選び、次にそれが生まれた土地へ行く。ルポルタージュだけれど、存分にドラマがある。ひとつの文章の中に、時々は永遠が見えたりする。できることなら、わたしも一緒に旅をしたかった、と思ったりもしたけれど、自分の部屋のベッドの中で毎晩開くくらいの旅が、わたしには丁度いいかもしれない。
■中園直樹 『オルゴール』 幻冬舎文庫
「君には僕の気持ちなんてわからないよ」と、言われた昔のことを思い出した。「分からなくないよ」、と言いかけて、やめた。「そうだね、分からないかもしれないよね」と答えた。彼はわたしのことを、「強い」と言った。
もしもいま、高校生だったら、わたしはこの小説を、どんな風に思うだろうか。
■北村薫 『語り女たち』 新潮社
彼のものがたりは、間違いなく、「生まれてくる」のだ、と思う。水の底から泡が浮き上がってくるように、生まれてくる。
品がよくて、感じがよくて、愛すべき短編集。ものたりない、という人もいるかもしれないけれど、日常の影に潜む謎をすくいあげるように書く、わたしは彼の小説が好きだ。
2004.04.26
王子さまとバラ
勇敢な飛行機乗りで、きちんとバランスをとって生きていける人だ。子どもの世界と大人の世界の両方を知っている。我慢強く人の話を聴くことができて、例えば、不用意にある子どもを傷つけてしまったとしたら、泣くその子を優しく抱いてあやしてやる。
……こんな人がいたとしたら、あなたは心惹かれないだろうか。
作家と作品とは別物だとはいえ、サン・テグジュペリという名前を聞けば、誰もが『星の王子さま』や『人間の土地』を思い出すだろう。勇気を持った、上品で飾らない人柄。孤独と、美しさ。
『人間の土地』をニューヨーク・タイムズはこう評したという。「美しい作品。勇敢な作品。この世界の混乱への抵抗として、あるいは人類のプライドと現代という時代の歓びとを維持するためにだけでも読まれるべき作品」
わたしたちの眼に映る彼の姿は、こんなふうに、確かにとても美しい。けれど彼を、おそらく一番近くで見ただろう女性が描く「彼」は、それとは少し違っているのだ。
サン・テグジュペリは、「不幸な結婚をした」と、彼の伝記には書かれている。彼の妻コンスエロはエキゾチックな美貌を持った奔放な女性で、彼らの結婚生活は破綻をきたし、愛と葛藤の狭間で苦しんだのだ、と。
コンスエロは、『星の王子さま』に出てくるバラにもたとえて評される。プライドが高く、棘を持った我侭なバラ。
しかし、彼女の著書『バラの回想』(文藝春秋)を読むと、そのバラの聡明さに驚かされる。美しく、自分を持った、聡明な女性だ、と思った。彼女はおそらく、他からの世話など必要としない。自分で根を張り、背筋を伸ばし、華やかに咲く。寂しさを抱えながら、それでも尚美しく。
テグジュペリは、彼女に出会ったとたんに恋に落ち、熱烈に求婚した後に彼女と結婚する。そこには、ただ美しいだけの彼ではなく、我侭で、気まぐれで、たまに子どもじみていて、移り気な一人の男の姿がある。純粋ではあるが、時々ひどく難しく、不安定な彼。
きっとどちらの彼の姿も真実なのだろう、と思う。人は皆、遠めに見れば美しいが、内面には葛藤を抱えている。その内面を知ることができるのは、ぶつかるようにして関わりを持った相手だけなのかもしれない。
ただ、コンスエロの書く彼は、それでも尚、魅力的だ。純粋で、高潔なだけではなく、人間らしく、時に弱く、揺らぐ気持ちを抱える彼。そしてその隣には、いつも美しいバラがある。棘を持った、誇り高いバラの姿が。
2004.04.25
シンプルな、わたしにとっての真実。
わたしが見ている彼と、他の誰かが見ている彼とは全く違うんだろうな、と思うことがある。会話の内容だって違うだろうし、表情だって違うし、もちろん、名前の呼び方だって違う。誰かは彼のことを「いい人」と言うかもしれないし、「仕事ができる人」と言う誰かがいるかもしれない。そしてそのどれもが、等しくその人にとっての真実なのだ。
*
川上弘美の『ニシノユキヒコの恋と冒険』を読みながら、そんなことを考えた。「ニシノユキヒコ」という一人の男性を、10人の女性が語る連作小説。それぞれの女性が語る「ニシノユキヒコ」は、全く違う人のようであり、でも紛れもなく同じ人のようであり、つかみ所がなく、それでも憎めない人間だ。
姿が美しく、キスもセックスも上手で、仕事ができる。屈託がなく、時々クールな、愛すべきニシノユキヒコ。もちろん、女性に不自由はしないが、結局いつも「さよなら」を告げられるのは彼の方だ。
「どうして僕はきちんと女のひとを愛せないんだろう。」とつぶやく彼に、わたしはかえす言葉をもたない。愛ってなかなか行き着けないものよ、と、こころの中で思うだけで。
*
眼の前に座る彼の顔を、ときどき不思議な気持ちで眺める自分がいる。例えば10人の友人たちが彼のことを語るとき、それは十色に見えるはずだと。
あなたはどういう人ですか、と声に出さずにたずねてみる。でも、知ってる。わたしの眼にうつる彼こそ、わたしにとっての本物なのだと。そして、そのシンプルな事実は、時々わたしを安心させる。
2004.04.23
ほんもの
本物、にせものという言葉がある。どこで真贋のほどを決定するのか。
ほんものは、いつも隠れた美しさをそなえていて、誰かの愛情によって発見されるまで待っている。
この「待つ時間」の静かで自然であることが、ほんものの証拠である。
にせものは、美しさをおもてにあらわそうとしてつねに焦っている。
だからどんなに巧みに「待つ時間」を虚構しても、そこには必ず媚態があらわれる。
人間はこれにだまされる。
(亀井勝一郎「思想の花びら」)
2004.04.15
葉桜の日に
始めてその本に出会ったのは、中学三年の夏だった。
わたしは、たちまち引き込まれ、何度も何度も繰り返し読んだ。暴力的なほど強い気持ちで好きだ、と思った。そんなこと、初めてだった。
それ以来今もずっと、鷺沢萠、という作家は、わたしにとって特別な作家だった。
「あんなに誉められて嬉しくない作家はいないよ。話し掛けてごらん」
そのころよくしていただいていた、別の作家の先生に背中を押されて、メールを出したのは何年前になるだろうか。実際にお会いしたことは一度もなかったけれど、何度かWeb上で言葉を交わした。あたたかい人だ、と思った。繊細さと、大らかさが同居しているような。無造作に言葉を選んでいるように見えて、でも、どこか、やわらかいまなざしがいつもあったと思う。
朝、友人からのメッセージで訃報を聞き、慌ててネットに接続した。信じられなかった。しばらく動けずに、じっとしていた。
外に出ると、青空が広がっていた。なにか大きなものを亡くしてしまった気がするのに、何故か、涙が出なかった。ぼおっとしながら電車に乗り、会社への道を歩いた。途中、大きな桜の木がある。わずかに残った花びらが風に揺れ、枝には緑。葉桜、と思ったとたん、馬鹿みたいに涙が出た。緑が目にまぶしすぎて、痛かった。
まだ読みたいよ、と思った。まだ、一緒の世界を生きたかった。まだまだ読めると思っていた。
涙が出る。鷺沢さん、戻ってきてよ、といったら、戻ってきてくれそうな気さえするのに。
『葉桜の日』を始めて読んだあの日から、もう、10年以上経つ。
2004.04.08
いちめんのなのはな
同僚の忘れ物を届けに、昼下がりの電車に乗った。
学生時代よく使った電車に乗り、わたしは窓に張り付くようにして立っていた。懐かしい街並みが流れていく。
ふと、線路脇に黄色い絨毯が見えた。菜の花が咲いている。
いちめんのなのはな、と思った。
*
山村暮鳥
風景
純銀もざいく
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。
*
穏やかな一面の菜の花と、それを見つめる病める詩人。そこに不安があるからこそ、和やかさは一層際立って胸にしみる。
いちめんのなのはな。
2004.04.07
桜の樹の下には、
桜の花びらが散り始める頃になると、梶井基次郎の「桜の樹の下には」を読み返す。
実際は、桜の気配が感じられる頃から、この文章が心から離れないのだ。けれど、爛漫と咲き乱れている桜の下で読むには些か刺激が強すぎるので、散り始める季節にはじめて、わたしは、この文章を読み返すことができるようになる。
*
「 しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱(ゆううつ)になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。
おまえ、この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。」
*
美しさを支える腐敗。ぎりぎりのところで拮抗する惨劇と平安。あやういバランスをとりながら、心は美しさを感じていく。
美しさは移ろうからこそ美しい。散る桜に、心が落ち着くのは、わたしだけではあるまい。ただ、満開の桜にこそ死を見る作家の眼を持ち得ないわたしは、散り始めた桜の下で、感嘆の溜息を寂しくもらす。
桜の下には死体が埋まっている!
弔うように、桜の花びらが地面に落ちる。花吹雪の下を歩くと、ただ、すべてが美しく霞んでいく。
2004.04.05
メモ(サイード、イシグロ、喪失、疎外、デンデンムシノ カナシミ)
エドワード・サイードはもともとは文学者だった。彼は、ジョセフ・コンラッド論でデビューした後、『オリエンタリズム』へ向かった。触れば切れるような論説を展開しながら、彼はいつもどこかやわらかく、美しかったように思う。……「美しい」。この表現は適切ではないかもしれないが、わたしが彼に感じるのは、いつも、何故か、ある種のエレガントさだ。
彼の自伝、『遠い朝の記憶』で、彼はこう語っている。
「自分は流れつづけるひとまとまりの潮流ではないか、とわたしはときおり感じることがある。堅牢な固体としての「自己」という概念、多くの人々があれほど重要性を持たせているアイデンティティというものよりも、わたしにはこちらの方が好ましい。これらの潮流は、人生におけるもろもろの主旋律のように、目覚めているあいだは流れつづけ、至高の状態においては相互に折り合いをつけたり調和させたりという努力も必要としない。それらは「離れて」おり、おそらくどこかずれているのだろうが、少なくともつねに動き続けている──時に応じて、場所に応じて、あらゆるたぐいの意外な組み合わせが変転していくという形を取りながら、かならずしも前進するわけではなく、ときには相互に反発しながら、ポリフォニックに、しかし中心旋律は不在のままに。」(エドワード・サイード『遠い場所の記憶』みすず書房)
「過去に思いをめぐらすことが耐えられなかった」と書いていたサイードがこの自伝の執筆を始めたのは、白血病との診断を受けてからだという。彼は、闘病しながらも書き続けた。極めて個人的にも見えるこの著作は、直接的な記述はないものの、もしかしたら、何よりも雄弁に、彼の思想の根幹を語っているかもしれない。
わたしはこれを「ものがたり」として読んだ。外部から、そして自分の内面からも疎外され、消耗し、そしてそれを受け入れ生きていく一人の人間の、ものがたりとして。
*
そして、軽はずみに過ぎるかもしれないが、ここでわたしは、いつか聞いたカズオ・イシグロのある言葉を思い出す。
「僕にはずっと、選ばなかったもうひとつの人生がある」
"日本人"でありながら、英国で、英語を母語として育った、彼が人生について語ったこと。
「つまり、最初の小説で私が試みたのは、私が記憶と想像力で作り上げた日本というものをそこにとどめることだったのです。それで、過去を回想するという行為を通して書くということが、自分にとって自然なことになったのです。」
*
(そうだ、サイードも、イシグロも、音楽家を志したことがあるはずだ、)と、わたしはまた立ち止まる。
*
*
『遠い場所の記憶』を読むとき、こんなにも涙が出るのは、そこに漂う決定的な疎外感ゆえなのかもしれない。"Always Out of Place" という言葉を見るたび、わたしはナイーブにも涙を流す。絶望的なほどの、喪失感。
これは何の涙だろう、と何度目かに思ったとき、これは自分への涙だ、と思った。決して、どこにも属さない「自分」に。
*
生きていくのは、世界をつなぐことに似ている。自分の中にある世界と世界をつなぐこと。自分の中の世界と、外の世界をつないでいくこと。
そう、池澤夏樹が、こう書いたように。
「 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。 」 (池澤夏樹 『スティル・ライフ』 中公文庫)
なのに、それはときどき、絶望的な作業に思える。わたしはバランスを欠き、取り乱し、ただ立ち止って眼をつぶる。
……眼を開けたら、何が見えるのだろうか。もしかしたら、そこにあるのは、両手一杯の悲しみなのかもしれない。
*
新美南吉に、「デンデンムシノ カナシミ」という掌編がある。
一匹のでんでん虫が、ある日、大変なことに気づくことから物語は始まる。「ワタシハ イママデ ウツカリシテ ヰタケレド、ワタシノ セナカノ カラノ ナカニハ カナシミガ イツパイ ツマツテ ヰルデハ ナイカ」と。
この悲しみをどうしたらいいのか、と、でんでん虫は友達のところへ行って、もう生きてはいられない、と語りかける。するとその友達のでんでん虫は、君だけはない、自分の背中にも悲しみが一杯詰まっているのだ、と言う。でんでん虫は、他の友達のところへも行く。すると、どの友達も、どの友達も、自分の殻の中は悲しみで一杯だ、というのだ。
そして、でんでん虫は、最後に気づく。悲しみは誰でも持っているのだと。自分は、悲しみをこらえて生きていかなければならないのだと。
「ソシテ、コノ デンデンムシハ モウ、ナゲクノヲ ヤメタノデ アリマス。」と、ものがたりは締めくくられる。
■デンデンムシノ カナシミ http://www.gon.gr.jp/douwa/mokuji03.html
2004.03.19
おぼえがき
■鷺沢 萠 『ウェルカム・ホーム』 新潮社
一般的なかたちや言葉ではっきりあらわせない人と人との関係は、必ず存在している。当人たちにとってそれが居心地のいいことであるなら、その関係は、受け入れられるべきだと思う。
たとえば「結婚」とか「家庭」とか、はっきり言葉が与えられる関係に、人は安堵するのかもしれない。けれど、言葉ではなかなか言い表せなくても、ゆるやかな輪のような関係が、多分わたしには心地いい。
■喜多嶋 隆 『Sing2』 角川文庫
喜多嶋さんの本を読むと、ビーチサンダルにTシャツで砂浜を歩きたくなる。チョコレート色に日焼けして、夏の間はずっと水着でいた、子どもの頃が懐かしい。
■栗田 有起 『お縫い子テルミー』 集英社
前回の芥川賞候補作。わたしはこういう小説が好きだ。
テルミーは16歳の流しの仕立て屋。裁縫箱ひとつを持ってお縫い子として生きてゆく。「恋は自由を奪うけれど、恋しい人のいない世界は住みづらい」。彼女の縫い上げる衣装はどれも切なく美しく、一度でいいから袖を通してみたい、と、読みながら何度思ったか。フィクションなのだけれどリアルに感じる、ものがたりの力。
2004.03.10
つよいこころ
時々、思い出しては励まされる言葉がある。それは、いつか誰かとした会話だったり、ある本の一節だったりする。
ここ数年、いつもわたしの近くにあって、ことあるごとに思い出している文章がある。
「強(こわ)いこころと強(つよ)い心は違う。そんなことも考えた。心に傷を受けて生々しい傷口をふさごうとすれば心は強(こわ)くなってしまうのかも知れないが、丹念に丹念に手あてをすれば、強(つよ)い心をつくれるはずだ。」(鷺沢萠『大統領のクリスマス・ツリー』)
そう、こわばらせることなく、つよく。