2013.02.02
瀬戸内の記憶 2
直島は、瀬戸内海に浮かぶ小さな島で、わたしにとっては知った時から「モダン・アートの美しい島」だが、高知出身の知り合いは「産廃の島」だと言う。しかし銅の製錬所があり、環境問題に直面したこともあるこの島を、育ち続ける芸術の島にした人たちのことを、わたしは本当に眩しく思う。なによりこの、島という舞台が素晴らしい。この島自体が芸術への捧げものなのだ。すべて島というものが宿命的に持っているものがたりの力、それが捧げものになり、それはまたきらきらと降り注ぎこの島に還ってゆく。魔法の粉が、振りかけられるみたいに。
特に護王神社と南寺のあの佇まいはなんだろう。護王神社は江戸時代から祀られている神社を改築に合わせ杉本博司が設計したもので、南寺は安藤忠雄が設計した建物自体がジェームズ・タレルのインスタレーションの場になっている。あの、永遠と一瞬が交差する場の空気というのは麻薬みたいなもので、そこを離れたとたんまた、あの場へ行きたくなってしまう。
島を離れる船に乗り、ぼんやりと波を眺めながら、ああ、わたしは帰ってゆくのだな、と思った。
2013.02.01
瀬戸内の記憶
少し前に行った瀬戸内の島を思い出している。
直島に行くのは二度目だが、いつ行ってもほんとうにわくわくするのは、飛行機に乗り、バスで港へ向かい、そこからフェリーに揺られないとたどり着けない場所だからというのもあるのだろうと思う。飛行機に乗ってただそこへ運ばれるだけではなく、決心して、選んで、そこへたどり着くことでしか見られない風景がある。
わたしは、待ち切れずに本当に、フェリー乗り場まで息を切らせて走ったのだ。高松駅から港までは歩いてほんの十分ほどだろうか。その十分が待ち切れずわたしは走った。とにかく早くあの島に行かなければ、と、なんだかそういう気がしたのだった。息が切れても走り続けたのは、もう何年ぶりだろうか。
いままで、ほとんどの旅を一人でしてきた。けれど、本当に深々と一人でいられる場所というのは、実はそれほどないのかもしれない。ただし間違いなく直島はそういう場所だと思う。船が島へ着き、運転手さんに挨拶してバスに乗り、とにかく真っ先に向かったジェームズ・タレルの南寺。その本当に完全な暗闇のなかただひたすらに耳を澄ませ光を待ち、やがて手探りで立ち上がりその黒の深さを確かめた時、わたしは自分が一人でいることを甘いしずくのように感じたのだった。自分の手の輪郭がぼんやりとした影絵のようにゆらゆらと浮かぶ。寺から出て坂道を歩いている時にも、護王神社の石室につづくガラスの階段を透かして見た時にも、振り返りあの海景を見た時にも、いつも空気は甘かった。それはただ自由というのとは違う、孤独というのでもない、でも、自分の足で地面を踏みしめ歩いている時にしか漂わない、芳しい香りだ。
初めて行った李禹煥美術館もまた、自分の鼓動を聞きながらその世界そのものを呼吸するしかないような場所で、わたしはいつも自分を空から眺めているような、それでいて足から伸びている影そのもののような、そんな気持ちで歩いていた。
風は強かったが、その分空気は澄み空は青く、殆ど人気(ひとけ)のない冬の島はそれでも海の恵みをたっぷり浴びて、どこかおどろおどろしいのにすました顔をして、のんびりとわたしの前で手足を伸ばしていた。
島のあちこちに自生しているローズマリーの学名を「海のしずく」というのだと、そしてそれはその小さい青い花の所以なのだと、教えてくれたのが誰だか、名前を聞くのを忘れてしまった。
2012.11.25
魔都はもう遠く 3
一体この国はどういう国なんだろう、と、ホテルから空港へ走るタクシーの中で、外を見ながら考える。小雨降る朝。外からは断続的にクラクションの音が聞こえる。この街にいると、二十四時間聞こえ続けている音。
「上海、いかがでしたか」とお客さまに聞くと、「プライベートでもう一度来たいかというとそうではない。でも、インターナショナルな活気はあるよね」と。そう、確かにこの街は、宿命的にインターナショナルなのだ。汽水域のような場所。外に向かって開いていて、混沌としていて、だから魔都と呼ばれた。そしてそれが今、中国という大国の中で、足掻いている、ように見える。
もうすぐバブルは弾けるだろう。それでもここの人たちはきっと、それを勝手に勢いでいつのかにか乗り越えていくだろう。わたしたちは、ことこの街に対しては、かすかに残ったノスタルジアなど振り棄てた方がいい。もう、魔都などありはしない。
羽田まで2時間半。手を振ってお客さまと別れ、車に乗った。東京はクリーンな街だ、と思う。静かで、清潔で、約束はきちんと守られ、その代わり随分と無機質。
数日振りに深く深く息を吸いながら、窓にもたれて、暮れていくわたしの街をぼんやりと眺めていた。
2012.11.24
魔都はもう遠く 2
お風呂を溜めて、プローティガンの『愛のゆくえ』を読む。ブローティガンが上海を見たら何を書いただろう、と思う。ヴァイダは、上海に生きていたら幸せだったかもしれない。完璧な肉体を持った、美しいヴァイダ。わたしは、美しくもない身体でバスローブにくるまり、身支度をする。いくら寝不足だったからといえ、スーツケースの中にショートパンツしか入っていないなんて自分が信じられないが、何故かいくつも入っていたタイツを重ねて履いて、凌ぐことにする。しかし天気予報は外れ、気持ちのいい晴天。それだけで何かいいことがありそうな気がする。
タクシーで再び外灘へ。冗談みたいな観光トンネルで黄浦江を渡り浦東へ。川沿いのテラスは日が当たってぽかぽかと暖かかった。わたしはカプチーノ、他の人たちはエスプレッソ。デパートのレストラン街をぶらぶら歩いてから、豫園に小龍包を食べに行く。
初めて入った上海城隍廟は、道教の寺院で、立ちこめるお線香の煙と無心に祈りを捧げている人たちが妙に心に残る。祈る、というのはとても根源的で尊いことなのではないか、と、祈る対象を持たないわたしは何か自分が大切な忘れものをしているような気分になって、心の中で呆然と小さく祈った。何を、か、誰に、かは、よく分からない。
夜、四川料理のレストランで変臉を見る。バーでシガーとシングルモルト。何を話したかは、もう、覚えていない。
2012.11.23
魔都はもう遠く 1
ほとんど眠らずに、冷たい朝の空気のなかスーツケースを転がして家を出る。キルティングのコートにカシミアのストール。息が白い。
上海はもう何度目になるのか、途中から数えるのを止めてしまった。日常の延長、というには少し遠いけれど、もはやパスポートを忘れそうになるくらいには近しい場所で、それがここほんの一年のことなのだから人というのは何にでもすぐに慣れるものだと思う。
空港でお客様と待ち合わせ。反対に、アテンドというのは何度目でも緊張する。昔からよく知っているお客様だとしても、それはあまり変わらない。通常の業務とは気の遣い方が違うので、言葉の通り肩が凝るのだ。
飛行機はほぼ満席で、最初から最後まで、希望の席は取れなかった。ラウンジで朝食など。お客様は手ぶらで、ハードカバーの小説を一冊持ったきり。きっと旅慣れているのだろう。
ずっと誰かと一緒にいると、どれだけしゃべって、どれだけ黙っていればいいのかいつもよく分からなくなる。それを気にしなくてすむようになると、それを、仲がいい、と言うのだろうけれど。
*
到着した上海は、小雨が降っていた。ホテルにチェックインし、食事など。火鍋とお寿司の新しいレストラン。一人99元で食べ放題。その後、引っ越したばかりのオフィスに立ち寄る。出てきたコーヒーは、お砂糖とミルクがたっぷり入って、懐かしい味がした。
*
和平飯店はアールデコ様式の美しいホテルで、歴史的建造物が立ち並ぶ外灘の街並みの中でも一際目を引く。村松梢風が上海を「魔都」と呼び、租界が黄金期を迎えようとする1920年代にこのホテルもオープンしている。当時の上海へはパスポートなしで上陸できたのだという。自由で、混沌としていて、華やかで、毒々しくて、おそらくとても魅力的な街だったに違いない。抜きんでた美しさというのはいつも多かれ少なかれ悪魔的で、何かを差しだしてでも手に入れたいと願わずにいられないような、そういう種類の輝きだと思う。果たして今の上海に、その煌めきはあるだろうか。
ロビーを抜けると、壁一面が光り輝くような彫刻で飾られた廊下、その先にOld Jazz Barがある。席について、皆はワイン、わたしは梨の香りのお酒。
隣のテーブルでは、おそらくイギリス人のビジネスマンが二人。一人は、電話の向こうの誰かに、「今どこにいるか分かる?ピース・ホテルのジャズバーだよ」などと話している。
何も知らずに行ったので、どの辺がOldなのだろうかと思っていたら、拍手とともに登場した人たちを見て納得がいった。皆白髪で、七十歳は軽く超えているだろう。ぽかん、と口をあけて見ていると、おもむろに「ボギー大佐」が始まった。これほどクラシックなジャズを聴いたのは初めてだ、と思ったけれど、それがなかなか耳に心地よい。
その後歩いてLostHeavenへ。いつ行っても満席のレストラン。失われた楽園、という名前を見るたび、楽園はどこにあるのだろうか、と、いつもかすかに思う。
2011.06.18
いつも風が吹いていた 1
そうでないふりをいつもしているけれど、わたしはいつも自分に自信がないのだと思う。だから、出張でL.A.とサンフランシスコに、と言われたとき、まず勝ったのは不安の方だった。分かりました、と上司に返事をした後で、そんなのわたしにはできない、とこっそり弱音を吐いたら友だちに不思議な顔をされた。まあ確かに、もしかしたらふつうは喜んで受ける類の仕事なのかもしれない。
十日間も会社を空けるので、昨日はほとんど眠れなかった。どうしても会わなければいけない人たちに会い、しなければいけない商談を無理やり押し込んだこの一週間だったので、朝から晩まで外に出ていることが多く、事務仕事が山積みだったのだ。積まれた書類をチェックして印を押し、返信すべきメールに返信し終わったのが午前二時、その後資料をいくつか作っていたら、いつの間にか外がうっすらと明るくなっていた。
遅くとも、11時半には家を出なくてはならない。まだスーツケースには何も詰めていないから、さすがにもう家に帰ろう、と思いタクシーを呼ぶ。ぐったりとシートに座って、ほんの少しだけ眠った。
静かに家に入り、スーツケースを広げ、とにかくものを詰めていく。徹夜明けで、頭の後ろがしびれたようになっていた。ものを判断するスピードが落ちていくのが自分でも分かる。下駄箱の前で、ぼんやりと立っている自分に気づいて、あわてて靴を一足取り出して袋に入れる。あとはスーツを一着、ジャケット、カジュアルに寄り過ぎないシャツ、デニム、洗面用具と化粧品、いつも使っているシャンプー……。
それが自分のための旅行だったら、荷物はできるだけ少ない方がいい、と思っている。そもそもあまりものを持ちたくないのだ。けれど仕事のための旅行というと、なかなかそうはいかない。たぶん、どんなことへも、備えすぎるくらい備えておくのが正しいのだから。
ようやくパッキングが終わったころには、もうすっかり朝になっていた。シャワーを浴びて、身支度をする。出かける前に、デニムの裾の長さを直したい、などと考える自分を馬鹿だと思いながら、ミシンを引っ張り出して少しだけ裾を短くする。どうせだったら、完璧に気持ちのいい服を着たいではないか。
重いスーツケースを持ち上げて外に出ると、やさしい初夏の空だった。
いつ来ても空港は好きだ。自分が出発するならなおさら。重たかった気持ちが自動的に少しだけ軽くなり、スーツケースを両手で押して歩く。こんな大きなスーツケースを持って旅するのは久しぶり。
オンラインでチェックインして、荷物を預けると身軽になった。出国審査をあっという間に通り抜けると急に不安になって、飛行機のチケットを握りしめながら、これからどこへ行くんだっけ、と途方に暮れる。
前日の徹夜が効いたのか、延々とバッハを聴きながら寝ているうちにあっという間に飛行機は着陸した。ひとつのびをして、入国審査に向かう。
同じ飛行機に乗っていたのはわたしを入れて四人、お取引先のKさんと同僚二人。わたしの上司(というか社長だ)も同じ飛行機で行くはずだったのだけれど、念のため、寸前で違うエアに変えた。小さい会社なのだ。万が一何かあったとき、このメンバーが同時に死ぬわけにはいかない。
並んだ割にはあっけなく入国審査は終わり、外に出るとスーツケースがちょうど、ターンテーブルに出てくるところだった。同僚二人の姿は見えない。とりあえず、Kさんと二人で外に出る。
外に出ると、そのとたん、ぴゅうっと風が吹いた。日本の潤んだ空気とは違う、カリッとした風。一瞬目をつぶって大きく息を吸う。これがL.A.の空気、と思う。
*
待てど暮らせど同僚二人は出てこなかった。先に着いて、ホテルで待っている上司からはどんどん連絡が入ってくるが、同僚の携帯をいくら鳴らしても繋がらなかった。もし万が一、入国審査で何かがあったとしたら助けに行く必要がある。
しかしさすがに痺れを切らした上司が、「もういいから二人で先にホテルに向かって」と電話の向こうでいうので、仕方ない、タクシーに乗り込んでホテルの名前を言った。運転手さんは頷いて、車を走らせる。
どこのホテルに泊まるの、と、L.A.育ちのお取引先の社長に聞かれたとき、ダウンタウンのホテルで、と言ったら少しびっくりした顔をして、「気をつけてね」と言われた、そのことが少し頭に引っ掛かっていた。わたしはこの国のこともこの街のこともよく知らない。結局のところ、そこがどんな場所なのかは、自分で歩いて知るしかないのだ。
それでも、窓の外は真っ青な空、わたしはただ晴れ晴れと、清々しいような気持ちになって、タクシーのシートに深く座って空ばかり眺めていた。
*
チェックインして、一旦部屋に入ってスーツケースを置く。広くはないけれど、気持ちのいい部屋だった。キングサイズのベッド、しっかりしたデスク、清潔でさっぱりしたバスルーム。スーツケースを広げて、洋服だけはハンガーにかけワードローブにしまってしまう。シャワーを浴びたかったけれどその時間はないので、着ていた服と靴を脱いで新しい服を着る。
ロビーに降りると、遅れてきた同僚と上司、それと今回お世話になるパートナー会社の社員さんが座っていて、名刺を取り出して挨拶。コーヒーを一杯。
*
チャイナタウンとリトル・トーキョーを歩いて、その後は会食。何故か日本食のレストランへ行き、お蕎麦など。
2011.04.27
昨日はあの後カジノへ移動して少し遊んで、夜はシーフードを食べた。チリクラブとロブスター、白身魚、それと、スペアリブ。川沿いの、賑やかで感じがよくてとても美味しいお店だったけれど、あまりにも食べ過ぎたので、わたしはほとんどやっと、という感じで歩いて帰った。ホテルへ戻って、こっそりと胃薬を。
*
目が覚めて、カーテンを開ける。緑濃い庭が見え、その色に夏を思う。いや、この国は、いつも夏なのだったか。緑の色、太陽の角度、空気の匂いと肌触り。外から、プールの水音がしている。
身支度をして、荷物をざっとまとめる。東京へ帰るフライトは夜だけれど、もしかしたら今日はあまり時間がないかもしれない。どちらにしろ、まとめるといっても、少しの荷物しかないのだけれど。
フードコートで念願のチキンライスを食べ、スーパーで少し買い物をしてホテルに戻る。スーパーって大好き。結局のところ、越境というのは、スーパーで売っている歯磨き粉の銘柄なのだ。……つまり、いつもと違う日常を生きるということ。
部屋のバルコニーからはプールが見える。大きな椅子に座り、膝を抱えてぼんやりしていると、プールの水がきらきらと反射してとてもきれいにみえた。
ヨーロッパから来ているのだろうか、わたしの両親くらいの夫婦が、水着姿でプールにつかりながらおしゃべりしている。花柄の水着、白い肌、サングラス。プールサイドで、色鮮やかな花が揺れている。あのくらいの歳になったとき、わたしは一体、どこで何をしているんだろうか。少し、眩しかった。
*
食事をしてから、夜、空港に向かう。
夜の空港は、しかもどこかから去る時というのは、少し寂しい。
自分のために、オレンジ色の革のノートを一冊買った。
2011.04.26
旅先のホテルで取る朝食が好きだ。身支度をして、外に出る。おはよう、と言われたら、おはよう、と応える。このホテルは古くて、高層階がなく、だから客室は複雑に広がっている。廊下を歩き角を曲がり階段を少し降りて、ロビーに出る。日差しが明るい。さらに少し歩いて、カフェテリアへ。
入口で、ひとり、と言ったのだけれど、よくよく見たら皆が奥に座っている。おはようございます、と声をかけて腰を下ろす。コーヒーの香り。
昨日の夜遊びは楽しかったですか、というと、それほどでもなかったよ、とみんな言う。席を立ってオムレツを焼いてもらう。チーズとトマトとオニオン。
イギリス風に薄いトーストを焼いて、席に戻った。のんびりと、しばしおしゃべり。会議が昨日済んだので、今日はオフ。やっぱりマーライオンを見に行くべきかねえ、などと、予定のことなど。
*
シンガポール行くの、と旅に出ている友だちに言ったら、「おすすめの散歩道コースはね」という答えが返ってきた。どうしてわたしの知りたいことが分かったんだろう、とその時不思議に思ったけれど、考えてみれば、その友だちとはあきれるくらい一緒に散歩をしたんだった。落ち葉を踏みしめながら歩いた白神山地、季節が通り過ぎる鎌倉、月明かりの箱根、ススキ野原。永遠と一瞬が、同じ重さで手のひらに落ちてくることが人生にはあるって、言葉を並べて説明しなくたって知ってる人だった。もう何年も会っていないけれど、……元気だろうか。
歩いて地下鉄の駅まで向かい、icチップの入った切符を買った。少し先の駅で降りて、海辺へ向かう。道路を渡ろうとして、ふと、そこに風が吹いたとき、あ、これがこの道、あの友だちが教えてくれた、と確信に満ちて思う。道路の名前を確かめると、本当にそうだった。
ぼんやりと川沿いを歩きながら、本当に、旅とはただ一人きりのものなのだ、と思う。同じ場所を歩いていても、自分の肌と自分の目でしか、風も空気の色も味わえない。誰かの人生を代わりに生きることができないのと同じように。
それでも、その友だちがどうしてこの道をわたしに伝えたのかは、分かった気がした。川の流れと歩き、うるんだ空気を身にまといながら、わたしは、だからただ、心地よくひとりでいた。
2011.04.25
飛行機から降りると、潤んだ空気が身体にくるりと巻きつくようだった。熱帯の風。tropics、という単語が頭に浮かんだ。回帰線、と思う。
ほとんどノーチェックで入国のゲートを通り、スーツケースをピックアップする。建物の外に出て、まだ早朝なのにこの太陽の角度、と思う。この熱い空気、色鮮やかな花と緑濃く高く繁る木々、やはりここは熱帯なのだ。眩しい。
タクシーに乗り、ホテルまでの道を走りながら、こんなところまで来てしまった、と思う。でもその一方で、しかし自分は規定の世界から一歩も出ていないのではないか、という気持ちがどこにいても常に付きまとっている。
どちらにしろ、あまりに日差しが眩しいので、わたしは、目をつぶった。
*
たどり着いたのは、プールが大小二つあるクラシックなホテルで、ほどよく清潔で気持ちがよかった。まだ時間には早かったけれどチェックインさせてもらい、少し部屋で休む。
近くのショッピングセンターまで歩き、フードコートで朝食。泥のように濃いコーヒー、それでも、それはとても美味しかった。かすかに甘く香ばしいパンを鉄板で焼いてもらい、バターをつけて食べる。周りの人は鮮やかな夏の装い、窓から見える鮮やかな日差し、なんとなく夏休みみたい、と思う。
*
ホテルに戻りスーツに着替える。今後のことはどうなるか分からない話だが、少なくとも、アジア・パシフィックへの展開の話をするのだからパリッとしてきなさい、というのが上司からの指示で、だからわたしは黒いスーツ、革底の靴。まあ、もう何年も、これが制服みたいなものだ。青いシルクのインナーがつるつると気持ちがよい。
住所のメモを見せ、タクシーに乗り込んでオフィスビルへ。日本に比べれはあまり立派なオフィスではないです、と言われていたのだが、きれいな受付、シンプルだけれどきちんとした応接室と会議室。出てきた日本法人の社長と挨拶、にっこり笑ってぎゅっと握手、「こちらでお目にかかれて嬉しいです」と言うと力強く頷く。彼の眼は、本当にきれいな灰色をしている。
散々英語を勉強してきたというのに、結果的には先方の責任者は完全なバイリンガル、日本語話者が多い会議だったのでメインは日本語、時々英語、という感じだった。英語というと、わたしは、こういった打ち合わせであれば聞く分には9割方困らないが、ちっともしゃべれない。やれやれ、と心の底でかすかに思う。
滞りなく会議は終わり、いくつかの確認と合意事項、それと意見交換。広いオフィスを案内してもらってから建物を出る。
*
ビルの前、タクシーに乗り込もうとしたところで、「ちょっと寄り道に付き合わない」とお客さまが言う。そのお客さまの会社が、シンガポールに出店しようとしているその候補地を見にいくのだという。
行きます行きます喜んで、と二つ返事で、他の人たちとは別れてタクシーに乗る。
もうそろそろ初めて出会ったときから十年くらい経つかもしれない。その頃この人は今の会社とは違う、新しく立ち上げたばかりの会社にいて、わたしたちがシステムの整備を請け負ったのだ。店舗の開店が迫っていて、規模に比べて恐ろしいくらいの短納期だったから、毎日深夜までカンヅメになって仕事をした。会社を移った今も、お取引は違ったかたちで続いていて、まあ、大切なお客さまなのだ。そしてそれとは別に、たぶん、この人のことは友だちと呼んでもいい気がしている。
その人は、スマートフォンで表示した画面をドライバーさんに見せ、頷くとシートに背を預けた。本来であれば、あれこれ立ち働くのがわたしの役目なのだけれど、多分この人はそれを望んでいないし、自分で何でもできる人なのだと思う。
タクシーを降りるとそこは川べりの気持ちのいい場所で、川沿いに遊歩道がありその周りにレストランやショップが立ち並んでいる。基本的に、シンガポールはクリーンなところだけれど、クリーンなだけではなくきれいな場所だった。気持ちのいい風が吹く。
出店予定だというそこはまだがらんとしたフロアがあるだけだったが、地下鉄の出口のすぐそばの一等地。同じビルには、飲食店がたくさん入っている。人通りが多い。少なくない数の人が川を見ながら堤防に腰掛けていて、あ、悪くないな、と思う。大らかで親しい感じ。
電話でなにやら現地法人の人と会話をしているお客さまから少し離れて、一歩二歩、川の方へ近づく。そして、カメラを構えてシャッターを切った。
*
ホテルのダイニングで会食。ワインの前にビール。どこにいる時でも最初は、その土地のビールを頼むことにしている。タイガービール。すっきりとしているのに、でも、香り高く優しい味がした。
皆に、止めなよ、と言われながらも前菜でお寿司をとって、その後、炭火焼のラム。なかなか美味しい。
夜遊びに行く、という皆と手を振って別れてからのんびり歩いてホテルに戻る。わたしが男性だったら、楽しめるのかな、夜遊び、などと思いつつ。
自分の部屋に戻り、スーツを脱ぐと少し楽になる。仕事のメールを何通か送ったあと、友だちに手紙を書く。薬を三錠。さらさらのシーツにくるまってぐっすり眠った。
2010.11.16
行きの飛行機の中では、トム・フォードの「シングルマン」を観た。さすがトム・フォードだけあって、どのシーンも美しい。たとえばシャツの襟とか、ジャケットから覗く袖口とか。トイレに座っている姿さえ美しく見えるって、一体どんな魔法なんだよ、と思ったのだけれど、しかしそれを観終わった後は、他のどの映画を見ても「美しくない」気がしてつまらなかった。
行きも帰りも飛行機はそれほど混んでおらず、二人掛けの、隣の席は空いていた。わたしは、根本的に移動が好きだ。だから、飛行機もあまり苦ではない。今自分が移動している最中である、という状態が好きなのだ。友人たちはそれを聞くと、信じられない、と首を振るのだけれど。
水分だけはたっぷり採るようにしているので(そうしないとすぐ頭痛がするから)、ペットボトルを何本も抱えて飛行機に乗る。鞄を開けると、おばあちゃんが持たせてくれたクリスプスの小さな袋が入っていて、途中で、パリパリと食べた。漱石の『行人』は一向に捗らないので、雑誌の写真を眺めながらぼんやりと過ごす。
*
成田に着いて、意外に暖かいのにびっくりした。ストールを首から外す。携帯電話の電源を入れて、成田エクスプレスのチケットを買う。品川に着き、スーツケースを引っ張って歩きながら、もう旅も終り、と、思った。
2010.11.15
少しだけ疲れていたのか、今頃になってジェットラグがすっかり治ったのか、少し寝坊をしてしまった。起きると、エミちゃんはもう学校に出かけた後で、妹のエリちゃんが出かける支度をしている。わたしは、パジャマのまま台所へ行き朝ごはんを食べる。
十日間なんてあっという間だったね、と姉が言う。あっという間だったね、とわたしも答える。久しぶりのロンドン、忘れ物を見つけるには、十日間では短すぎたかもしれない。
それでも、なんて楽しい十日間だったんだろう、と思う。
飛行機は夜の便なので、近所に買い物に出た後、姉と二人で最後の食事に出かける。フィッシュ・アンド・チップスを頼み、イギリス式にお酢と塩をじゃぶじゃぶかけながら食べる。いつも、誰かとさよならする最後の食事をわたしたちは、「最後の晩餐」と呼んでいた。姉が大学生の頃、留学先の北京に帰る前の日には、家族そろって「最後の晩餐」を食べたものだ。
おばあちゃんに、ありがとうを、エリちゃんには、クリスマス日本で会おうね、と言って家を出る。姉は、空港まで送ってくれるという。
二人で並んで、タクシーの後部座席に座って外を見ていると、懐かしい駅を通り過ぎた。ねえ花ちゃん、これってあの駅だよね、と言う。わたしが通った高校は、ロンドンから特急で一時間ほどの郊外にあり、それは、そこへ向かう電車が出る駅だった。高校生の頃の週末は、当時からロンドンに住んでいた姉と過ごすのが常だった。土曜日、学校から出てうきうきと電車に乗ったのだし、日曜の夜、この駅から帰るのは少し辛かった。
「ねえ、おかしなものだけど、今もこの駅の近くを通ると、少しだけ嫌な気持ちになるよ。学校に帰らなきゃいけない、と思って」と言うと、姉は、未だにそうなの?おかしいね、と言って、目に涙を浮かべて大笑いした。
あの頃のわたしは、今の姪より若かった。そして姉も、今のわたしよりずっと若かったのだ。それでもこの人は、いつもわたしの傍にいてくれて、ずっと、わたしを助けてくれた。小さいころからずっと、それは今も変わらない。
パディントン駅からヒースロー・エクスプレスに乗ると、あっという間にヒースローに着いた。荷物を預け、出国ゲートのところで姉とさよならをする。今度会うのは、クリスマスの日本でだ。またすぐ会えるね、ありがとう、と言って別れる。
列を進んで、ゲートをくぐる瞬間振り返ると、まだ姉はそこに立っていて、こちらを見るとにっこりと手を振った。手を振り返しながら、口だけ動かしてバイバイ、と言う。
*
搭乗までの時間はたっぷりあったけれど、免税店を素通りして、ゲートの前の椅子に座っていた。電話を取り出して、姉の携帯にテキストを送る。姉の携帯はイギリス仕様なので、しかたないから英語で。しばらくすると、携帯が小さく震え、姉からの返信を表示した。"Momo chan. Tanosikattane."というそれを見て、どうしてだろう、急に、涙が出た。
搭乗口の準備が整うのを眺めながら、ほんとうに楽しかったね、と思った。膝を抱えて座りながら、そうして初めて気づいた。他のどんな国を離れるより、寂しい。
2010.11.14
フミコさんは、わたしが卒業した高校の、寄宿舎の舎監をしていた時からおかしな人だと有名だった。おかしい、というか、変わりものなのだ。でもわたしは彼女が好きだった。いつも飾らずに自然でいて、言うことも行動も、彼女なりの信念にきっちり基づいていたからだ。
あの頃から、シュタイナー教育に熱中していたが("enthusiasm" or "crazy about")、今はどういうわけか、シュタイナー教育を行うカレッジの理事になって、そのカレッジの中に住んでいるという。久しぶりに連絡をして、そのことを聞いた時にはさすがに驚いたけれど、日曜だったら時間が取れるというので、朝、ロンドンから電車に乗った。
フミコさんのいるエマソン・カレッジは、シュタイナーの人智学に基づく大人のための教育機関だ。ロンドンの、ヴィクトリア駅から電車で一時間ほどのイーストグリンステッドという駅で降りる。すぐ隣には、あの、『くまのプーさん』の舞台になった100エーカーの森がある、のどかで美しい町。駅前からタクシーに乗ると、「日本人?あそこで勉強するの?」と聞かれる。「いえいえ、友だちに会いに行くの」と答える。「シュタイナーのことを知っている?……賢い人だよ」というのに相槌を打ちながら、シュタイナーが賢い人っだって、それはいくらなんでも割愛し過ぎだろう、と思う。あの偉大なシュタイナーに向かって!……まあいいか。
フミコさんには、いいお天気を連れてきてね、と言われていたのに、この旅では度を越した雨女になっているわたしは、雨と共に到着した。車寄せにはフミコさんが傘をさして待っていてくれて、抱き合って再会を喜ぶ。何年振りだろう?でも、ちっとも変っていない。ほんとうにちっともだ。ふと、サミュエル・ウルマンのあの詩の冒頭が心に浮かぶ。青春とは人生の或る期間をいうのではなく心の様相をいうのだと……。
お邪魔します、といって家に入ると、大きな身体の男性が登場した。ふみこさんのパートナーの、ジョンさん。がっしりとした大きな手、ゆっくりとした、でも飛び跳ねるようなリズムの話し方。しっかりと握手をする。
暖炉の前でお茶を飲みながら、しばらくおしゃべり。なぜ急に理事になったか、そのいきさつなど。なんでも、このカレッジの経営が立ち行かなくなり、前の理事が閉鎖を決めたのだという。そして一旦はその決定が公表された。そこで、彼女たちは立ち上がり、資金調達(fundraising)をし、新しい理事になって、とりあえず経営を立て直したのだと。いつの間にかこんなことになって、目が回るほど忙しい、と彼女は言う。それでも、いつもののんびりとした話し方でにこにこと言われると、そんな恐ろしい苦労をしたようにはちっとも見えないのだった。つまり、活き活きとしているということだ。
雨の中、彼女に案内されてカレッジのあちこちを見せてもらう。もともと、貴族の邸宅だったのだろう。美しい建物。彫刻の部屋、絵画の部屋、オイリュトミーの部屋、農地、図書館。どこもシンプルで、でも、いたるところが一貫した美しさで満たされている。空気に、なにか特殊な色でもついているみたい。それはまるでターナーの絵のようで、わたしは部屋から部屋へフミコさんに着いて回りながら、その空気が周りで揺れるのを感じていた。
わたしは、シュタイナーのことをよく知らない。シュタイナー教育のこともだ。知っているのは、いつか見たオイリュトミー、シュタイナーの描いた黒板絵、校庭に出て、子どものために足を傷つける石を拾っていたのだということ……。それでも、ここでは芸術が人生なのだ、というのがよく分かる。すべて人間の活動は、芸術なのだと、そういう感じ。
ここへは、世界各国から、さまざまな国籍と年齢の学生が集まってくるのだという。そうだろう、きっと。ここはユートピアではないけれど、憧れの地だ。
*
フミコさんとジョンさんと一緒に食事に出て、その後、くまのプーさんの森まで連れて行ってもらった。坦々とマイペースのフミコさんと、それにきっぱりとツッコミを入れるジョンさんとのやり取りが面白い。雨はずっと降っていたけれど、途中、風向きが変わり一瞬雲が晴れ、空を眺めているとふっと、どこかから生まれてくるように虹が出た。虹!と皆で同時に叫ぶ。ああ、今、虹の根元を通るよ、とジョンさんがいい、しばらくして広いところで車を止めた。車を出て虹を眺める。きれいなアーチを描いた、本当にきれいな虹だった。"My Heart Leaps Up……"と思わずつぶやくと、フミコさんが、「本当に見事な虹。雨も連れてきたけど、虹も連れてきたのね」と言った。
*
駅まで送ってもらい、抱きあって別れる。来てくれて本当にありがとう、とフミコさんがしみじみと言うから、少しだけ泣きそうになった。
2010.11.13
義兄が香港へ旅だったので、昨日から姉の家に泊まっている。
朝、皆がまだ寝ている時間にそっと起きだして身支度をする。今度は、日帰りでパリへ。
着替えて台所にいくと、姉が起きてきて、バス停まで一緒に行くよ、と言う。ロンドンの地下鉄はよく止まるし、メンテナンスなどで一時的に閉鎖される駅も多い。この土、日は、最寄り駅も閉鎖になるから、セント・パンクラスに行くバス停まで、送っていってくれるというのだ。子どもたちを起こさないよう、そっと家を出る。
土曜日の朝はね、金曜の夜に飲みあかした人たちが街にいる。だからいつもよりは、少しだけ気をつけた方がいい、と姉が言う。それでも、どの国でも、朝の薄明の時間は美しくて、わたしはついついぼんやりしてしまう。指先と頬がつめたく冷えていたけれど、そのくらいがかえって気持ちがいい。薄青い空気の中、バスの灯りが近付いてくるのを待つ。
手を振る姉に見送られてバスに乗り、駅へ向かった。
*
13日に、パリの、ルーヴルのピラミッドの前でね、と友だちと約束したのはしばらく前のこと。たまたまわたしがロンドンにいる時にその友だちがパリに来る。だったら、パリで会えたら散歩でもしましょう、ということになったのだ。パリとロンドンは近い。
もともと、上司や同僚とパリで会う予定がなくて、だからパリに二度来るなんて、最初は思ってもいなかった。でも、期せずして二度ユーロスターに乗ることになり、わたしはそれが、なぜかとても嬉しかった。イギリスに住んでいたころは、近いはずのこの隣の国に、一度も行ったことがなかったから。
越境ということを、普段わたしは知らず知らず、特別なことのように考えている。それでも、実際こうして国の境を越えてみると、その実際の距離というのは本当に些細なものなのだった。チケットを買い、パスポートを持ち、本当に散歩に出るように出かけることができる。乗ってしまえば、二時間と少しでパリだ。
待合室のモニター表示を確かめ、指定されたプラットフォームに進む。列車の入り口で、プリント・アウトしたチケットを見せ、自分の席を探した。一人掛けの、窓際の席。少し離れた席に、イギリス人だろうか、若い二人のカップルが座っている。わたしは自分の席に座り、雑誌を眺める。朝早いからか、土曜日だからか、席は最後まで、ほんの少ししか埋まらなかった。
誰かが泣いている、と気づいたのは、出発後しばらくしてからだった。前の方に座っている先ほどのカップル、その女性の方が声をあげて泣いている。男性の声は聞こえない。
しばらくすると彼女は電話を取り出し、英語で、誰かに向かって話し始めた。多分、親戚もしくはとても親しい人と話しているのだろう。明晰な話し方だが、声のトーンは甘く可愛らしかった。「今そちらに向かっているの。明日家に着くから待っていてね、お土産をたくさんもっていくね。それとおばあちゃんは……」と、次の瞬間、はきはきと話していた彼女は突然泣き出し、電話を握りしめたまましばらく嗚咽した。ほどなく立ち直り、また話を続ける……。
彼女の人生にどんなドラマが隠されているのか、わたしには分からなかった。それでも、その後も、十分おきに彼女は泣き、パリに着くまでそれは繰り返された。そのすすり鳴く声を遠くで聞きながら、わたしは、これが異国と言うことなのかもしれない、と、ぼんやりと考えていた。
*
約束の時間には少し早かったので、ルーブルから少し離れた駅で降り、散歩をすることにした。大きな公園を横切り、いくつかのブティックを見て回り、写真を撮って、カフェでコーヒーを飲む。小雨降るなか早足で歩いていると、後ろから車のクラクションが鳴り響いた。はっと振り返ると、デコレーションされた車がクラクションを鳴らしながら走り過ぎていく。結婚式だ。沢山の花で飾られた中に乗っているのは、新郎新婦。その二人があまりにもにこにこしているものだから、わたしもつられてにこにこしながら歩く。
少し早めにルーブルに向かう。友だちは、旅行に出るとき携帯電話を持たない主義で、だから上手く待ち合わせができないと会えないかもしれない。でもさすがにまだいないだろうなあ、と思いながらピラミッドを横目に歩いていると、少し先で手を振る人がいる。あ、と思って駆け寄ると、友だちだった。こんにちは、といつものように挨拶して、歩き始める。
この時期のパリは(ロンドンもだけれど)写真月間で、あちこちのギャラリーで写真展が開かれている。だから友だちは度々この時期にパリを訪れているのだという。さっきね、細江さんの写真展をやっているのを見たよ。パリで細江さんというのもなかなかいいものだから、後でちょっと寄ってみよう、と友だちが言う。
セーヌを渡る途中で、ほら、ブレッソンのあの写真、あれはここで撮ったはず、と友だちが立ち止まる。カルチェ=ブレッソンが、セーヌを撮った有名な写真があるのだ。
わたしは、カルチェ=ブレッソンより随分と背が低い。だから少し背伸びをして、それから少し後ろに下がって、彼が何十年か前に見たであろう同じ風景を眺める。あの柳の木……、写真では随分と小さかった。それだけ時間が経ったのだ。
橋を渡って、左岸に出る。ギャラリーをいくつか。外から眺めているだけでわくわくする。いちいち立ち止まっては、小さく心の中で歓声を上げる。とにかく、美しいのだ。いや、ただ美しいというのとは違う。好みに合致するかはさておき、少なくとも誰かの美意識できっちりとコントロールされているものが多い、という感じ。とりあえずただ飾ってしまえ、というものが少ない。
細江英公さんの写真展がやっているギャラリーに入り、奥から出てきた男性にボンジュール、と挨拶をした。わたしたちが日本語で話しているのが分かったのだろう。「日本人?」と聞かれる。はい、と答えると、ミスター・ホソエが来週くるから、よかったらまた来て、と英語で言う。ほんとう?でもわたし、今日ロンドンに戻るんです。この友だちはそのころもまだいるはずだから伝えますね、と答えると、じゃあそこに名前を書いていってね、と言う。
細江さんの写真というと、ほんの少し前に日本でやっていた、「人間ロダン」の印象がまだ響くように頭に残っていた。それを確かめるようにしながら、じっと、写真の中のミシマ・ユキオを見つめる。人間は必ず老いるものだし薔薇は枯れていくものだ、と思う。細江さんの写真はとても美しいけれど、それが同時にとても生々しいのは、いつもどこかに死の匂いがしているからなのかもしれない。
「ロンドンに帰るの?」
「はい。でも、ロンドンに住んでいるわけではなくて、またすぐ日本に帰ります。わたしは日本に住んでいるの」
「その友だちも?」
「うん。友だちはまだしばらくパリに残るけれど」
「なにかアートの仕事を?」
「いいえわたしは。でも、友だちはそう。写真家をしている」
「そうなの?だったらここで展示すればいい、……今写真なんて持ってないよね、ウェブサイトを持っているなら、そのアドレスを置いていって、是非」
*
ロンドンはどう?と友だちが言う。「楽しい。すごく。もうこうなったら移住しちゃおうかと思うくらい」と笑いながら答えると、「本当に?」と確かめるようにこちらを見る。
「パリ、好きだったんだけど。定期的に来ていたけど。もう今年が最後かなって、さっき思っていた」「どうして?こんなに美しいのに?」「うん。それは確かにそうだけど、やっぱり、いろいろなことが変わってしまった」
「世界中で」わたしは、グレーの空を見上げるようにした。霧のような雨が、降ったりやんだりしている。少し先のショウウインドウの中には、あれは……ラルフ・ギブソン?「いろんなことが変わってしまっているよね」
パリはもはや芸術の都ではないのだろうか。……ないのかもしれない。それでも、つい数日前に初めてここに来たわたしにとっては、やはり、なにもかもが、泣きたくなるくらい美しいのだった。
「でもパリってやっぱりきれい。フランス人って、高飛車だって皆言うけど。こんなにきれいな所に住んでいたら、高飛車になるのも許せる、って思うくらいきれいだと思う」と、わたしが言うと、友だちは少し笑った。
*
モンパルナスに行きたい、と言ったのは、マン・レイに会いたかったからだ。入口の地図で場所を確かめ、ぬかるみに足を取られながらゆっくりと歩く。モンパルナス墓地には、ボーヴォワールとサルトルも眠っている。
マン・レイの墓地に刻まれた言葉はあまりにも有名で、ずっと前からその言葉だけは知っていた。"Unconcerned, but not indifferent"、そして、"Together Again"。それでも、実際にその、びっくりするくらい素朴な墓石の前に発つと、足がすくんで動かないようになってしまった。そっとしゃがんで、小さく祈る。
他にお参りしたい人は、と聞かれたから、迷わずブラッサイ、と答える。わたしにとって、(カルチェ=ブレッソンは別格にしても)パリと言えばこの人。夜のパリ、ピカソを撮ったもの……彫刻も素晴らしい。
ブラッサイね、行きたいと思って何度かトライしてみたけれど、行きつけたことがないんだよなあ、という友だちと、地図が示す方向に歩く。確かに、地図の通りの場所にはない。おかしいね、この辺りのはずなのにね、と言いながらしばらく探したのだけれど、やっぱり見つからない。でも、ここまで来たのに、ブラッサイの前まで行けないなんて。
仕方がないので一筋、ふた筋奥の方まで入り、ぼんやりと周りを見回す。幾多の人たちが、ここに眠っているのだ。立ち並んでいる墓石。これは残された人たちのものなのだろうか。わたしだったら、立派な墓石の下で眠りたいと思うだろうか、と考える。
少し大粒の雨が、降り始めてきた。寒いはずなのに、でも、あまり寒さを感じなかった。
ヨーロッパの、石造りの建物。グレーの空。落ち葉。プラタナス。眠る人々。そろそろ戻ろうか、と思ってふと振り返ったとき、何かとても親しい文字の並びが見えた。B…R……A……、確かにブラッサイだ。あったよ、と思わず大きな声を出す。マン・レイよりさらにすっきりとした墓標。あんなふうに夜のパリを撮った写真家が、こうして、異国であるはずのパリに眠ることを選んだのかと思うと、やっぱり彼もまた、越境を自らの芸術の、源泉にしていたのかもしれない。
*
あれこれしゃべりながら少し買い物をして、夕暮れのモンマルトルを歩き、北駅に移動して近くのカフェでカフェオレを飲んだ。
「ずっと雨だったね」と友だちが言う。「わたしね、今回の旅行はずーっと、雨を連れて歩いているみたい」と答える。「だから、今からわたしがロンドンに帰ると、パリは晴れるよ、きっと」。
駅で、いつものようにまたね、と、手を振って別れた。あまりにもそれが普段通りだったから、鞄からパスポートを出すのさえ少し不思議な気がした。
*
帰りのユーロスターの中で、イタリア人の遺伝子学者に出会った。たまたま席が近かっただけなのだけれど。丁寧な、クセのない英語。50代後半から60歳くらいだろうか。パリとロンドンを行き来して過ごしているという。「遺伝子学者。それはとても素敵だけれど、わたしはちっとも科学のことが分からない。ドーキンスしか知らないですし。えーっと、"The Selfish Gene"?」と言うわたしに、「まあ、厳密にいえば彼は遺伝子学者ではないけれどね」と言う。
日本人?と聞かれたので、そうだ、と答える。ふむ。日本人と言う人種はとても優秀で、僕の同僚にも沢山の日本人がいるよ、と言うから、「残念ながら、わたしは優秀な種類の日本人ではないみたい」と首をすくめた。
音楽が好きなのだという。バッハの話をしていたとき、ふとした拍子に、『ゲーデル・エッシャー・バッハ』の話になった。ああ、ダグラス・ホフスタッター。高校生のとき読みましたよ、というと、彼はたちまちびっくりした顔をしてとび起きて、驚いたね、という。「あの本は……、あの時代、一部で熱狂的に受け入れられた本で、それを日本なんかで」(ここで彼は失礼、と言う顔をした)「読んでいる高校生がいたとはね」
「続編も読みました。『メタマジック・ゲーム』。……極東の、小さな島国で」と、にっこり笑うと、彼はまいったね、という顔をして、「こんなところで、君みたいな人と、あの本の話ができるとは驚いた」と溜息をついた。
時折こうして出会う人がいて、ほんの少しの時間を話しただけなのに、なにか同じ言葉を話している、という気がすることがある。人種はさておき。
実はわたしは、話しはじめた時から、彼の言葉の中にほんの少しだけ時折混じる、人種差別的な表現が気になっていたのだ。蔑視、まではいかない、悪気のない優位性の主張。それが、一冊の本の話をしたあと、すっかり消えた。あ、今、信用してもらったんだな、と思うと同時に、心のどこかが少しだけ重たくなる。
*
セント・パンクラスで遺伝子学者と別れ、バスに乗る。ロンドンの、バスの路線は複雑で、同じ名前が付いている駅でも路線に寄って場所が違うし、行きと帰りでもルートが違う。姉の家の確実に近く、でも、初めて降りるバス停で降りてきょろきょろ周りを見回しながら歩いて行く。……あれ、この道は見覚えがあるけれど、方角が分からない、困ったな、そろそろ電話をしようかな……、と思っていると電話が鳴った。出る。「桃ちゃん、大丈夫?」わたしはびっくりして、「今、電話しようかどうしようか迷っていたところだよ、近くまで来ているけれど道が分からなくなっちゃった」と答える。「あらら、よく分からないけれど、なんだか急に電話しなきゃいけない気がしたの。今何が見える?」わたしはほっとしながら、姉の指示通りに歩いた。
空に月が出ていた。もうずっと昔に好きだった人は、よく旅に出る人だった。わたしはよく月を見上げ、この月はあの国からもきっと同じ、といつも考えていた。月から見れば、日本にいようがロンドンにいようが、誤差の範囲内だろう。だから、今も、何か辛いことがあると、遠くのことを考える。
今は何も辛いことはないけれど、月を見ながらわたしは、ロンドンと日本の距離のことを考えていた。
2010.11.12
義兄が今日から香港に一時帰国する。わたしが、おばあちゃんと一緒に姉の家に着いたころには彼はもう仕事に出ていて、あれ、もしかしたらもう会えないのかな、などと言っていると、出かけようとしたエレベーターホールで、帰ってきた彼とばったり出会った。元気でね、本当にどうもありがとう、と握手をして別れる。
彼も、おばあちゃんと一緒に香港からロンドンへやってきた。小学校か、中学校の頃だったという。その当時、東洋人はまだ珍しく、もちろん英語も話せなかったから、学校で散々いじめられたそうだ。だから学校は大嫌いだった、と言う。
でも、ブルース・リーがヒーローになってからは違った。ブルース・リーに人気が出てからは、誰かにいじめられそうになるたびに、ブルース・リーのまねをしてカンフーで戦ったのだという。いじめっ子たちはそれだけでたじろぎ、それからは二度とかかってこなかった、と。だからブルース・リーは僕の、本当のヒーローなんだよ……。
わたしはその話を聞いて、涙が出るほど笑いながら、でも、違う種類の涙も一滴二滴流した。なんとも、切ない話ではないか。
わたしの姪っ子たちは、香港人の父親と、日本人の母親にイギリスで育てられ、イギリスの学校教育を受け、日本語と広東語の補習校に行っている。一番上のエミは大学受験の歳で、Aレベル(センター試験のようなもの。ちょっと違うけれど)を受け、大学に出願しているところ。Aレベルの結果を聞いたら、A,A,A*だという。Aばっかりって、いったいどこからそんなに賢い子が生まれたのよ、というのは冗談で、日本語と中国語がそのAの科目に含まれているとしても、立派な成績だと思う。
けれど、彼女は、たまに泣くのだという。自分の英語は、生粋のイギリス人の英語ではないと。もちろん、十分か十分ではいかと言えば、十分なレベルだ。幼稚園からこちらの学校に通っているのだ。発音だって語彙だってほとんど完璧。それでも……、と彼女は泣く。そして日本語はといえば、ごくたまにおかしいところはあったとしてもやっぱり「日本人の話す日本語」を彼女は使う。けれど、読み書きに関しては、完全に努力して身につけたものだろう。たとえそれが母語だとしても、異国で暮らし教育を受けていれば、決意を持って努力しなければその言葉は身に着かない。特に読み書きはそうだ。
傍から見れば、トライリンガルで(トリプル・リミテッドの状態ではないということ)、悪気なく、ワオ、すごいわね、と言われることが多い姪っ子たちなのだけれど、彼女たち本人の気持ちで考えてみれば、どちらにしろ何かと、常に戦っているのかもしれない。わたしが戦わなくてすんだ、いろいろなこととも。
エミちゃん、大学で何を勉強するの、と聞くと、ラテン語とスペイン語、と答える。あれ、ラテン語って、今誰か話してるんだっけ?と聞くと、ううん、と答える。
ふむ、とわたしは思ったいろいろなことを、口には出さなかった。
*
バスに乗って、コートールド・ギャラリーへ。ここはロンドン大学付属のギャラリー。もともとは、サミュエル・コートールドの個人コレクションにいくつかを加えて公開したもので、広い美術館ではないし点数も多くはないけれど、収蔵作品は本当に素晴らしい。今まで見た美術館のどこか一つにいつでも行ける権利をあげる、と言われたら、わたしはナショナル・ギャラリーと迷った末にここを選ぶと思う。いったいどんな人が、こんなふうに絵を集められるのか。それぞれの時代の、本当に素晴らしい何点かが、大切に大切にそっと選ばれている、という感じ。中でも、印象派と所謂ポスト印象派、特にゴッホの自画像とマネの、「フォリー=ベルジェールの酒場」。
やはりいい絵というのは、文句なしにいいものなのだと思う。マネの描いた女給と向かい合って立ちながらわたしは、その、どのようにもとれる表情をみつめ、その黒の美しさに憧れ、酒場の喧騒を聞いた。引力、と思う。巧拙ではなく、文句なしに目の前に立たされ、そこから離れられなくなってしまう力のこと。
なんと、モディリアーニもゴーギャンもかかっている。カンディンスキーも、マティスも。すっかり魂を抜かれたようになって、建物を出た。
*
ふらふらと歩いているうちに、カーナビ―・ストリートまで来てしまった。ここまで来たなら、と思い、リバティに寄りお土産を買い、カフェでクリーム・ティを。美味しいクロテッド・クリームは、日本ではなかなか食べられない。日本にも乳牛はいるのに、クロテッド・クリームをあまり見かけないのはどうしてだろう。生クリームよりこっくりとしていて、冷たくつるりとしているそれを、好きな人だって多いと思うのに。
夕方からの約束までにまだ時間があった。隣では、年配の女性がスープの昼食を取っている。
旅にはいつも、文庫本を二冊持って出る。一冊は必ず、染織家の志村ふくみと詩人である宇佐見英治の、『一茎有情』。これは、二人の間で交わされた書簡と対談が収められていて、難しい言葉など一つもないのに、一言一言が美しく心に染みいる素晴らしい本だ。わたしは海外に出るとき、いつも必ずこれを鞄に入れていく。そして時に励まされ、慰められているような気になって、異国の時間の縁にしている。もう一冊は、その時その時で気が向いたものを。今回は何故か漱石の『行人』。漱石がロンドンに住んでいたのはよく知られた話で、わたしもだから漱石をよく読んだ。そのせいで思わず鞄に、入れてきたのかもしれない。
『行人』を取り出してページをめくる。しかしなぜだか、自分がどんどん一人になっていく気がして、恐ろしくなって途中で本を置いた。
*
ヴィクトリアステーションの、待ち合わせの場所に歩いて行くと、遠くから見覚えのある横顔が見えた。あわてて走って駆け寄り声をかける。昔とちっとも変らない顔がこちらを向いて、わたしは彼女に抱きついて「会えてよかった」と言った。
アナさんは、高校の時のわたしの、プライベートレッスンの先生だった。イギリス人とイタリア人のハーフで、でも完璧に美しい英語を話し、フェミニストで、物語を書き、そして四年のあいだ、わたしに英語を教えてくれた。
わたしが彼女から教わったのは、もちろん英語だけではない。黒板の真ん中に線を引いて、右側、左側にそれぞれ立ってディベートの練習もしたのだし、ジェーン・オースティンやオスカー・ワイルドを次々に読んだ。もちろんその合間にはいろいろな話をして……、わたしはいつも、週に二度の彼女のレッスンを心待ちにしていたのだ。
そのまま駅のカフェで、息つく間もなくおしゃべりをする。彼女は、二時間ほどしか時間がないという。でも、ずっと音信が途絶えていた彼女と連絡が取れたのがつい昨日のこと。それで今日、こうして会えたのだから贅沢は言うまい。何年もの時間を取り戻すには、足りないけれど。
わたしは、彼女の声をはっきりと覚えていた。学校の廊下の、向こうの方からテキストを抱えて歩いてくる姿とか、いつもどこか子どものように、次は何を言おうと目の奥が笑っているところとかを。もちろん、ただの教師と生徒だった。でも、こうしてすっと、ほんの一瞬で「あのころ」に戻れてしまうような時間を、わたしたちは一緒に、過ごしていたのだと思う。
「あなたはちっとも変っていない」とアナさんが言う。彼女は少し言葉を選んでから、「あなたは、いつも笑っていたもの」と続ける。もちろん、親元を離れて寄宿舎に入っていたあの特殊な生活が辛くなかったわけはない。でも、世の中には、いつも笑うことを選択するタイプの人たちがいて、あなたもそうだった。どんなことがあっても、笑っていたし、今もそうだもの、と。「深刻になれないだけです」とわたしは言う。「それに、あの時、わたし、結構幸せだったし。……ほんとうに」と言うと、アナさんはもう一度笑って、あなたはきっとそういうふうに人生を生きていくのでしょうね、と言った。
しかし、システム・エンジニアですって、いったいどうしてそんな職業にまあ、と彼女が大袈裟に嘆くから、わたしは笑いながら、「それでも、結構幸せなんですよ、今もわたし」と、答える。まあ、阿呆みたいな受け答えだが、確かに、それがわたしなのだ、多分。
もう行かなきゃ、という彼女と、地下鉄の改札まで一緒に歩き、またぎゅっと抱きあって別れた。日本に来てね、とわたしが言う。またロンドンにいらっしゃい、と彼女が言う。どちらにしろ、必ず手紙を書いてね……。
2010.11.11
この時期のイギリスでは、胸に赤いポピーをつけている人が沢山いる。11月11日は、リメンバランス・デー。第一次世界大戦の休戦協定が発行されたのが1918年のこの日。午前11時に、戦いが終結を迎えた。だから、戦地で咲き乱れたという赤いポピーを、胸につけて黙祷するのだという。たまたま11時、セント・ポールの横を通ると、歩いていた人たちも鐘の音とともに足を止め、静かに祈っていた。
*
ミレニアム・ブリッジを渡りテート・モダンへ。わたしが住んでいたころは、テートといえばテート・ブリテンしかなかった。たまたま、ゴーギャン展がやっていたので喜び勇んでチケットを買う。
ゴーギャン展だけではなく、所蔵作品も素晴らしかった。写真の部屋で、あ、アウグスト・サンダー!杉本博司!!と興奮するわたしを姉が笑いながら見ている。Rosa Barbaのインスタレーションもとてもよい。ゴーギャン?ボリュームといい、なんといい、すっかり圧倒される。
絵を見ると何故かお腹が空く。平日だというのにレストランは一杯だったから、近くのパブに駆け込むようにして、わたしはハンバーガー、姉はリブアイステーキ。どちらのお皿にも、山盛りのチップスが乗せられている。イギリス人にとってのジャガイモって、わたしたちにとってのお米と同じなのではなかろうか、と思いながらせっせと食べる。
窓の外では、急に、激しい雨が降り始めた。昔は雨なんてすぐに止んだものだけれど、と姉が言う。今はこんなにすごい雨が、なかなか降り止まないのだという。昔は、イギリス人と言えば傘なんて差さないものだったけれど、さすがにこれでは、傘がどうしたって入り用だろう。
しかし見る見るうちに雨雲は通り過ぎ、しばらくすると青空が覗いた。
*
パリにはセーヌがあり、ロンドンにはテムズがある。川を中心に都市が発達してきた、ということなのだろうか。交通と物流の要としての川。
そのテムズを船で渡り、対岸のテート・ブリテンへ。昔、何度か来たことがあるはずだけれど、その時と少し印象が違う。姪っ子を迎えに行く姉とここで別れ、一人でぼんやりと歩く。
ミレーのオフィーリアは展示していますか?と聞くと今はないという。残念、と思いながらサージェントの「カーネーション、リリー、ローズ」の前でしばらく時間を過ごす。わたしはこの絵が本当に大好き。その名の通り、花に囲まれて女の子が二人、ぼんぼりを持って立っているのだ。何ともやさしくやわらかく、見ていると心にぱっと灯りがともったようになる。
ターナーの部屋では、小さな子どもたちが座って何かワークショップをしていた。こんな美術館が無料で入れるのだ。実際、どの美術館でも、子どもたちがスケッチブックを手に熱心にスケッチしているのを見た。……適わない、と思う。少なくともこんなふうに、浴びるように本物を見て育っているのだ。美術の教科書に刷られた小さな絵を何度も眺め、溜息をついていた小学生の頃の自分がもしここにいたら、と、かすかにそう思った。
*
テムズ川沿いを歩いてウエストミンスターへ。ぶらぶらと歩いて行くと、ゴシック様式のウエストミンスター寺院が見え、ビッグベン、ロンドン・アイ、と、ロンドンの絵葉書みたいな光景が続く。みんなカメラを構えているから、思わずわたしも写真をぱちりと撮る。もう少し歩こうか、と思ったけれど、もう日も暮れてきたので地下鉄に乗って帰ることにする。多分、バスよりも早い。……まあそうは言っても、急ぐ旅ではないのだけれど。
入口で、念のためオイスターカード(こちらのSuicaみたいなもの。切符で乗るのとオイスターカードで乗るのと劇的に値段が違う)にトップアップ(日本で言うチャージ)する。ふと、フランスでカルネを買った時のことを思い出して、言葉がすんなり分かるということは有り難いことだ、と思う。今のわたしにとって、フランス語は呪文と同じ。全く実用の役には立たないから。
それにしても、英語を話さないし読まないおばあちゃんは、ここで生活するのが大変なのではなかろうか、と、もう何度も考えた同じことを、わたしはまた考える。おばあちゃんが香港からロンドンにやってきたのはおそらく四十年近く前のはずだ。たぶん、今のわたしくらいの歳のときだろう。おばあちゃんは、賢い人なのだ。だから、わたしは、今彼女が英語を話さないのは、もしかしたら彼女の決意によるものなのかもしれない、とさえ思っている。英語を、覚えようと思えば覚えられたはずなのに、何かの理由で彼女はそれを拒否したのではないか、と。もちろんこれは想像でしかないけれど。それでも彼女は、間違えずにバスに乗りどこへでも行くし、マーケットに買い物に行けば美味しい鶏を値切って買ってくる。しかし、その国の言葉なしでそれをやるには、そうとうな苦労があるはずなのだ。……しかしわたしのそんな心配を聞いたら、ひょっとしたら彼女は、ただ笑い飛ばすかもしれない。
そんなことを考えていたら、地下鉄が止まっていたのにも気づかなかった。ロンドンの地下鉄はよく止まるので、またいつものことだろう、と思っていたらもうたっぷり十分は動いていない。たまたま駅に止まっている時だったので、一旦電車を降りて周りを見回してみたけれど、詳しいことは何も分からなかった。乗り換えるにも不便だし、外に出て、うまくバスに乗れるかも分からない。しかし電車が動く保証もない。さてどうしよう、と思いながらもう一度電車に戻ると、向かいに座っている女の子の携帯が鳴った。「そうなの、今電車が止まっちゃっているの。とにかく遅れるけど、そのうち着くから……」と、そののんびりした口調を聞いているうちに、わたしも、まあいっか、とシートに座った。
最寄りの駅にようやくたどり着き、電車を降りたところで電話が鳴る。姉からだ。「あのね、電車が止まっちゃっていて今駅に着いたよ……」と話して電話を切ったあと、一人で少し笑ってしまった。だって、帰りが遅くなったからといって、こうして誰かに心配してもらうのは久しぶり。いくつになっても姉は姉だし、妹は妹なのだ。
2010.11.10
同僚二人は朝早い便でローマに発った。後一日パリに滞在する上司と、画廊など見た後で北駅で別れる。昼過ぎの電車に乗る前に、エスプレッソを一杯。情けないけれど、昨日の夕食がまだ消化しきれていないのかもしれない。胃が重い。そして、旅先で一緒に過ごした誰かと別れて一人になるのは、たとえそれが同僚や上司だったとしても、少しだけさみしい。
フランスの、出国審査のカウンターでは、にこにこと日本語で話しかけられた。こちらも日本語で返す。フランスを出て、三メートル先にはイギリスの入国審査。わたしが知る限り、入国審査で一番事細かに質問されるのはイギリスだと思う。いくつかの問いかけに答え、入国のスタンプを押してもらう。
ホームに行く前の売店で、そうだお土産を買おう、と思う。そういえばバタバタしていて、フランスで何も買っている暇がなかったのだ。ギャラリー・ラファイエットでブラウスを買ったきり。ポケットの中には、地下鉄のカルネも入っているけれど。
姉たちのために、ビスケットをひと箱買った。
*
窓から外を眺めていると、フランスは豊かな国なのだ、と感じる。土地面積でいえば日本とそれほど変わらないのに、耕地面積が圧倒的に広い、農業大国。もし、サン・テグジュペリがこの国で生まれたのでなかったしても、あの小さな王子様は、羊をほしいといっただろうか……などと思いながら寝たら、小さな羊の夢を見た。
*
出かけたのと同じ、セント・パンクラス駅に到着してそのまま地下鉄に乗る。姉の家の最寄り駅にはほんの数分で着く。駅を出て歩いていると携帯が鳴る。姉からだ。
「桃ちゃん?今どこ?」
「今ね、駅に着いて家に向かって歩いているところ」
「本当?大丈夫?道分かる?」
「うん。大丈夫と思う」
「じゃあ、家で待っているね。気をつけてきてね」
*
ただいまー、と言って家に帰ると、おかえりー、と皆が言う。にこにことお土産のクッキーを渡し、お茶を飲んでいると姉が、疲れた?大丈夫?という。大丈夫よ、と答えると、よかったらこれからトモコさんのところへ行かない?という。トモコさんは姉の友達で、すぐ近くでギャラリーをやっているのだ。行く行く、と二つ返事で答える。
*
トモコさんと初めて会ったのは二年くらい前の北海道だった。トモコさんは、パートナーのジェフさんと北海道の美瑛でも写真館をやっているのだ。その時も日本に帰ってきた姉と、子どもたちと皆で、トモコさんの家を訪ねた。初対面なのに何故か初めて会った気がしなくて、北海道の夏の夜、外で皆で話をした。バーベキューをしながら。そしてその次の日、姉たちとは別に先に東京に戻るわたしに、トモコさんとジェフさんは、美瑛の町を案内してくれたのだった。
トモコさんと姉は、ロンドンのテレビ局で仕事をしている時に出会ったのだという。どうして友だちになったのかを聞くと、「あのね、テレビの仕事なんてしていると、おかしな人たちばっかりで」とトモコさんは笑った。「花ちゃん(姉のことだ)は本当に普通のまともな人だったの。あ、ここにやっと普通の人がいた、って思って嬉しくなって、それから仲良くなった」。
トモコさんは、その美瑛の写真館と、ここロンドンとを行ったり来たりして過ごしている。ジェフさんもだ。ジェフさんは、金融工学が専門のアナリストだが、写真家でもある。わたしはジェフさんの写真が好きだ。それは写真というには余りにも静謐で美しくて、丁寧に丁寧に筆を進めた、絵のようだから。
そのトモコさんとジェフさんの自宅でもあるギャラリーは、姉の家から歩いて十分ほどのところにある。今は、モダン・アートの二人展をやっている。
北海道の写真館と同じ、シンプルで気持ちのいい室内で、絵を見ながらおしゃべり。他愛のないあれこれや、人生のこと。
「十年近くぶりのイギリスはどうですか?」とトモコさんが言う。わたしは、少し考えながら答える。「久しぶりだったけれど、思ったよりずっと変わっていなくて、……過ごしやすいです。ここにいるとある意味で、すごく楽にしていられる。本当にここに住むとなると、大変なのかもしれないけれど」
大変かなあ、とトモコさんが言うので、トモコさんにとってはどうですか、と聞くと、「わたしは、日本にいる方が苦しいの」と答える。「いつも息苦しくて、暮らしにくい。こっちにいる方がずっと生きていきやすい」、と。姉がうんうんと同意して、「本当にそうですよね」と答える。「その秘密はなんなんだろう?自分の生まれた国なのに?」と今度は二人に向かって聞くと、「なんなんだろうね」と、二人で首を傾げている。
ここからは人生の話だ。
トモコさんのお父さんのこと、生まれた土地のこと、家族のこと、姉の家族のこと(わたしも含めてだ)、姉が大学時代に暮らした中国という国のこと、この国での人生のこと。
「この国にいると……、もちろん自分が黄色人種で、そういった意味で嫌な思いをすることはあるけれど……」と姉が言う。「多分日本ではもう暮らせない」。
日本でしか暮らせない、と、こちらで高校を卒業するときにそう思い、イギリスを離れて日本の大学に入った妹はぽかんとして、でも、身体のどこかで姉のその言葉を、しみじみと分かってもいた。
2010.11.09
パリで英語が通じると思わない方がいい、と昔からずっと聞いてきたけれど、実感としてはそんなことはない。わたしはフランス語が全く話せないから、英語を使うしか選択肢はないのだけれど、それでも、ほとんど困りはしなかった。レストランでヒラメを頼むのにも、カフェで白ワインを飲むのでも。
雨の朝、小走りにオルセーに向かう。
セーヌを渡るとき、なぜだかわからないけれど急に胸がいっぱいになって、しばらく橋の途中で足を止めていた。なにか、気持ちがぐっと身体の中で膨らんで満ちる感じ。こういう気持ちのことを、満足という名前で人は呼ぶのかもしれない。
そして、あちこちのショーウインドウで立ち止まってしまうのだから、ちっとも美術館までたどり着かない。いくらトレンチ・コートは雨用だといっても、だんだんと身体が冷えてくるので、あわてて美術館の中に入ってコートを脱いだ。
オルセーは改装中だという。それでも、入口のすぐ脇のところにゴッホとゴーギャンが並んでいて、わたしはそこで、本当にすっかり心奪われてしまった。わたしはやっぱりゴーギャンが好きだ。その人生のことは抜きにしても、それでも。
*
ひと休みしようと、シューケット(シュークリームのクリーム抜き、のようなもの。ざらめが上についている。とても美味しい)とエスプレッソを買ってカフェで座っていると、しばらくして同僚がやってきて向かいに座った。
どうする?と聞かれたので、とりあえず皆を呼び戻して上でお昼ご飯を食べましょう、と言う。一番上のフロアが食堂になっているのだ。食堂、というにはあまりに豪華な内装だけれど。昨日の夜、ピエール・ガニェールのGayaへ行き、散々シーフードを食べたのだ。今日は控えめに、と思って一番少なそうなフンギのリゾットを頼んだら、二人分?と思うばかりの量が出てきてびっくりする。クリームの味、乳製品たっぷり。
*
その後電車で向かったヴェルサイユでは、村上隆の展示がされていた。フィギュアの前で、子どもたちが大喜びで写生をしている。「これはムラカミという日本人が……」と指さしながら金色の河童(ブッダだという)を見ている人たちの後ろを、首をすくめて通り過ぎる。岡本太郎が昔言っていた。芸術と言うのは、最初はいやったらしく感じられるものなのだ、と。そういえば岡本太郎も、この国で学んだはずだった。
再び電車で一時間弱、パリの街中へ戻り買いものをしているとに上司から電話。「どこでもいいから今夜のレストランを予約して。美味しいところ。トゥール・ジャルダンとか」と無茶なことを言う。……今日は火曜日だけれど、今は五時過ぎ、何も知らない国で、一体どうやって四人分の席を確保しよう?
ブツブツと切れる携帯電話を二台握りしめて一時間ほど街中(ギャラリー・ラファイエットの目の前!)ですったもんだの揚句(トゥール・ジャルダンはもちろんダメだった)、なんとかル・ブリストルに席が確保できた。最後の一テーブルだという。フランス料理にはてんで疎いので、行ったこともないし評判を聞いたこともない。でも、ミシュランガイドの三つ星は、「それだけのために旅をしても惜しくない」しるしなのだというのだ。それに頼るしかない。
……けれど、今度は、そんなレストランに着ていける服を持っていないのだった。ドレスコードは、ジャケット着用だと言っていた。上司と同僚たちはスーツがあるからいいとして、さてどうしよう。あわてて、ギャラリー・ラファイエットに戻り、走るように店内を見て回る。ワンピースを買ったとしても靴がない。ここで靴まで買うのは現実的ではない。幸い、ホテルに戻れば黒いパンツがあるし、真珠の長いネックレスを首にぐるぐる巻いていたのでアクセサリーはこれでいい。後は、シルクとはいわなくてもつるつるした生地のブラウスがあればなんとかなるかも……。
と、結局は日本で買うのと同じお店で、試着もせずブラウスを買った。あわててホテルに戻る。
*
ざっとシャワーを浴び、靴だけ磨いて着替える。フランスの夜の食事はスタートが遅いのだとさっき電話口の女性が言っていた。だから予約は八時から。タクシーに乗り込むとようやくほっとして、お腹が鳴った。
ル・ブリストルは、同じ名前のホテルの中にある。タクシーを降りて中に入ると、それほど広いわけではない、でも気持ちよく誂えられた空間がそこにはあって、別のホテルから来るはずの同僚の姿を探していると、女性がすっと近づいてきて、「ガストロノミー・レストランですか?」とにっこり聞かれる。はい、と答えてコートを手渡すと、入口から入ってくる皆の姿が見えた。
この建物は、もともと邸宅だったのだという。どっしりとした手彫りの豪華なテーブル、大きなタペストリー、クラシックな、でも座り心地のいい椅子。テーブルに案内されるとすぐに、見た目も美しいシャンパンワゴンがやってくる。ロゼ?と聞かれてはい、と答える。ヴーヴクリコのグランダム。
何故かわたしのところにやってきたメニューには値段がついていて、上司のメニューには値段がなかったという。ついつい値段が頭をよぎるのを追い払うようにしながら一品一品選んでいく。前菜はマカロニにアーティチョークとフォワグラをつめたもの、舌平目のフィレ(後から考えればブルー・オマールにすればよかった)、野生の鴨、それとチーズ。この一日のために、……これからも頑張って働くことにする。
お料理はどれも素晴らしかった。そして、いいレストランというのはまるで劇場のようで、つかのま、物語を生きるために人はこの席に着くのかもしれない、と思った。この席に座っているあいだ自分は完全に幸せで、嫌な思いをすることがない、という、レストランはわたしにとってはそういう場所なのかもしれない。
シャンパン一杯に何千円、って馬鹿みたい、と思う自分がいる一方で、それでもこれは必要なことなのだ、と思う自分もいる。どちらにしろ、わたしは、やっぱり、レストランという場所自体が好きなのだ。たぶんとても。
しかし量は多かった。ひとつひとつのポーションが、日本で食べる1.5倍くらいの感じ。デザートのあと、エスプレッソと一緒にお菓子はいかがですか、と言われマカロンをください、と答えたわたしを、同行していた三人は心底呆れたような顔で見たのだし。
2010.11.08
昨日の午後は、皆でケンジントン宮殿の中のティールームでお茶を飲んだ。この時期のイギリスはびっくりするくらい早く日が暮れる。お店に入った時はまだ明るく青空さえ見えたのに、二杯めのお茶を飲む頃には窓の外が暗くなり、席を立つころにはすっかり夜が来ていた。途中、一人で席を立って建物の外に出たとき、もう公園にはひとけがなく静かで、ブルーブラックのインクで満たされたような空気のなか樹々がその輪郭を際立たせていた。それはまるで一服の絵のようで……いや、絵というより、まるで、それら全体がものがたりのようだった。遠くでは月が光っている。
*
朝、おばあちゃんに見送られ雨の中バスに乗り、ユーロスターでパリへ。上司と、同僚がパリへ来ているのだ。何年もイギリスに住んでいたことがあるというのに、パリどころかフランスは通過したことがあるだけで、わたしのなかでは手つかずのままだ。
ユーロスターの、ロンドン側の駅はキングス・クロスに隣接するセント・パンクラス駅。事前に予約しておいたチケットには、少なくとも40分前にチェックインすること、と書いてあったのだが、ずいぶんと早く着いてしまった。バスを降りて、標識に沿って歩いて行くとたちまちチェックインカウンターに出た。
とりあえず、改札を確認してから朝ごはんを食べにカフェに入った。ハムとチーズを挟んだクロワッサン、少し温めてください、それとカフェオレ、と頼んだ後に、あ、これからフランスに行くんだった、と思った。イギリスに名残惜しんで、イングリッシュ・ブレックファストを頼めばよかった。それでも、出てきたクロワッサンがとても美味しかったから、わたしは盛大にテーブルの上を散らかしながら朝食を済ませた。
チケットのバーコードをスキャンしゲートをくぐり、あっという間に出国審査が終わる。待合室のソファに座っていると、次第に、同じ電車に乗るのであろう人たちでロビーがいっぱいになった。ディズニーランドに行くのか、ミッキーマウスの耳をつけた小さな女の子がはしゃいでいる。大きな荷物の人がいる。わたしは、小さなショルダーバッグ一つ。
旅というものはこういうものだったのだろうか、と、わたしは旅に出るたびいつもそう思っている。「旅」という言葉はいつも憧れだから。旅には、わくわくすること、楽しいこと、心躍ること、目を見開くこと、素晴らしい出会い、そんなことがいっぱい詰まっているように思うからだ。でも実際、旅をするのはほかでもない自分自身だし、たとえ一時的に越境したとして、自分が劇的に変わるわけではない。だから旅に出るといっても、実は、日常とほんの少しだけしか違わない日々が、待っているだけなのかもしれない。
それでもわたしが旅を好きだと言うのは、旅をすると自分が、いつも結局はひとりきりなのだと自覚できるからなのだと思う。むしろ、内へ内へ、自分の内面を際立たせていくのが、自分にとっての旅かもしれない。
ロンドンからパリは二時間と少し。うとうとしているうちにあっという間にわたしは、パリの北駅に降ろされていた。トンネルを抜けた後には延々と続く田園風景、あ、市街地に入った、と思う間もなくパリだ。
ホームの端まで歩いて行くと、いつの間にか駅構内に出ていた。入国審査も改札もない。それでも、わたしは、ここがパリだ、パリだ、とずっと思いながら歩く。気持ちが、いつもよりずっと浮き立って、飛び跳ねるようにしながら駅の階段を降りた。
*
とりあえずメトロの駅まで行って、同僚に電話をする。すぐ繋がって、ほっとするのと同時に、心のどこかで少しつまらないと思う。もう少し煩雑なもろもろの手順、それを踏んでいくのが旅だったはずなのに。
今からヴェルサイユに行こうと思う、と同僚が言うので、それでは夕方合流して夕食は一緒に食べましょう、と伝え、自分はとりあえずどこへ行こうかと考える。券売機を見つけ、フランス語の表示に途方に暮れていると英語で表示できることに気づいて、とりあえずカルネ(回数券)を買う。パラパラと出てきた券を取り出しながら、まずルーブルへ、と決める。
ロンドンは、久しぶりとはいえずいぶんと親しい街であることには変わりはない。知っている地名が多いし、それの大体の位置も分かる。バスの路線は錯綜していて今も迷うことがあるけれど、それでも、自分の足でずいぶんと歩いた場所だから、街のサイズを身体が知っている。
とりあえずルーブルへ、と思ったのは、そこが美術館だからだ。どの街へ行っても、目印を決めておくと動きやすくなる。たとえば、ニューヨークだったら、メトロポリタンとMOMAを自分のランドマークにする。それを中心に移動のあれこれを考えるとすっと腑に落ちていく。ロンドンだったらナショナル・ギャラリー。ランドマークに美術館を設定するのはもう習性のようなもので、たとえば東京にいるときでもわたしは、根津美術館や現代美術館を、自分だけの目印にしている。……パリだったらルーブル、というのは短絡的に過ぎるだろうか。
路線図を眺め乗り換えの駅を頭に入れ、地下鉄に乗った。
駅から地上に出ると、大粒の雨が勢いよく降っていた。とりあえず、おばあちゃんが持たせてくれた折り畳み傘を広げる。探すまでもなく、ルーブル、という表示を見つけ、それが指し示す方へ行く。外を歩くと、あらためてその町並みの美しさにはっとする。どうしてなのか理由は分からない。でも、驚くほど美しい。そして、空がすっと広いのだ。傘をさしているのに、はっきりと分かるくらいに。
ピラミッドへ向かう外廊下を歩いていると、電話の着信に気づいた。同僚から。やっぱり予定を変更してルーブルに行くことにする、というから、なんだわたし今ルーブルですよ、と答える。すぐ着くから待っていて、と電話の声を聞きながらわたしは、ガラス越しに見える宮殿の中の様子に心奪われていた。……彫刻。その周りを人々が取り囲み、行きかっている。広い踊り場のようなところに大きな彫刻が何体も並べられ、ちょうどそれを上から見下ろすように眺めていたわたしは、踊るように行きかう人たちを見ながら、まるで音楽でも聞こえてきそうだ、と思っていた。
*
宝の山を目にして少しくらくらしながらも建物を出る。ホテルにチェックインしなければいけない。同僚はもう少し見ていくというから、わたしだけ先に歩いてすぐのホテルへ向かう。……でもその前に、どこかでお茶が飲みたかった。
広場の先にあるホテルのカフェに座り、しばらく迷ってからカプチーノを頼む。もう日は沈むけれど、食事前だから。
さっき見たばかりのサモトラケのニケの、翼のことを考えながら、ゆっくりと空が暮れていくのを眺めていた。
2010.11.07
ちょっとだけお久しぶり。お元気ですか。
夕方過ぎ、早々と日が暮れた青い空気の中を歩いていたら、
唐突に、ああ、この国で暮らしていたことがあったんだなあ、と思いました。
まだ夜というには早いのに太陽は姿を消し、まわりが紺色に暮れてきて、
建物からはオレンジ色の灯り。
この空気の感じ。懐かしいとも、さみしいとも違うのに、
でも突然少し泣きたくなって、マフラーに鼻をうずめて家に帰りました。
家……、わたしの家ではないけれど、親しい誰かが待っていてくれるところへ。
イギリスって、わたしにとってはホームでもアウェイでもないんだな、と
思いながら毎日を暮しています。
それと同時に、わたしはこの国にいるとき、
自分の居場所をずっと探していたわけだけれど、
本当の、「自分の居場所」なんてどこにもないんだな、とも。
「本当の自分」なんてものもないのかもしれない。
それでも、目に映る街並みが美しくて、それだけで毎日が楽しい。
何をするでもなく、ぐるぐると外を歩いています。
そうそう、さっき書いたことと矛盾するけれど、
今日、ナショナル・ギャラリーに行ったのです。
あの、広場が見える階段を上って入口から中に入ったとき、とてもほっとして、
ああ、美術館ってそういえば、いつもわたしの居場所だったよな、と思いました。
困ったらいつもここに来ていた。
大きな絵の前の椅子に座って、いつでも、沢山の時間を過ごしていたのです。
姉は、香港の人と結婚したので、姉の家は、日本語と、広東語と、英語の
完全なミックスで構成されています。
今、わたしは、夜だけおばあちゃん(姉の旦那さんのお母さん)の家に
泊まらせてもらっているのですが、その彼女は、英語も話せないし、
字も読めないし書けません。だから、言葉を使った意思疎通という意味では
ほとんどできないのだけれど、それでもわたしたちはとても仲良く過ごしています。
壁に貼られた写真を指差したり、身振り手振りで何でも
……ほとんどすべてのことが、通じるのです。不思議なことに。
出かける前はおやつを持たせてくれて、寒くないかどうか心配してくれて、
朝起きればあったかいお茶を一緒に飲んで、
ああ、おばあちゃんってこういう人のことだったよな、なんて思ったりして。
なんだか支離滅裂ですね。
本当だったら、手紙を書いて、
切手を貼ってポストに投函したいところなのだけれど、仕方がないので、
デジタルな世界に言葉を渡して、このメールを届けてもらうことにします。
なんだかうまくものが考えられない。
たぶん頭の中の部品かなにかを、日本に置いてきてしまったみたいです。
あ、置いてきたのはもしかしたら、自分の一部かも。
このぶんだと一生、旅慣れることってないかもしれない。
こちらは急に寒くなってきました。
またお会いできるのをとても楽しみに。
2010.11.06
姉が結婚し子どもを産んだのは、わたしがまだイギリスにいる間だった。相手は、イギリス国籍の香港人で、英語と広東語を話す。みんながおばあちゃん、と呼ぶ彼の母親は、広東語しか話さない。北京の大学を卒業している姉はなんとか広東語を話すが、わたしは、北京語も広東語もさっぱりできない。
姉には三人の娘がいる。一番上が大学入学間近、一番下がまだ生まれたばかり。家の中では、完全に文化が交錯していて、英語と日本語と広東語がごく自然に混ざり合いながら飛び交い、わたしはそこにおずおずと参加することになる。
ジェットラグのせいか、明け方何度か目を覚ました。最後に目を覚ましたとき時計を見ると7時過ぎだったので、えいっと起き上り顔を洗う。台所にいるおばあちゃんに、おはよう、と言う。英語にしたって通じないのだ、だから日本語で。
おばあちゃんはこちらを振り向きにっこり笑って、おはよう、と広東語で言い、お茶を飲む?と身振りつきで聞いてくれる。ヤム、ティ?と聞こえるのは、ヤムは飲、ティはわたしに分かるようteaと言ってくれているのだ、たぶん。わたしはうんうん、と頷きながら、居間でおばあちゃんの入れてくれた紅茶を飲む。
おばちゃんの家は、姉の家から車で十分ほどのところにあるフラットで、姉たちも数年前まではここに住んでいた。子どもが増えて手狭になったので、姉たちは近くの別のフラットに移り、おばあちゃんは今はここに、また別の孫と一緒に住んでいる。
ロンドンに来ると決まった時、初めはホテルを取ろうかと思ったのだが、おばあちゃんの家に部屋が一つ空いているというので、わたしはそれに甘えることにした。高校の頃、何度も泊めてもらった懐かしい部屋。おばあちゃんもあの頃から、何も変わらないように見える。
二人でお茶を飲み、ビスケットをかじりながら、いろいろと話をした。姉のところの一番上のお姉ちゃんと、生まれたばっかりの赤ちゃんは本当にそっくりだよね、とか、日本の父と母は元気か、とか。言葉という意味では何一つ通じていないのかもしれないけれど……、写真を指さし、首をかしげて、一緒に笑って、そもそもいつもこんなふうに、わたしとこの人とは話をしていたのだった。
一緒に姉の家へ向かうとき、おばあちゃんが、寒くない?と言った。大丈夫、と答えると、「ダイジョウブ」と繰り返しておばあちゃんが笑う。
わたしはもともと、「子ども」が苦手だったけれど、姉に初めて子どもが生まれたとき、こんなに可愛い生きものが世の中にいるんだ、と思ったのを覚えている。とにかく可愛い。姉の、新しい赤ちゃんも同じで、今8か月、ようやくつかまり立ちをしようとするころで、まったく、その今にもぽとりと落ちそうなやわらかいほっぺたとか小さなあんよとか、どこもかしこもかじりつきたいくらい可愛いのだった。
抱き上げると、まだ、ミルクとお粥だけでできている甘いにおいがして、ふんわりとやわらかい。この子のだったらいい乳母になれるかもしれない、などと思いつつ、おばあちゃんにそのチビちゃんを預けて姉と散歩に出る。土曜日の朝。
姉の住んでいるあたりは昔は下町で、所謂ワーキング・クラスの人たちが多く住んでいる場所だったのだが、家賃が安かったため次々とアーティストたちがアトリエを構え、いつの間にかアートの生まれる町、ということになっているらしい。近所にある墓地を通り抜け、(ウィリアム・ブレイクのお墓参りをし)、美しいメソジストの教会に寄り、少し歩いたところにあるモダン・アートのギャラリーへ。わたしがなぜ、モダン・アートが好きなのかといえば、それが文脈の芸術なのだからなのだと思う。
たまたま通りがかったベーグルショップに行列ができていたので、ふらふらと入りベーグルを買った。二人で並んでもぐもぐと食べながら歩く。久しぶりに、なんの煩いもなく心が軽かった。
2010.07.19
北京の空 5
お腹が痛い。
お腹が痛くて目が覚めた。
ずっと大丈夫だったのに、今日になってなんということ、と呪いの言葉を吐きながら起き上がる。気をつけていたのに、と思ったところで遠吠えでしかないので、仕方なくトイレへ行く。幸いなことに午前中はオフの予定だから、しばらくおとなしくしていよう。
しかしそれほど、起きているのがつらいほどではなかった。しばらくすると少し良くなり、カフェテリアに降りて温かいお茶を少しだけ飲んだ。脱水症状など起こしたらそれこそ、飛行機に乗れなくなってしまう。
かかりつけのお医者さまはいつも、下痢止めは飲まないほうがいい、と言う。それはそれでもっともなのだがこんな時には、もしかしたら薬をもらってきた方がよかったのかもしれない……、などとと思いつつそろりそろりと支度。飛行機に乗る予定さえなかったら大らかに構えていられるのだけれど。
それでも、出発するころにはもう身体も空っぽになり、そうなってしまえばそれほど心細くもないのだった。とはいえ本調子ではないので、先輩にキーを渡し、チェックアウトをする間、ロビーのラウンジで座らせていてもらう。ジャスミン茶を、そろりそろりと飲む。
*
雨が降り始めた。
雨だと、飛行機が遅れるかもしれない……、とケイさんが言う。ケイさんも、わたしたちの少し後の便で上海へ飛ぶのだ。
「ケイさん」
「はい?」
「ケイさん、北京と、東京と、どっちが生活しやすいですか?」
愚問かもしれない、と思いながらわたしは聞く。
「難しい……。わたしは、東京でしか仕事をしたことがありませんでした」とケイさんが言う。「だから、こちらで仕事をするのは、中国人だけれどすごく大変です。分からないことが沢山ある。思うようにならないことも。でも」
「でも?」
「少しお金を持っていれば、こちらでは贅沢な暮しができる。たとえば、この車。渋滞はあるけれど、こちらでわたしは、どこへ行くのでも電車やバスに乗る必要はありません。でも、東京でそんな生活をするのはとても難しい……」
*
空港で、ケイさんと手を振って別れた。
*
案の定、飛行機は遅れた。
一時間以上、機内で缶詰になり、飛び立つころにはぐったりと疲れてしまっていた。飛ぶか飛ばないかわからない、というのが一番堪える。ゴールのない障害物競走だって走れる、と思ったけれど、案外そうではないのかも。
離陸したのを、隣のオダカさんと手をぱちぱち叩いて喜ぶ。
お腹がまだおかしかったので機内食をパスし、ジャスミン茶ばかりを飲んで過ごした。
*
成田に着いて、
外へ出て、
ああ、空気が甘い、と思った。
東京の空気だって決していいとはいえないだろう。なのに、わたしは、苦しくない、苦しくない、息を吸っても苦しくない、と一人でこっそり何度も思っていた。
蒸しタオルにくるまれているような湿度でさえ、今は心地よい。
高速道路を走り、有明から銀座に向かうあたりで見える東京タワーを、いつも本当にきれいだと思う。特に、外から帰ってきたこんな夜には。地上で明かりがきらきらしていて、そのなかにすっと立っていて、なんというか、ともし火みたい。
そしてわたしはただいま、と声に出さずに思った。
2010.07.18
北京の空 4 つづき
昨日はあの後、ケイさんの義理のご両親が住んでいるというお宅に案内してもらった。家の前には気持ちのいい菜園がある百坪ほどの邸宅で、二階は全部が客室でベッドルームが五つほど。ケイさんはいつかここを、身寄りのない子どもたちを受け入れる施設にしたいと思っている。
今はまだ、無理です、と笑うケイさんはごくごく普通の、同世代の女性だけれど、見ている先は、わたしとはずいぶん違うのだ。それを少しまぶしく思う。わたしはもはや、自分の身の回りしか、目に入っていないかも。
*
十三稜のうちのひとつを見て、帰り道、ケイさんはぐったりとシートに身を預けてうとうとしながら、なんだか息苦しくなってきました、という。長城で、あんなに青かった空は今や少しずつ濁り、市街地が近付くにつれあきらかに、空気に混じる煤煙の量が多くなっている。でもそれだけではないだろう。息苦しさの原因は、この空気の問題だけではないだろう。
「ケイさん、少しは休まなきゃ」とオダカさんが言う。「分かってますけど……」とケイさんが答える。オダカさんが、畳みかけるように、自分の知り合いで働きすぎて身体を壊した人の話をすると、ケイさんが珍しく少し強い口調で、「分かってます、でも今は休めない」と、言った。弱虫なわたしは頼りない声で、「分かる、ケイさんの気持ちも」と言う。
*
ケイさん、今日はわたしたち大丈夫だから、ゆっくり家で休んで、と言うと、ケイさんはしばらく考えた後、「桃さん、本当に大丈夫?わたしいなくて、だまされたりしない?」と言う。昨日うちの社長が、デパートでぼられた話を聞いて心配しているのだ。「大丈夫、大丈夫。大人だから。それに、だまされるのも楽しみのうちです」と答えると、ようやくかすかに笑って、「じゃあ、そうさせてもらいます。今日はどうもありがとう。明日、お昼に迎えにきますね」と言う。
ホテルの車寄せで、手を振って帰っていくケイさんを見送りながら、オダカさんはぽつりと、ありゃかなり疲れてるなあ、と言った。「でもすごいと思うよ、オダカさん。ケイさん、会社立ち上げて、あんなお家も立てて、頑張ってる」と答えると、「頑張ってるよ。それは分かるよ。でも、あんまり幸せそうに見えないんだよなあ……」
「オダカさん、分かる。オダカさんがケイさんを心配しているのも、幸せになってほしいと思っていることも。でも多分、今は走らなきゃいけない時期なんでしょうね、ケイさんの」
「分かるけどさ」
「まだ三十そこそこだもの。枯れるには早いでしょう。走るしかないって思う時期だし、実際まだ走れるし。でももう何か月か、何年か経って、さっきのオダカさんの言葉をあ、こういうことだったんだ、って思いだす日が来るのかも」
「君は?」
「わたし?……わたし、ただのサラリーマンだもの。今は仕事に無理もしていない。仕事は嫌いじゃないしやりがいもあるけれど……、あ、今、わたし、ゴールのない障害物競走にエントリーしろと言われたらできるかもしれません。ある意味、鈍くなっているのかもしれない。ケイさんのことはすごいと感心するし尊敬しているけれど、起業したいとは全く思わない」
「でも……」と少しだけ言葉を選びながらオダカさんは言う。「社長の歳を考えたことある?どうするの、社長に突然なにかがあったら」
「あはは、」とわたしは笑う。「オダカさん、わたしが辞める、って宣言したのを知っているでしょう?もしもっとうちの社長が若くて、あと何十年もバリバリ働きそうだったら」
「うん?」
「もう今頃はさっさと辞めちゃってるか、辞めようとも思ってないか、どっちかですね」
「でもさあ、それでいいの?」
「オダカさんが何を言いたいかは分かります。消去法でいうと、わたししかいない、ということですよね。今の状況で、誰が会社を続けていくかを考えるとそこにはわたししか選択肢が残らない」オダカさんの顔を見ながら、この人は、銀行の人でも投資家でもない。お客様だけれど……、たぶん、サラリーマン的立場とは別のところで、わたしたちのことを考えてくれているのだよな、と、そう思う。「でも、わたしには荷が重すぎる。そうなったとき、わたしは皆のことを幸せにできない。そしてそう考える時点で、経営者としては不適格だと思う」
「だからさ」とオダカさんが言う。「そうなったら俺が手伝うよ。……一人じゃだめだろうと思う。君はそんな調子だから。でも、君がいなくてもダメだと思う。……だからそうなったときは手伝う。約束する。だから辞めるなよ」
「オダカさん」
「なに?」
「反則です。ケイさんの話だったのに。わたしの進退の話になっちゃってる」
*
ほどなく、もう一台の車に乗った先輩たちが日に焼けた顔で到着した。とにかくシャワーを浴びて着替えましょう、一時間後にロビーでまた、と約束して部屋へ戻った。
バスルームの大きな鏡で見ると、首筋がすっかり日焼けして真っ赤になっている。頭から湯気でも出そう。ぬるいシャワーを浴びて、大きなタオルにくるまったまま、しばらく動きたくなくてぼんやりしていた。カーテンの向こうには、まだ夏の日差しがきらきらしている。
わたしは、緑の葉が揺れていたケイさんの家のことを思った。ひとつもいでくれた、みずみずしい瓜のことも。多分、ケイさんには、あそこで一生静かに暮らせるくらいのお金はもうあるだろう。でも、今の彼女に、その選択肢はないに違いない。
緑樹陰濃やかにして夏日長し、と口をついて出た漢詩の、その続きはどうしても思い出せなかった。
2010.07.17
北京の空 3
アラームが鳴るまで目が覚めなかった。
厚いカーテンを少しだけ開けておいた、その隙間から朝の光が差し込んでいる。重い身体をのろのろと持ち上げ、足を床に下ろす。窓から見える空は相変わらず煙っていて、白っぽい空気の中から車のクラクションが聞こえる。
ガラスのブースでシャワー。二〇年前のように、お湯が濁っているわけでも水量が足りないわけでもなかった。滔々と流れる熱い湯に打たれながら、今日の予定のことを考える。乾燥しているのか、心なしか肌と髪がぱさぱさしている。濡れたままの身体に少しだけオリーブオイルをつける。
*
午前中は、電気街でこちらのシステムのデモを見る。午後は、ケイさんの会社に戻って、お客様何名かにデモをする予定になっている。身頃がシルクの、着心地のいいシャツ、黒いスーツに、黒い靴。この国ではこの格好は少し大袈裟に見えるだろうか。……ホテルのスタッフに、間違えられてしまうかも。でも、黒いスーツは落ち着く。わたしの制服みたいなものなのだ。
迎えに来てくれた車に乗って、中関村まで。ここは、IT関連の会社が多く集まっていて、四年前まではうちの会社の支店もあった。家電量販店とデパートがいくつかあるから、人も多い。今日は土曜日だし。
人をかき分けるようにして、ケイさんの会社のリさんに案内され、システム会社へ。リさんは、どんどん横道へ入っていく。そして、ある、年季の入ったビルの前で、ここです、と言った。石造りの、古いビル。ボロボロ、と表現しても許してもらえるだろう。なにせ、エレベーターに乗るのがためらわれるくらいだ。途中で止まって二度と動かないかもしれない。
普通の民家みたいなドアを開け、中へ入る。コンピュータメーカーの名前が書かれた段ボールが積まれた倉庫みたいな部屋の先に、たぶん社長室なのだろう、革張りの大きな椅子が置かれた事務所があった。そこで、デモを見せてもらう。
なんと、ハードウエアを購入するとソフトウエアは無料で付いてくるのだという。しかも、そのソフトウエアもまずまずよく出来ている。インフラや構造は一昔前のものだと言えなくはないが、機能自体は素晴らしい。単店舗経営のお店なら、これで十分だろう。必要なのは全部で1500元ほどで買える。二万円ちょっと。信じられない。二万円って。たとえばわたしが出張対応をしたとして(しないけれど)、一時間の値段が通常、二万円なのだ。その金額で、飲食店のシステム一式が買える。
わたしたちのシステムがたとえこちらで売れたとしても、価格的には相当厳しい競争を強いられるだろう……、と思って難しい顔をしていたら、同行していた社長の携帯が鳴った。ケイさんから。午後のデモが、キャンセルになったという知らせだった。
*
ドアが開き、スキンヘッドの、ランニングにハーフパンツを履いた大きな男の人が入ってきた。バスケットボール選手みたいな恰好だけれど、福々しくお腹が出ている。わたしがかすかにたじろいでいると、うちの社長は立ち上がりその人に近付いて、握手を求めた。名刺を差し出す。お、社長対決、と、耳元でオダカさんが面白そうに言う。
うちの社長は、にこにこしながら、日本でこれを売る気はないですか、などと聞いている。あらら、タバコまで交換している。何なんだいったい。
システムの説明をしてくれたのは年若い女性で、淡々と説明をしてくれていた。ワンセット買うことにしたのでお財布からお金を出して、それを渡す前に、ふと気づいて名刺を差し出した。中国語で名乗る。わたしが今話せる唯一の中国語。彼女はびっくりしたような顔になり、ぱっと花が咲くように笑い、走って自分の名刺を取りに行った。わたしにそれを差し出しながら、彼女は、何度も自分の名前の発音を教えてくれた。
*
挨拶をし、会社を出て、デパートへ。オダカさんが、カメラのメモリーカードを買いたいというのだ。リさんの案内で、地下一階の、カメラ売り場へ。ニコン、キヤノン、フジ、ソニー……、見慣れた名前が並ぶ。
わたしは、自分のカメラをしっかり手に持っていた。SIGMAの、DP2。小さなデジタルカメラを買おうと思っていたのに、何も買う気にならなかった、だから持ってきた好きなカメラ。絶望的にピントが合わないときがあるし、電池はすぐになくなるし、大きいし、まあなんというか使いにくいところだって多い。でも、このカメラで撮った写真には、ときどき、その時の空気がまるでそのまま写るときがあるのだ。空気の色まではっきりと。そして、写真なんて結局はそれがすべてなのではないかとも思ったりする。
オダカさんがお店の人とやり取りしている間、ぼんやりしていたら、また違うお店の人がじっとわたしのカメラを見て、「SIGMAだね」と言う。「そうSIGMA。わたしは好き」と言うとその人はかすかに笑った。
ふと気がつくと、オカダさんとお店の人が何やら揉めている。4GBのメモリーカードが800元だというのだ。それでは一万円を超えている。オカダさん、それは高いよ、とわたしは横から口だし、片言で、「400元」と言った。お店の人がこちらを見て、「410元」という。首を振り、「400元」と繰り返し、お願いします、と頭を下げた。お店の人はしかたないなあ、と云う顔をして、じゃあ400元ね、と言った。
もしかしたら400元でも高いかもしれない、でもごめんなさい、これ以上値切れなかった、と言うと、リさんが、桃さん、中国語喋れたの、と聞く。だってさっき、自分の名前だって言ってたし。「喋れないです。実は何も。数字はちょっとだけ分かる。自分の名前は言える。挨拶がちょっとできる。それだけ」「びっくりしました」「リさん、途中から余計な口を出してごめんなさい」「とんでもない」
*
デモが中止になって少しつまらない、とわたしが言う。社長は、なんだかこんな予感がしたんだよな、とぼやく。オダカさんは、お腹がすいたからとりあえずご飯食べに行こう、と言って、すたすたと歩く。
デパートの中は本当に人であふれていて、わたしたちは外国人には見えないのだろう、あちこちの売り場から声をかけられる。こんなにぎやかなデパート、最近日本ではちっとも見ていない。
リさん、わたしなにかそんなに重たくないもの……、北京に来てからちょっと食べすぎだから、お粥か、麺か、そういうものが食べたいです、と言うと、社長が、麺がいい麺にしよう、と言って突然元気になりフードコートに入って行った。お昼だけれど一杯だけビール。少し迷って、野菜の入った麺にした。オダカさんは同じもの、社長は牛肉の辛い麺、リさんはカレーライス。出てきたものは、とてもおいしかった。
*
帰りの車の中でオダカさんがポツリと言う。日本はこんなに活気無いよね、と。発展している国と言うのはこういうものなんだろう、みんな未来しか見ていないんだろう、と。
そうかもしれない。わたしたちは今、つかの間、未来を見失っているのかもしれない、とわたしは思う。そして、わたしとケイさんの違いを思った。ほとんど同い年、性別も一緒、なのに、日本で働き、母国で起業したケイさんと、淡々と日々の仕事をしている自分。自分の選択が悪いことだとは思っていないけれど、発展、というところからは程遠い。
でも、この、未来はどこへつながっているのだろう?
*
ぽっかりと空いた時間、社長とオダカさんはマッサージに行くというので、二人をおいてわたしはホテルに戻った。シャワーを浴びて少しさっぱりした気持ちになって、どこかへ出かけようか……、と思っているうちにうとうとしてしまい、気づけば夕食に出かけなければいけない時間になっていた。
(#ところでこんなの、読んでいて面白いのだろうか……。無駄に長くてごめんなさい)
2010.07.16
北京の空 2
わたしが、どんなことがあっても北京という街を嫌いになれないのは、ここには小さいわたしの記憶が沁みついているからだ。
一番最初に、連れてきてもらった外国がここだった。小学生だった。父と同じパスポートで、なれない革靴を履きワンピースを着て、成田から出発したのだ。姉が北京に住んでいた当時、まだ留学というのは今ほど一般的ではなく、だからわたしは、姉のことが誇らしかった。誇らしくて、でもいつも一緒にいられないのが寂しくて、だから夏休みに、自分も北京に連れて行ってもらえると聞いたときとても嬉しかった。砂利道を馬が歩き、道端に練炭が積まれ、まだ外貨兌換券と人民幣が分かれていた時代。いろいろ不便なことはあったけれど、今思えば、本当に楽しい旅行だった。もうあんな旅は、二度とできない。心配事など何もなく、好きな誰かに手を引かれ守られていて、見るものすべてが新しく心躍るような、そんな旅。
だからなのかもしれない。わたしはこの街のことが、どうしても、本当には嫌いになれない。どんなに嫌なこと、うんざりすることがあっても、心の奥では、いつもどこか近くて親しい場所のように思っている。
*
ケイさんと出会ったのは東京のインド料理屋だった。今回同行しているお客さま……オダカさんの紹介で。エンジニアで、今は日本の会社の役員をしているけれど近々中国に帰って会社を興す予定で、できればアライアンスを組んでうちの会社の製品を中国で展開したい、そういう話だった。ケイさんは、わたしより一歳だけ年下で、なのに、なんというか未来の方を向いている感じがした。わたしはたぶん、ビジネスマンとしては欲がなさすぎる。そしてないなら全部なければいいのに、まだ少しの欲を捨てきれない。……まあそれはわたしの話だ。
ケイさんの話。ケイさんは、約束通りこの国に戻って、会社を立ち上げた。資本金が1500万円だというのだからたいしたものだと思う。社用車のアウディは自分で買ったのだと言うし、家賃を一年分先払いしたのだという立派なオフィス、20名の社員、ベンチャー企業で育ってきたわたしから見れば、なんという贅沢なスタート、と思う。しかも、オフショア開発の案件が数件当てが外れて、20名の社員のうち、5名分の仕事までしか決まっていないという。なのに不安なところがなくて、向こう見ずな感じもしない。これが、急成長している国で仕事を始めるということなのか、と、少しまぶしく思う。
ケイさん本人はがつがつしたところが全くなく、しかしいつもぴかぴかの靴とバッグ、エルメスのバーキンを色違いでみっつ持っていて、この国では人は持ち物で人を判断するのです、とおっとり言う。なんというか不思議な人だ。
*
朝からケイさんの会社でミーティング。用意をして、午後から近くのレストランでデモをする。忙しいから30分だけね、と出てきた料理長は、一時間ほど話を聞き、いろいろと話を聞かせてくれた。
インドに行った時もそうだった。文化はもちろん違うし、システムの流行みたいなものも違うが、根本的にレストランの現場というのは、同じ考えを持っている。いや、考えと言うよりは、同じ真理に従って動いている、というべきか。当たり前だ。基本的にやっていることは何も変わらない。食材を仕入れ、それを調理し、心地よい場所を用意してサービスする、そういうことなのだから。だから、わたしたちはどこへ行っても同じ言葉で話すことができる。どこにどういう風に工夫をし、どういう運用をし、どうそのレストランを育てていくのか、そういうことをいつも考えている。だからいつもどこか遠くへ仕事に行くたび、最後にはいつも、ここでは言葉が通じる、世界中に仲間がいる、と思う。このかすかな手ごたえ、それをビジネスにできるのかどうかは、これから次第なのだけれど。
*
夜、ケイさんの会社のメンバー全員とバーベキューパーティ。こちらでは、乾杯をすると杯を全部飲み干す習慣がある。だからわたしはついつい飲みすぎて、久々に目が回るくらい酔っぱらってしまった。わざわざ薄いバドワイザーを飲んでいたというのに、席を移動しようと思って立ち上がったら多少地面が揺れた。そんなに飲むなんて珍しい、と同僚が言う。めずらしいでしょう、でも、中日友好のためだよ、と笑う。ひとり一樽くらい飲んだかもしれない。隣でお酒好きのオダカさんがにこにこしている。
飲んでいる最中、オダカさんがこっそりとわたしの側に来て、「こうして飲める人たちがいるって幸せなことだよ」と言った。わたしが、会社を辞めると宣言したことを、うちの社長からこっそり聞いたのだという。社長とオダカさんは友だちのようなものだし、社長はわたしがオダカさんのことを信頼していることを知っている。お客さまの中で、自分の上司になっても納得してついていこうと思えるのはオダカさん一人、と思っているのを知っているのだ。
「僕は止めろって頼まれたんじゃないよ。でも、君のこの会社での十一年は簡単に捨てられるものじゃないって思ってる」と言う。「考えてみろよ、君が辞めたら、僕ら大騒ぎだぜ」わたしは言う。「オダカさん、わたしがいなくなっても間違いなく御社のシステムは問題なく稼働し続けます。わたし、今、実際、御社の実務は何もやっていないもの」オダカさんはポンポン、とわたしの頭に手を置きながら、「もちろんそうだよ。実際は回っていくさ。でも、うちの社内は大騒ぎ。何があったんだ、って余計なことを勘ぐる人間が出てくる。社内にもさ、取引先にもさ。君の名前はそのくらい売れてる」と言った。わたしは下を向いて、こう言うしかない。「なにを仰るやら。売上高一千億円の会社の部長が。一取引先の社員ごときに大袈裟な」
オダカさんは仕方ないなあ、というふうに笑って、「いったい何がそんなに悲しいの。言ってごらん。何がやりたいの。何が辛いの。僕は君に幸せに仕事してもらいたいだけだよ。そしてできれば、社長と拗れてほしくない」と、言った。どうして、とわたしは聞こうとして止めた。この人はこういう人なのだ。誰かが困っていれば損得なしで真剣に助けようとする。できればみんな幸せになってほしいと思っている。率直で、いろんなものを愛していて、あったかくて、でも時々鈍感で、……とてもいい人なのだ。
ありがとうございます、とわたしは言って、オダカさんのグラスにワインを注ぐ。
*
皆すっかり酔っぱらってしまった。同僚は、ケイさんの会社の人たちに向かって三国志を語る、という暴挙に出ているし、ケイさんは足もとがふらついている。わたしは少し酔いが覚めて、ケイさんの運転手さんが焼いてくれた羊をパクパク食べていた。日本人的感覚で行くと、お料理を残すのはとても後ろめたい。もう一つ食べる?と聞かれたので頷いたら、それを見ていたマツイさんがこちらを見て笑いながら溜息をついた。「あ、ものすごく大食いだって呆れてらしたでしょう、今」と言うと、「いえいえとんでもない。あんなに沢山飲んでいたのに酔っぱらっていない。先ほどから素晴らしい、と思って見ていたんです。僕日本人の女性と飲むの久しぶりだから」という返事が返ってきた。マツイさんは、日本企業(聞けばだれでも知っている大企業だ)の現地法人の責任者で、ケイさんと懇意にしている。「久しぶりに会う日本人女性がこんなので申し訳ないです」と言うと、「いやホントにね、普通酔っぱらうでしょう、あれだけ飲んだら」と言った。酔っぱらってます。でも、酔っぱらってもお客さまのいるところでは、とにかく自分を見失ってはいけない、と教育されてきたのです、と心の中でこっそり思う。特にもっと若かったころはもっと気をつけていた。つまらない人だ、と思われる方が、だらしない人だと思われるより百倍マシだと、そういうふうに教えられてきたのだ。仕事を始めてからというもの。今はもう、そこまで気をつける必要はたぶんない。でもわたしは、どちらにしろ、一生可愛らしい酔っ払いにはなれないだろう、きっと。
二次会に向かうという皆を置いて、わたしだけ先に帰らせてもらう。送らせます、といってケイさんが、運転手さんに指示をする。この運転手さんは運転だけでなく何でもできる。羊を切り分けるところなんて、プロみたいだった。ありがとう、と言うと、どういたしまして、と真面目な顔で言う。なのに運転はまるでやくざみたいで、平気で路肩は走るし突然車を降りたと思ったらナンバーを外して戻ってきて、ものすごいスピードで飛ぶように走り、あっという間にわたしはホテルに到着し、呆然と去っていく車を見送った。
*
部屋で一人になって、少しだけ泣いた。なぜだかとても寂しかった。
2010.07.15
北京の空 1
七時過ぎの成田エクスプレスで空港まで。お客さまと、もう十年も一緒に仕事をしている兄さんみたいな先輩と待ち合わせ。空港の駅に着いたところで、デニムの後ろポケットに入れた携帯電話がかすかに震えた。出ると、のんびりした声のお客さまからで、カウンターの前で待ってるよ、と言う。あわててエスカレーターに乗り、速足で向かう。
事前にチェックインをしていたので、あっけなく搭乗手続きは終わり、おまじないだと掛け捨ての保険に入って、出国する。ほとんど並ぶことなくゲートをくぐった。
昔は海外旅行だというともう出発するときから興奮して免税品など買いあさったものだが、最近は欲しいものもなくなってしまった。煙草は吸わないし、化粧品はいつも使っているものが一番だと思っているから。お客さまが、向こうで飲む日本酒を買うと言うので一緒に選び、お土産の梅酒を買う。それでもまだ時間がたっぷり余っていたので、まるでどこか違う国にいるような雰囲気のフードコートでソフトクリームを。すぐ隣のベンチで、黄色い袈裟を着た僧が静かに目をつぶっていた。
*
北京までは三時間余りで到着する。本当に近い。飛び立つとすぐにドリンクがサービスされ、その後は機内食。トマトジュースにレモンを絞ってもらったものを飲みながら、機内食もそこそこにずっと映画を見ていた。フィリップ・クローデル監督の『ずっとあなたを愛してる』。見たかったのだ。フィリップ・クローデルは今一番気になっているフランスの作家で、ものすごく知性的なのに冷たい感じではなくて、理性的なのにきちんと神様が傍らについている感じがする。能力だけで書いているのではきっとないのに、努力の跡も隠そうとしていない。つまり、好きなのだ。気になるところは多少あったけれど、映画自体もとてもよかった。美しい。少し、フランスへ行きたくなる。ヘッドフォンを外したとたんに、シートベルト着用サインが着き、重力を感じた。
*
昔……それこそ二十年前は、着いた途端に大蒜の匂いがしたものだが、空港はとてもきれいになった。入国審査のカウンターに座っている係官もにこやかで、なんだか嘘みたい。昔はもっと、表情をぴくりとも変えないいわゆる官僚的な対応だったのに。あっという間に入国審査を終え、モノレールに乗ってバゲージクレームへ。モノレールに乗る前、電話をしている先輩をしばらく待っていたので、もう荷物は降ろされていた。
出口を抜けると、すぐそこに数日前から滞在している上司が待っていて、「遅いからどこか違うところから出ちゃったと思ったよ」と言う。ごめんなさい、と言いながら駐車場へ向かう。
*
北京の空は相変わらず煙っている。これはもう何度も書いたことだけれど、それでも、これでは生きていくのが辛いだろう、とやっぱり思う。都心へ向かう高速を走りながら、またビルが増えた、と思う。
ホテルにチェックインして、荷物を開ける。PCを立ち上げてネットワークにつなげると、すぐにインターネット接続できた。ありがたい、と思うのと同時に、少しつまらない、とも思う。本当は、アクセスポイントの電話番号を一生懸命探したり、遅い回線をいらいらしながら待つのが異国で仕事をするということだったのに。
スーツケースから洋服を出してワードローブにかけ、バスルームに化粧品を並べた。禁煙フロアだからマッチも灰皿もない。アルメニア紙を焚きたかったけれどあきらめて、ほんの少しだけ持ってきたリネン・ウォーターを撒く。……おかしなものだよな、と思う。「外国」というのを味わうのが旅の醍醐味なのに、わたしはこうしていつもと同じ自分の居場所を作りたがる。部屋を落ち着く色にし、慣れ親しんでいるにおいにして、ここはつかのま、間違いなく自分の居場所なのだと思いたいのだ。
食事に行くというので、スニーカーを履きかえジャケットを着て、外へ出た。
2010.05.16
祭りの夜
夕方、多少はきれいな服を着て、知り合いのレストランのレセプションへ。タクシーを降りると、入り口は花で溢れていた。
シェフの石川さんのことを、わたしはどうやって人に説明したらいいかいつも分からない。いつも、言葉がついていかないのだ。それでも、わたしは、どんなに具合が悪いときでも石川さんの作ったものなら食べられるし(しかもこれは比喩ではない。わたしは、熱が39度ある状態で、他のものは何も食べられなかったのに、石川さんのつくったフルコースを完食したことがある)、たぶん、雑草が料理されて出てきても、美味しく食べてしまうだろうと思う。……そんなシェフだ。石川さんは、いやいやただのコックさんだし、と、言うのだけれど。
久しぶりに、ニコンのカメラを持って出かけた。わたしが、写真を始めたときに手にした思い出のフイルムカメラ。モノクロのフイルムをつめて、パチリパチリと撮っていく。その合間に、ミモザを飲み、生ハムを食べ、スープ(今まで食べたことのない、ベシャメルソースの上にたまごが落としてあるようなもの。好きに呼んでください、と石川さんは言った)を飲み、子羊を食べた。
新しいお店というのは本当にいいものだと思う。もう、なにもかも。オーナーの目が行き届いている小さなお店なら尚更。石川さんだったら、たぶん、もっと大きなレストランで腕をふるうこともできるだろうし、それこそイタリアでだって、たとえば銀座や青山でだって、やっていけるはずだろうと思う。それでも下町で、こんなふうに自分自身の小さなお店を始めるなんて、とても石川さんらしいな、と思う。そしてこういう人がつくるから、あんな、とびきりの一皿が出来上がるのだ、きっと。
*
盛り上がっているお店を途中で出て、三社祭が終わった後の神谷バーへ。開いている席を見つけ、ぎゅうぎゅう座らせてもらう。隣は法被姿の高校の先生、向かいはフランス人の二人連れ。ここに来るといつもみんな合席で、いつの間にかみんな、友だちみたいになってしまう。
ハチブドーパンチを飲んでいたら、いつの間にか目の前には、電機ブランのオールドが置かれていた。生ビールをチェイサーにして飲む人もいるが、わたしがそんなことをしたらあっという間に倒れてしまう。こっそりとそのグラスを隣に押しやり、ハチブドー酒をおかわりする。横では、通りすがりのおじさんがなぜか、バルーンアートを作ってくれていた。大騒ぎで飲みながら、祭りの夜が更けていく。
2010.05.15
海峡へ(その3)
真美さんに駅まで送ってもらい、手を振って別れる。少し寂しかったけれど、なぜか、またすぐ会えるような気がした。電車に乗って、下関駅まで。今日も空はぴかぴかに晴れている。
バス乗り場で、ロンドンバスを見つけ、いそいそと乗り込む。懐かしい赤色の、ルートマスター。なんでも、休日のみ定期運行しているのだという。後方の入り口から二階に上がる。いつもの……イギリスにいた頃好きだった、一番後ろの席に座ってみる。シートも車内もぴかぴかで、嘘みたい。埃っぽくもないし、ガムの跡もついていないし……などと思っていたらエンジンの音がして、窓の外の緑が揺れた。
これは昨日歩いたあたりの道だ……と思いながら外を見た瞬間、唐突に、――本当に唐突にロンドンの風景がパッと目に浮かんだ。姉の家から、ピカデリーサーカスまでの道、大きな公園の横を通るあたりのことを。……目線が同じなのだ。窓を叩く木の枝、見下ろす歩行者と信号、店のショーウインドウや街灯。歩いているときともタクシーに乗っているときとも違う視界の角度。二階建てバスの、二階の席に座っているときにしか、こんなふうに世界は見えない。
わたしはしばらく口が利けないようになって、手に持っていたカメラをかまえるのも忘れて、ただ、そのままそこに座っていた。窓の外には関門海峡がきらきらと見えていたけれど、まるで、ロンドンの道を走っているような気分だった。あの、いつも心細く窓の外を見ていた異国の日々。
バスが目的地に着き、あわてて立ち上がり階段を降りた。地面に足を下ろし呆然とバスを見送った後で、わたしは、その後姿に手を振る代わりに、カメラをかまえてシャッターを切った。
*
唐戸市場から門司港までは船で移動。船が出発するまでのしばらくの間、木のデッキに座り風に吹かれていた。港のある街はいい。外からいつも何か新しいものが入ってきて、同時に、外に向かって開けている。海からの風は丘にぶつかり、丘からは遠く海の向こうが見える。できることなら、もうしばらくここにいたい、と、心から思う。
それでも船が着きわたしはその船に乗り、家に向かって移動していく。そこがわたしの居るべき場所なのかそうでないかは本当はよく分からない。それでも、わたしは、東京へ帰る。
船を降りて、揺れる身体で桟橋を歩きながら、ふと、思った。もしかしたら会社を辞めても、人と繋がって方法はあるのかもしれない、と。会社、ではなく、わたしが、仕事を繋げていく方法があるのかもしれない。仕事というのが大きな布だとしたら、その縦糸と横糸を構成するのはやっぱり会社なんだと、今まで頑なにそう思っていた。でも、わたしという点が、縦糸と横糸を跨ぐみたいに移動しながら、会社とは関係なしに布を織っていく方法が、もしかしたらあるのではないかと、そう思った。
きらきらと太陽を身に浴びて海辺を歩きながら、幸いなるかな、とつぶやく。思えばこの旅の間中、何かに守られているように、ずっと潮風が吹いていた。
2010.05.14
海峡へ(その2)
目覚ましが鳴るまで起きもしなかった。泥のような眠りから覚め、カーテンを開けて外の、五月の緑を見る。昨日、夕方まで慌しく仕事をしていたのが嘘みたい。
大きく伸びをしてから、顔を洗いに下に降りた。随分のんびりと寝てしまった。先生はもう、とっくに学校に行ってしまったに違いない。
真美さんと、先生がつくっていったという朝ごはんを食べる。ソーセージと、スクランブルエッグ、それと、ふかふかのパン。食べ終わってから、すぐ近くの住吉神社を散歩する。
なんていい天気、空が広くて青い。わたしの日頃の行いがいいからに違いない、と冗談を言うと、ほんとほんと、と真美さんが笑ってくれる。それにしても空は青く遠く清んで本当にきれいだった。神社の森では、緑がうるうると息づいている。
急に思い立って身一つで来てしまったので、わたしはどこに行きたいか、それさえも思いつかなかった。どこへ行きたいですか、と聞かれても歯切れのよい返事ができないわたしを車に乗せ、真美さんはにこにこと城下町長府へ向かう。古くからの街並みが残っている、昔の城下町。続いている土塀の穏やかな色を見て、少しだけコッツウォルズみたい、と思う。この土塀の色は、あの煉瓦のハチミツ色によく似ている。……そういえばわたしはここに来てから、何かといえばイギリスのことばかり思い出している。
功山寺を歩いてから、毛利邸に入った。なんて立派なお屋敷、といいつつ、部屋に座ってお茶を飲む(お茶が飲めるようになっているのだ)。古いつくりの日本家屋は、北から南へ風が抜けるようになっていて、池からは蛙の声が聞こえてくる。もうわたしはうっとりと眠ってしまいそうになりながら、ぼんやりと座っていた。
竜宮城みたいな赤間神社にお参りをし、日清講和記念館を見学してから唐戸市場へ。金・土・日だけ、市場のなかに屋台が出てお寿司や河豚汁がその場で食べられるのだという。市場は大好き。どこかの街に行って、そこに市場があったなら、必ず行きたいと思うくらいに。だからわたしは上機嫌で、あちこち覗きながら歩く。
お寿司、丼、ふぐのコロッケ、鯨の竜田揚げ、ふぐの唐揚げに河豚汁。普段は魚が売られているのであろう冷蔵ケースの中にお寿司が並べられ、コロッケや竜田揚げも、自由に取って買えるようになっている。人だかりがしているお店もそうでないお店もあり、品揃えも微妙に違うようだけれどどれもとても美味しそう。コロッケが食べたい、と騒いでまずはコロッケを買い、お寿司をいくつかトレイに乗せていく。目移りして、際限なく欲張ってしまいそうになりながら、ひとまずお会計をして外へ。
外の芝生に並んで座って、海を眺めながら食べたお寿司はとても美味しかった。嘘のない味、ということなのだろうと思う。作られた味ではなく、普通に素朴に美味しい。
*
食後のデザートにジェラートを食べ、歩き出そうとしたところで真美さんが、「あ!」と小さく叫び、一人で食事をしていた男性のところに歩み寄っていった。英語の先生なんです、と紹介されたその人はイギリス出身だそうで、長い足を折りたたむように椅子に座って食事をしていた。しばらく話をしていると、なるほど、少しシニカルな話し方といい発音といい確かにイギリス風なのだった。
「どうして東京で働いているというのに平日にこんなところにいるの」と聞かれたので、「何もかも振り切って逃げ出さなきゃいけない時が人生にはあると思う」と答えた。escape、とわたしが使ったその単語を確かめるように繰り返しながら彼は、「まあ、その気持ちは非常によく分かるけどね」と、言って、ほんの少し笑った。
海響館、という水族館に併設のカフェで泳ぐイルカを見ながらコーヒーを飲んだ後、火の山に登る。ツツジが甘く香っていた。
夕方から用がある真美さんと別れ、一人で海響館にもう一度戻る。入場券を買い中に入り、イルカとアシカのショウを見る。すごかった。わたしたちは、言葉というものに頼りすぎているのかもしれない、とふと思う。言葉の通じない異種同士が、あれだけ心を通わせている(ようにみえる)なんて。だって、アシカなんて絵まで描くのだ。どんな本能がそうさせるのか、わたしには分からないけれど。
圧倒されたまま水族館を出て、海の見えるデッキに一人でしばらく座っていた。海峡の向こうには九州が見え、わたしは久しぶりに、何の憂いもないような気持ちになって、そのままそこに寝転んだ。太陽は穏やかに照り身体を温め、これ以上ないくらい気持ちのいい風が吹いていた。
*
夜、先生と真美さんと食卓を囲んでいたらこんなことがあった。きっかけはどんな話だったか覚えていないが、「最初にナマコを食べた人は勇気があるよね」と誰かが言い、わたしが「河豚を食べて死んじゃった人だって沢山いますよね、先生、ホラ、あれ……」と言いかけたら、先生が突然生き返ったようになって、「坂口安吾だろう、"ラムネ氏のこと"。よく覚えてるなあ!」と言った。
わたしが先生に習っていたのは高二、高三の二年間で、わたしは優秀な生徒ではなかったが、国語の授業は本当に好きだった。イギリスにいたせいで、日本語の文章に常に飢えていたというのもあるが、先生の授業は楽しかったのだ。今でもいくつか覚えていることがある。たとえば舞姫の冒頭、「石炭をば早や積み果てつ」の、完了の助動詞のこととか、夏目漱石の、『草枕』のこととか。坂口安吾の「ラムネ氏のこと」もそのうちのひとつで、中でもひときわ印象が強い。しかし、十何年も経って、今ここでこんな話しができるとは思っていなかった。
そのうち先生は、昼間生徒と一緒にテニスをして疲れた、少し横になる……、と言ったきり眠ってしまった。それからずっと遅くまで、真美さんと二人で話していた。わたしは、人見知りなたちだし、本当のことを言えば出不精なのだ。なのにどうして急にここまで来てしまったかといえば、真美さんが呼んでくれたから、としか言いようがない。ほんとうに不思議なものだと思う。なんというかまるで蜘蛛の糸みたいだ、と思った。細い細い糸が切れずにきらきらとつながっていて、あっちとこっちでそれを手繰り寄せ、こうしてここでまた出会ったみたい。なんと言っても、真美さんとは、十五年前イギリスで一度会ったきりなのだ。(しかもその時は会話さえしていない)それが今こうして向かい合っているなんて。
2010.05.13
海峡へ(その1)
ものを食べても何の味もしない。コーヒーの香りも分からないし、さらに眠れないものだから、体重がすとんと減った。大丈夫?と聞かれれば、大丈夫、と答えたけれど、もしかしたらやっぱり、少し疲れていたのかもしれない。
そんな時、メールが届いた。高校の頃の国語の先生の、……奥さんから。麗しの五月、というタイトルのそれには、海峡の風に吹かれに来られませんか、と書いてあった。行きたい、と一も二もなく思い、そうして、明日の夜でもいいですか、と、メールを送った。
*
熊谷で、仕事を終えたのが午後五時前。新幹線か飛行機か決めかねていたけれど、とりあえず東京駅までの新幹線の切符を買った。携帯で、とにかく一番早く着けそうなルートを探す。目的地は下関。新幹線で行くのが確実だったけれど、飛行機の方が早い。福岡、北九州、山口宇部、と順番に時刻表を確認する。六時四十分の北九州行きに乗れれば最高だけれど、たぶんギリギリで間に合わない。羽田空港駅に着くのが六時二十五分、それから出発ロビーに行き、発券して、セキュリティチェックを受けて……、イチかバチか走ってみようか、と思ったところで、六時五十分の山口宇部行きを見つけた。たぶん、それなら間に合う。
携帯で、とにかく飛行機に乗ります、着いたら連絡します、とメールをしてから、走るように羽田に向かう。夕方のラッシュ時、ターミナル駅はどこも混雑しているけれど、それを掻い潜るようにして。羽田に着いたのは予定通り六時半前、エスカレータを控えめに駆け上がり、途中で携帯からしておいた予約を呼び出して発券、そのまま搭乗口へ向かった。息を切らせて飛行機に乗り込むと、ほどなく入り口のドアが閉まる。
ちょうど、日が沈んでいくところだった。火の玉みたいな夕日、朱色から深い藍色までのグラデーションの空、思わずはっと心奪われてしばらく眺める。そういえば、途中で着替えようと思っていたのにその暇もなかった。スーツのまま、座席に沈み込むようにして少し眠った。
*
山口宇部空港に到着したのは、八時半を少し過ぎた頃だった。外へ出て、周りの暗さにびっくりする。バス……バスに乗ってとにかく下関に向かわなければいけない。念のため、携帯でルートを確認したが、聞いたほうが確実だと思ってバス停で談笑していた運転手さんたちに声をかける。新下関まで行きたいんです。運転手さんは口々に同じ方向を指差し、あのバスに乗ってまた聞いてご覧、という。示されたそのバスに乗り、入り口でまた同じ事を聞く。すると、運転手さんやら先に乗っていたお客さんやら、バスにいる全員がああでもない、こうでもない、と終いには時刻表まで引っ張り出してくれて、どうすればいいかを教えてくれた。
「電車で行くならあすこの駅で乗換えだね」
「いやいや、あんな何にもない駅で電車が来るのを30分も待つのは可哀想だよ」
「下関まで行ったらどうかね」
「そうすると少し戻ることになるねえ」
「……お姉さん、最終的にはどのあたりまでいくの」
(住吉神社の近くです)
「ああそれならねえ、距離で言うとあのバス停が近いよ。そこは少しは賑やかなところだからそこからタクシーに乗ったってたいしたことない。ホテルなの?」
(いえ、知り合いのお宅に)
「ああ、だったら車で迎えに来てもらえるか聞いてごらん」
(そうしてみます)
「あのねえ、そうすると到着は10時ちょうどだよ!」
(……)
(ありがとうございます、迎えに来てもらえるって)
「よかったねえ!」
(お騒がせしてすみません)
「なんのなんの」
*
バスの座席から見える夜は、深くて、暗かった。海に落ちたガラス瓶みたいにバスのなかだけ明るく、ふっと真空になったみたいで、わたしは夜と一緒に、ガラス窓に映る自分の顔をぼんやり眺めていた。
もうそろそろ着きますよ、といわれて前を見ると、大きな橋がきれいにライトアップされているのが見えた。関門橋。うわあ、と眺めているうちにバスはそこを通り過ぎ、バス停に止まった。
荷物をまとめ、皆にお礼を言ってから飛び跳ねるようにバスを降りると、傍らに止まった車から先生と奥さんが降りてくるのが見えた。嬉しくて駆け寄ると、いらっしゃい、とにっこり笑う。もう何年ぶりだろうか、あのころ、わたしは、まだ十八歳だった。
少し夜景を見て行きましょう、と、車に乗せてもらいみもすそ川まで。
車を止めながら、「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」と、先生が言う。この川はね、とその名の由来を説明してもらいながら、夜の関門海峡を眺める。風がさあっと吹いて、海のにおいがした。先生の声を聞きながら、そうかこういう授業を受けていた、と思い出す。あの頃はイギリスにいて、タータンチェックの短いスカートを履いていて、何を考えていたかはもう忘れてしまったけれど、国語(日本語)の時間と英語のプライベートレッスンが好きだった。
車の中、わたしと奥さんが明日の予定を話をしているのを聞いて、先生が、「まるで真美の友だちみたいだなあ!」と言った。わたしと真美さんは、声をそろえて笑う。
*
どうぞどうぞ、と言われて居間に入ったとたん、漱石全集のオレンジ色の装丁が目に入り、あ、と思う。今は中学生の担任をしていて、生徒さんから「くまさん」と呼ばれているのだという先生は、よいしょ、と言って椅子に座った。白髪はだいぶ増えたけれど、他は何一つ変わっていないみたい。でも、今だから話せることも分かることもあるのだと思う。わたしは、実際、仕事を始めてからあの学校のことをよく思い出した。「人気のあった先生」が、必ずしも、「一緒に仕事をしたい同僚」ではないことも今なら分かる。いや、たぶん、今まだ分かっていなくて、これから先突然分かることも、一生かかっても分からないこともあるのだろうけれど。
突然、前日に「明日夜行きます!」と言い出し、人を訪ねるには些か遅い時間に到着したわたしを、先生も真美さんも、にこにこと歓迎してくれた。わたしは、久々によく笑って、お風呂にゆっくり入り、朝までぐっすり眠った。夢も見ず。
2010.01.23
インドゆき(おぼえがき)
ところで、もしかしたらインドの情報を求めて検索してくる方がいるかもしれないので、いくつか書いておきます。(2010年1月現在の情報)
【旅支度と準備について】
・1月の南インド(チェンナイ)は、日本の初夏くらいの気候でした。半袖でOKですが、室内ではクーラーがものすごく効いているところが多かったので、長袖の羽織るものは必須かと思います。わたしは半袖の上に薄い麻のジャケットを羽織っていましたが、それでも度々クーラーが寒くて震えました。
・蚊がたくさん飛んでいますので気になる方は虫除け&虫さされの薬を。
・ウエットティッシュとポケットティッシュは常備するのがおススメ。
・わたしはお腹は壊しませんでしたが、胃腸薬を持っていったほうがいいかも。正露丸は効かないそうです。できれば事前に病院で処方してもらった方がよいです。
・パスポートとヴィザのコピーをとっておくのを忘れずに。
・お土産には、折り紙やボールペンを。
・日本ではルピーは両替できません。現地の空港やホテルなどで円→ルピーの両替が出来ます。余ると再両替が大変なので、小まめに両替した方がいいかも。ホテルや大きなレストラン、マーケットなどではカードが使用できます。
・女性は、足を出さない服装が無難です。ミニスカートやショートパンツは絶対おススメしません。滞在中、足を出している人は本当に一人も目撃しませんでした。
・基本的に英語は通じます。ただ、向こうでは、同意を表すときに首を傾げるような動作をするので注意(←わたしも事前に友達から聞いていて助かった)。
・可愛い犬を見ても手を出さないこと。(狂犬病の危険があるので)
・ラッシュ時は渋滞がすごいです。時間が決まっている場合、早目早めの行動を。(たぶん時間の感覚が大幅に違います。30分くらい……と言われた道のりは大抵1時間半くらいかかりました。いつも大体所要時間三倍くらい。車の移動時間に限らず。)
・のど飴&腹巻きが大活躍しました。
【食べものについて】
・辛いものが苦手な方はレトルトのおかゆを持っていきましょう。
・生水は決して飲まないこと。飲み物に入っている氷にも気をつけて。
・ペットボトルは蓋が開いた形跡がないかよくよく確認してから飲むこと。
・チェンナイに日本食レストランは3軒あるそうです。
・トマトのパスタを頼んだら、スパイスがたっぷりかかって出てきました……。
・基本的に、右手のみで食べます。気になる方はウェットティッシュを。左手はテーブルの上にさえ出してはいけない、と事前に聞きましたが、現地の人をじっと観察したところ、そうでもなかったような……?
・お酒を飲む習慣はありません。お酒自体をおいていないレストラン多し。
・紅茶を頼むとき「レギュラー」はミルク入り、「ブラック」はストレートです。
・デザートはものすごく甘いです。食事のときにも、時々、ものすごく甘いスープなどが出てきます。辛いにしろ甘いにしろ味が濃い。
・あ、でも、わたしは結構美味しくいろいろ食べました。
【物価について】
・2010年1月現在、1ルピー≒1.95円くらい。大体2倍です。
・ホテルのレストランでパスタ一皿=300ルピーくらい、手に描いてもらったヘナ=50ルピー、ココナツジュース=15ルピー、インドシルクのサリー=600ルピー~、レストランの伝票発行システム=30,000ルピー、3ベッドルーム、ホームシアター付の豪邸=17,500,000ルピー、旅の思い出=Priceless
インドゆき(3)
部屋に戻ってサリーを脱ぎ、日付が変わったころにホテルを出た。午前三時の飛行機でインドを発つ。
空港はすごい人だった。チェックイン・カウンターには長蛇の列、その後の出国審査も然り。余裕を持って到着したはずなのに、出発時刻は刻一刻と迫っていて、少し気が急く。
出国審査のカウンターを通った後、スタンプをパスポートに押してもらうのでさらに並んだり、手荷物のチェックに使うトレーが一つしかなかったり、まあ、なんというか、全てがシングルタスクなのだ。何たる非効率、と嘆きたくなるのはこちらの勝手な理屈だろうか。
出発ロビーに出たところで、「桃さん!」と肩を叩かれた。見ると、昨日(というかつい何時間か前)にサリーを着せてくれたナターシャさんがニコニコと立っている。香港に住む彼女も、同じ便に乗るのだと言う。わたしは彼女のひまわりみたいな笑顔を見てパッと気持ちが明るくなり、手を振って離れていった彼女を追いかけていって自分の名刺を渡した。日本にきたらご飯を食べに行きましょう、連絡してね、と言って。……わたしが、強く心動かされるのは、やっぱり人に対してなのだ。人をどこかに繋ぐものがあるとしたら、それはやはり人でしかないと思う。
*
飛行機に乗り込み、ブランケットをかぶって思う。旅はつくづく個人的なものだ、と。 わたしが語れるのは旅そのものではなく、抽象化された旅でしかない。
旅はいつも結局はひとりきりのものなのだ。けれど、心細く、たったひとりで、肌に刻んでいくことしか出来ない旅というものを、わたしはだから好きだと思う。そして、できることなら本当に、この旅を、誰かに伝えたいのだと希うように思う。できることなら、肌に触れた空気を、見た色を、吹いた風を、そのままここで取り出して見せたいのに、と、なにか心がちりちりと焼け付くように、強く思う。
*
乗継をして、成田に着いたのは夜も遅くなってからだった。荷物が出てくるターンテーブルで、その荷物が取りやすいように、そっと持ち手を上にして並べられているところを見て、これが日本、と思う。数日前、投げ出されたようなかたちのまま流れてきた荷物のことを思い出しながら。
最終の成田エクスプレスで帰る。寒くて、立てたコートの衿を掻き合せながら、星を見上げて家までの道を歩いた。
2010.01.22
インドゆき(2)
朝食に降りるとき、同僚の部屋のベルを鳴らしたが反応がなかった。昨日、もしかしたら遅くまで飲んでいたのかもしれない。わたしが皆の部屋を出たのが午前1時過ぎ、残ったメンバーはまだまだほんの宵の口、といった風情だった。
エレベーターで今回同行しているお客さまとバッタリ一緒になって、昨日何時まで飲んでたんですか、と聞くと、ああ、確か五時くらいまでだったかなあ、と言う。しかも時差ボケなのか眠ったと思ったら起きちゃったし、殆ど寝てないよ、と。心なしか、腫れぼったい目をしている。早々に部屋に戻り、しかも今日も目覚ましが鳴るまで夢さえ見ないで眠ったわたしは少し後ろめたい気持ちになって、コーヒーでも頼みますか、と、言った。
インドの結婚式は、三日間ほど続くらしい。しかも、今日は朝五時から始まっているという。びっくりして、朝五時からが普通なんですか、と聞くと、それが普通というよりは、その日の惑星の動きによって結婚式を始めるのに相応しい時間が決められるのだと言う。ナタさんは、もちろん五時から参列しているが、わたしたちは夕方少しだけお邪魔させてもらう予定になっている。
午前中はナタさんのお兄さんに案内してもらい観光。ナタさんのお兄さんもかなり流暢な日本語を話し、こちらで日本語の先生をしているそう。カーストの「ブラフマン」は、本来聖職者の意味で、厳密にベジタリアンだということが多いのだというけれど、お兄さんも、魚や鶏卵も食べないピュア・ベジタリアンで、肉どころか葱やにんにくも食べない。「落ち着いて祈れなくなるので、食べないのです」、という、その物言いが静かで、それでも俗世離れをしているのとは少し違う。
車の中で靴を脱いで、シヴァを祀る寺院へ。シヴァは破壊の神であり踊りの神、シヴァの子どもはガネーシャとカールッティケーヤ……、という説明を聞きながら、お兄さんに促されて本尊へ。その建物に入った瞬間から祈りの声があちこちから聞こえ、わたしは思わず、誰に言われたわけでもないのにふっと手を合わせていた。トンネルのようになった暗い奥の方に白くぼんやりと座っている何か、それがシヴァ神だという。ゆらめく蝋燭の明かり、響く祈りの声、人々が手を合わせる姿、そこここに置かれた神々……。あそこには確かにシヴァがいる、と思った。そして誰もわたしたちを咎めだてはしなかったけれど、異教のわたしはふと心苦しくなり、痺れたように鳴る頭を抱えながらそこから出る。裸足の足を見つめ、歩きながら、わたしは、これはもはや宗教ではない、と、思っていた。
カースト制度はもう廃れたし、法律的にはもう意味はない、今は殆どの人たちが最上級のブラフマンを名乗っている、という話もよく聞くが、実際に現地で見聞きした限りでは、まだカーストの影はあちこちに残っている。お兄さんは、やはり同じカーストの人とのお見合い結婚で、結婚式当日まで花嫁の顔も見なかったと言うし、それはナタさんも同じだそうだ。そして、「カースト制度は気分がよくない」と、お兄さんが顔を曇らせるそのことこそ、カーストがまだ根強く残っている証拠なのではないかと思う。
まだまだ日本人が珍しいのか、車に乗って移動しているだけで、いろいろな人の視線を感じる。すれ違ったバスの中、可愛い男の子がこちらを見ていたから思わず手を振ったら、いつのまにか、バスの中の全員が、こちらに向かって手を振っていた。
*
寺院を出た後、立ち寄った小民家が連なる部落で、縁側に座った女性から、「ヘナ、やらない?」と聞かれた。まあここに座りなさいな、というように、自分の隣をぽんぽんと叩く。思わずそこに座ると、チューブのようなものから茶色い染料を搾り出しながら、彼女はわたしの手と腕に絵を描いていく。
「孔雀よ、これ」と言いながらあっというまに美しい模様がわたしの腕に出来上がっていき、いつの間にか周りに出来ていた人だかりから、歓声が聞こえる。
*
午後、ミーティングを兼ねたランチで市内のレストランへ。ここで、システムのデモを行い、実際の話を聞くことになっている。シーフードを使ったそこの料理は、とても美味しかった。インドに来てからと言うもの、食べもので辛い思いをしたことは一度もない。
デモをする前までは、インドの飲食店にわたしたちのシステムなんて、と少し思っていた。そもそも文化が違うのだし、オペレーションだって違うだろう。ところが、話し始めて少し経つと、出てくる質問質問が的を射たもので、しかも、日本の……それもかなり高いレベルのサービスと売上分析をしている店舗と殆ど同じ考えを持っている。マス分析ではない顧客管理の仕方、サービス料の分配方法、売上の計上と支払方法の選択についてや、税金の計算と表示のやりかた、など。
わたしははじめびっくりして、それから段々と楽しくなって、次々といろいろなことを話した。日本から来た、海のものとも山のものとも分からないシステム会社とのミーティングに、二十人近くが集まってくれるところがインド的といえばそうだが、なんとここにいる人たちは、やっぱり皆仲間なんだな、と思う。仲間というのは、同じ仕事を持ち、同じテーマを持ち、同じような目的と希望を持った人たちだということ。
仕事が人を繋ぐ、システムが人を繋ぐ、ということがこうしてあるのだ。システムが媒体になり、人が交わり何かが広がっていく。
お店で今使っているというシステムを見せてもらい、その完成度の高さにまたびっくりする。よくできている。ほんの少し手直しすれば、日本でもこのまま使える、と誇張でなく思う。まだチェンナイ市内で、このシステムを使っているところは数店舗しかないそうだけれど、それでも。
がっちりと握手をして、手を振ってお店を出た。皆興奮気味に、いいお店を紹介してもらったね、面白かったね、と口々に言う。わたしも、気分がすっかり高揚していた。ただ机上で話していたときとは違う、手触りのようなものを感じたからだ。そして手に触れたそれは、言ってみれば希望というものの、あるひとつのかたちだった。
*
ホテルに戻り、荷物を置いてから結婚式場へ向かう。きらきらの電飾、派手な建物。インドの結婚式は皆踊っているのだと聞いたけれど、そんなことはなく、大きなふろあにたくさんの人がひしめき合っていて、舞台の上に新郎と新婦が立っていた。
舞台の上ではなにやら儀式めいた祈りが行われ、それをカメラが追いかけ、舞台の左右に設置された大きなモニターに映し出されていた。
こっちこっち、と手招きするナタさんに、この人がサリーを着せてくれるからね、と美しい女性を紹介される。ハロウ、と言いかけると彼女は先ににっこり笑って、「わたし、ナターシャです。はじめまして」と、言った。
会場の脇にある階段から上ると、ホテルの部屋のような雑然とした部屋が現れ、さらにそこから階段で上り、同じような部屋で着替えさせてもらう。ナタさんが持ってきたサリーを検分しながら、ナターシャさんが、あれ、ペチコートがないよ、と叫ぶ。サリーを着るにはね、ブラウスとペチコート、それとサリーが必要なの。ペチコートがないと着られない、ペチコートにサリーをはさんで着るのよ、と言う。ナターシャさんはしばらく腕組みして考えた後、しかたない、そのジーンズでやってみましょう……やったことないけど、と言い、ゆるく履いていたわたしのデニムを試す眇めつしてから、ちょっとベルトをきゅっと締めてみて、と言った。
サリーは一枚の長い長い布で、それを身体に巻きつけて着る。お腹にぐるっとひと巻きしてからプリーツをつくり、肩にかける。ぎゅっとデニムのウエストのところに端を挟み込み、全体の形を整えこちらを見ると、ナターシャさんは、よかった、結構上手くできた
じゃない、と笑った。
着るのにほんの三分くらい。どこも苦しくないし、歩きにくくもない。なにせ布を巻いて挟んでいるだけなのだから脱げないか心配だが、意外にもしっかり着付けられていて、ラジオ体操したって大丈夫そうな感じ。……しないけど。
ナターシャさんは最後にビンディをつけてくれると、さあ下へ行きましょう、写真たくさんとらなきゃね、と言った。
*
食事は、ミールス、と呼ばれる、バナナの葉に盛られた正餐だった。なぜか横一列に並べられた長い机、そこに座って食事を取る。バナナの葉の前に座ると、次々にバケツに入った(!)お料理が運ばれてきて、盛り付けられる。もちろんフォークもスプーンもない。右手で食べるのだ。
なんというか、広い広い食堂、そこに並べられたテーブル、横一列に並ぶ人たち、次々に目の前に盛られる食事、その全てが、わたしの知っている結婚式、というものとは違ってびっくりする。ふと隣を見ると、新しいスーツを着た上司が、情けない顔をして右手を口に運んでいた。ヨーグルトで炊いたご飯、ココナツミルク入りのカレー、ドーサ、甘いチャツネ(のようなもの)、ブロッコリーを揚げたもの、などなど。ホテルの料理とは違い、外国人用に調整されていないのだろう。甘さにしても辛さにしても強烈で、わたしは甘いものと辛いものと交互に食べながら、時々は予想が外れてさらに辛い思いをしながらもくもくと食べる。美味しかった、というより、面白かった、と正直に言った方がいいだろう。毎日これを食べていたら、きっと好きになるだろうけれど。
外の水道で手を洗いながら見上げると、月が見えた。夜の色が濃い。
2010.01.21
インドゆき(1)
チェンナイ国際空港に到着したのは、午前1時を少し回った頃だった。入国審査を通過し、預けた荷物受取のターンテーブルの前で、わたしは不安な気持ちで荷物が出てくるのを待っていた。ターンテーブルの前の人垣はなくなり、ちらほらと人が残るばかり。最初の荷物が流れ始めてもう、三十分ほど経つだろうか。わたしのスーツケースは、いつまでたっても出てこなかった。
荷物の出口に目を凝らしながら、もし本当に荷物が出てこなかったらどうしよう、と考える。どうしても必要なのは、パソコンとデモのための資料だけれど、最悪、パソコンは現地で誰かに借りよう。日本語のフォントセットはないだろうから英語だけで何とかするしかない。資料は、メールで送ってもらえばどこかで受信して印刷できるだろうか。薬は替えがないけれど、これ以上症状が悪化しないことを祈ろう。……たぶん、大丈夫。ただのいつもの風邪なのだし。しかし、荷物が出てこなかったときの手続きのことを考えるとうんざりする。英語は通じるだろうか、荷物はどこへ行ってしまったのだろう、どちらにしろ、ホテルに着くころには朝になってしまうだろう……。
そんな悲壮な覚悟をしていたのだが、最後の最後でわたしのスーツケースは無事に姿を現した。グローブトロッターの、紺色のトローリーケース。よく出てきたねえ、と、頬ずりしたい気持ちになりながらピックアップし、税関を抜ける。
*
出迎えのホテルの人に連れられ、駐車場まで歩く。夜中だというのにすごい人。彫りの深い、浅黒い顔の人たち。床で寝ている人もいれば、大声で話している人もいる。わたしは圧倒されながら、人ごみを掻き分け、歩く。
インドの空気は違うのだと、出発する前に誰かから聞いていた。わたしは大きく息を吸ったが、それはすんなりとわたしの肺を満たし、身体に溶けていった。
ホテルまでは二十分ほどだという。夜が深い。道路は広く、車線など関係なく、車は走って行く。クラクションがずっと鳴っていて、しかしそれは耳障りというよりは、あたりまえの音のように聞こえた。
なんて快適なんだろう……、とわたしは思い、その気持ちの裏にあった覚悟のようなもの、つまりインドという国に行くからには、何かしらの不便や我慢を強いられるのだろう、という思いが少しずつ消えていくのを感じていた。ホテルの車はすみずみまでよく手入れされていて、シートは革張りだった。迎えに来てくれた運転手さんはかっちりした制服を身にまとい、丁寧な英語を話す。ビジネスで来ているのだ、バックパックを背負う旅ではないのだから……、と思いながらも、わたしはなにか気が抜けたような、何かが物足りないような気持ちで、深い夜を眺めていた。
*
ホテルに着いたのが三時過ぎ、簡単にミーティングをして、シャワーだけ浴びて眠りに着いたのが四時ごろだろうか。ホテルの部屋は快適で、何も不自由はなかった。うがいをしようとして水を口に含んだとたん、その味の強さにびっくりする。そういえば、歯を磨くのもミネラルウォーターを使ったほうがいいと言われたんだっけ。少し軽はずみだったかな、と思いつつ、そのままうがいをしてコップを置いた。
一旦ベッドにもぐりこむと、目覚ましが鳴るまでぐっすり眠った。
*
朝、身支度を整えて朝食に降りる。途中で同僚の部屋をノックし、ダイニングに行くと、先に到着していたお客さまと上司の姿が見えた。隣の席に座り、紅茶を頼む。レギュラーかブラックか、と聞かれたのでブラックと答える。出てきた紅茶は、確かにこれはブラックだ、と思うような、とても濃い紅茶だった。
インドはヒンドゥー教の国で、宗教上の理由で菜食主義の人が多いのだという。お酒も煙草も基本的にはやらない。ホテルの朝食はビュッフェだが、やはり、ベジタリアン、ノンベジタリアンとコーナーが分かれている。
ぐるっとひととおり出されている食事を見て、パパイアの生ジュース(ホテルだから大丈夫だろう)と、温野菜をとった。シェフが立っているので、何をつくってくれるのか聞いたところ、オムレツとドーサだという。ドーサというのは、お米の粉で作ったクレープのようなもの。折角なのでドーサを焼いてもらい、なにか適当にカレー(のように見えるスパイスの入ったスープ)につけて食べる。このドーサはお米でできているだけあってやさしい味で、この後も何度も好んで食べた。
恐れていたほどスパイスもきつくなく、中でも野菜は美味しくて、おかわりまでした。後で聞いたら、南インドの料理は米中心で、日本人の口に比較的合うのだという。ココナツミルクとココナツオイルの香り、ひよこ豆を煮たもの、お米でつくったドーサなど。
結局のところ、旅をするということは、その国の空気を吸い、ものを食べ、水を飲む、そういうことなのだ。そして少しずつわたしの細胞も、チェンナイのものに入れ替わっていく。
朝食を終え、支度をしてロビーまで降りると、ナタさんが迎えに来てくれていた。ナタさんと始めて会ったのが年末のこと、それから一月もたたないうちに、わたしはインドに来てしまった。しかし物事が始まるときと言うのは、こういうものなのかもしれない。
ナタさんは、インドの大学を卒業してから日本の大手企業に入り、その後独立して自分の会社をつくり、今は日本とインド、ヨーロッパに支店を持っている。日本語はペラペラで、カーストで言えばブラフマンなのに、お酒も飲むし肉も食べる。独立する前は、年収二千万クラスのコンサルタントだったという。
普段は日本に住んでいるナタさんだが、友だちの結婚式に出席するために一時帰国する、それに合わせてインドのオフィスで協業の話をしましょう、というのが今回の趣旨だった。
ナタさんはこちらに気づくとにっこり笑い、なにも問題はありませんでしたか、という。全く問題ありません、全てが快適で、と答えるともう一度にっこりして、それではそろそろ行きましょうか、と言った。
ホテルはチェンナイの中心部にあり、ナタさんのオフィスはそこから少し離れた海の近くにある。ナタさんの会社の車に乗り込み、オフィスまでの道を行く。これがなかなかすごい。広い道路に、ずっとクラクションの音が鳴り響き、秩序もなにもなく、ただ車が前に進んでいく、という感じ。ものすごいスピードで車を追い越しながら進んでいくのだが、何度も、これは正面衝突するのではないかとひやひやした。それでも事故は一度も目撃しなかったのだから、インドの人の運転技術はたいしたものなのかもしれない。
ものすごいスピードでバイクに乗っていく人たちはヘルメットさえかぶっておらず、オートリキシャにはドアはなく、バスにももちろんドアがなかった。よく誰も振り落とされないものだ。サリーを着た女性たちは、バイクの後ろに横座りして長い布を風に揺らしている。バイクに乗る人たちの足元が皆サンダルで、わたしなどひやひやしてしまうのだが、皆平気な顔をしていて、終いにはわたしも慣れてしまい、靴などわずらわしいという気になってしまうのだから不思議なものだ。
これはITロードと言われているんですよ、という立派な道路でさえ、牛が達観した顔で誰に連れられるわけでもなく歩いている。しかも、牛が道路を悠然と横切っていくのを皆きちんとよけて走り、あたりまえなのだが、誰も騒いではいなかった。
この道路は十年前にできました、ちょうど十年前からいろいろな整備が始まっています、とナタさんが言う。それを聞いて、十年前に来たかったな、とちらりと思ったが、それこそ、それはわたしのエゴなのかもしれない。
道端の屋台で果物を売る人がいる。電柱が林立し、電線が垂れ下がっている。人々が、どこへ行くでもなく道に佇んでいる。
つきましたよ、と言われて入ったビルは、東京の基準で考えても立派なオフィスビルで、入り口のドアには生体認証のユニットがついていた。しかしそのビルのすぐ横では、野良牛が水溜りから水を飲んでいる。このギャップ、と思う。
数年前から、インドのITはものすごい勢いで進歩していて、実際、ナタさんの会社では殆ど日本向けの開発を請け負っているが、バグもほとんどないという。オフショア開発、というと、上流工程と下流工程の意思疎通が大変だというイメージがあるが、教育と体勢作りで品質はいくらでも向上させることができる、ということだろうか。
しかし、日本人エンジニアとしては微妙な心情である。インドの人口は約十二億人、そのうちの何割かがITエンジニアになったとして、優秀なプログラマーはこれからどんどん増えるだろう。オフショア開発の割合が今後増えてくるのは確かなことで、そうしたとき、安い人件費でつかえる優秀なプログラマーのところに仕事が流れるのは当然のことだ。そういう意味では、日本で暮らす日本人プログラマーに、質でも量でも今後も今と同じ仕事が残る可能性はとても少ない。もはや国内だけで競争していればいい時代ではないのだ。
ビジネスの世界で勝ち残ること……、わたし自身の本当の気持ちで言えば、そんなことに興味はない。しかし自分が仕事をして食っていかなければいけない以上、自分の価値をどうやって保持していくかは考えざるを得ない。いや、自分の価値だけではない。自分の会社の価値、それをどうやって高めていくかを、考えていかなければいけない。
その結果のひとつが今回のインド行きなのだけれど。
ケーブルを繋げばすぐにインターネットが繋がる環境で製品のデモ。協業の可能性がどれだけあるか、今の時点では楽観的な見込みしか出ていないけれど、本当は今後どうなのかは、まだ分からない。
*
仕事を終え、結婚式へ向かうナタさんを見送り、わたしたちはナタさんの共同経営者であるチェナンさんの家へお邪魔する。ここがわたしの家です、と言われて見上げたその建物は、大袈裟ではなく、白亜の豪邸、といった感じ。マンションだと言われても信じただろう。家の真ん中にプールがあり、ホームシアターやゲストルームが何室も。メインのキッチンだけでうちのリビングより広い。バスルームだって、広すぎて落ち着かないんじゃないかと思うくらいだ。
わたしたちは半ばあっけにとられて、言葉少なに、プールを見ながら、奥さんが入れてくれた甘くて濃い美味しいカフェオレを飲んだ。
上司が、ぽつりと、日本じゃ一生働いてもこんな家に住めない、俺の人生一体なんだったんだろう、というのを聞いてそれがおかしくて、みんなで少し笑った。
日本とインドの物価の差がどれだけあるかは正確には分からないが、この家の土地と建築費を合わせた金額は日本円で三千五百万程度だという。金額だけで言えば、わたしの家より安い。しかし、この差は一体なんなのかといえば、一言で言えば狭間から生まれる差なのだと思う。越境に伴って、お金は価値を変え伸びたり縮んだりする、そのギャップを上手くつかえば、こういう豪邸が建つということ。そしてそれは、ただそういうことがある、というだけで、羨むことでも嫉むことでもない。
しかし、BOSEのスピーカーが備えられた立派なホームシアターを案内しながら、皆この部屋には寄り付かない、だから一人で見るんだけど、それもちょっとさびしいものだよね、と肩をすくめて言うチェナンさんはなんだかとても感じがよくて、わたしたちはすっかり彼のことが好きになってしまった。
家はまだ建築途中で、沢山の人が出入りしている。屋根の瓦を張っている人がいれば、芝を植えている人がいる。チェナンさんの家を出るとき、その人たちは皆一様に、夕陽を浴びてきらきらと光っていた。
2010.01.20
インドゆき(0)
夜中、ダイニングの床にスーツケースを広げながら、ぼんやりと途方に暮れていた。何が必要なのか途中ですっかり分からなくなり、Tシャツを出したり入れたりしながら、時間だけが過ぎていった。スーツを一着、モノクロのフィルム、カメラ、アロマオイル、処方してもらった抗生物質と咳止め、もしものときの解熱剤、ノートパソコンと、バッテリー……。結局はいつも自分が使っている好きなものだけを詰め込んで、スーツケースを閉める。山奥に行くわけではなし、短期間の出張なのだし、なんとかなるだろう。
それでも、朝起きたとき、もう心は旅に向かっている自分、それを楽しみにしている自分に気づいて苦笑する。自分は、進んで外に出て行く人間ではないと思っている。本質的に、臆病だし内弁慶なのだ。(ずっと若い頃はそれを格好良くないことだと思っていて、努めてそうではない自分を装っていたのだけれど。)それでも、旅に出ることは、つかのま、いつもと違う新鮮な空気を吸うことに似てて、肺は冷たく痛むし、指先は震えるけれど、同時にそれを楽しみにする自分がいる。
昼過ぎ、行ってきます、と会社を出て空港へ向かった。成田空港。空港に向かうときはいつも、初めてそこから旅立った小学生のころのことを思い出す。何年生だったのだろうか、あれは夏だった。パスポートは父と一緒で、行き先は姉が留学していた北京だった。海外旅行が今ほど気軽ではなかった頃だった。わたしは新しく買ってもらったワンピースなど着て、父に手を引かれて出国のゲートをくぐったのだった。あれからもう、二十五年近く経つ。それから何年か後に、イギリスの中学校に行くことになり、今度は一人で日本から出た。それ以来何度となく成田から飛んだが、越境ということには、今も慣れない。
成田からチェンナイへの直行便はない。今回は、香港で乗り継ぎすることになる。成田・香港が約五時間、香港・チェンナイが五時間半。日本を夕方四時過ぎに発って、チェンナイに着くのが現地時間の夜一時半。
オンラインでチェックインを済ませていたので、気が抜けるほどあっさりとチェックインが終わり、出国ゲートを通り出発ロビーに出た。会社でプリント・アウトしてきた搭乗券を見せ、パスポートを差し出し、それでおしまい。こと日本からの出国に関しては、どんどんと手続きが効率化されているように思う。列に並ぶこともほとんどない。たぶんいつかは、身体のどこかに埋め込まれたICチップか生体認証で、ゲートを通り過ぎるだけで出国審査が済む日がくるのだろうと思う。そしてそれは、そんなに遠くないことなのではないだろうか。少なくとも技術的には、もうそれが実現できる状態にあるはずだから。
定刻に飛行機は飛び発ち、わたしはシートに身を沈めたまま、本を開くわけでも、眠るわけでもなく、ただぼんやりとこれから先のことを考えていた。前へ向かって飛ぶ飛行機の中では、過去への後悔はなく、先のことしか考えられない。インドの……チェンナイの空気のことを考えながら、機内の夜を過ごした。
2009.11.08
同じ方を向いて歩く
隣のテーブルで、「若いんだからもっと食べなさい。だからそんなにやせっぽっちなのよ」「後でおかわりするよう」などとという声。お母さんと、若い女の子。
昔は、朝のビュッフェなどいくら食べても足りないくらい食べたものだが、今は、少ししか食べられない。林檎のジュースと、カフェオレ、薄く切ったトーストに、ヨーグルト。あまり食べられないし、食べたいともあまり思わない。自分の仕事のことを考えると、この傾向は、あまりよくないかもしれない。
冷たい空気が清清しい。風がざあっと吹くと、木の葉がはらはらと降ってくる。ブーツで落ち葉踏みながら歩くと、次第に身体が中の方から温まって、気持ちがいい。空が広い。
サン=テグジュペリが、愛とはお互いに見つめ合うことではなく、 いっしょに同じ方向を見ることだ、と言ったのだという。たぶん、わたしが友だちと散歩をするのが好きなのも同じ理由で、つかのま、同じ方を見て同じ方に歩いて、……つまり共に生きられる感じがいいのだと思う。本当に誰かと同じ景色を見ることなど決してできないのだけれど、それでも。
2009.11.07
旅なのか、どうか
軽井沢へ。
パソコンも何も持たず、誰かと会話をするためだけの旅というのもなかなか。まあ、なんということはない、結局は仕事の話になってしまうのだが、普段と違う場所につかの間、身を置くことで、解けていく何かがある、と思う。
いつもの星のやではなく、プリンスのコテージ。個人的に、プリンスというと時代遅れの代名詞のように思いこんでいた時期もあったのだが、それは間違いだったかもしれない、と最近よく思う。特に、軽井沢とか奥日光とか、敷地をたっぷり使ってゆったりとつくられた建物は悪くない。合理的であることがそれほど重視されなかった時代独特の贅沢な雰囲気が漂うようにまだ残っていて、それこそもう半分古びてはいるが、返ってそれが落ち着く。
いいホテルには二種類ある、と思う。二種類というのは、「ほっとするホテル」か、「わくわくするホテル」かどちらかということ。例えば都内で言えば、オークラの本館は前者、丸の内のフォーシーズンズは後者。わたしにとっては、ということだけれど。以前、今よりずっと働いていたころ、なにかから逃げるように深夜、都内のホテルを泊まり歩いていた時期があるのだけれど、その時も、そういう弛緩と高揚の狭間でホテルを選んでいた気がする。
今頃、どのホテルにもクリスマスツリーが飾られているだろう。きらきらのオーナメントや足元にこんもりと積まれたプレゼント。深夜、チェックインをするために、もう明かりの落とされたロビーを横切るとき、それがどんなにひっそりと美しく光るかわたしは知っている。けれど、もう、あの頃に戻りたいとは思わない。
軽井沢の夜は早い。閉店間際のトラットリアに飛び込むように入れてもらい食事。生ハムからエスプレッソまで満腹。三笠会館で修行したという若いシェフだという。中庸の徳たるや、それ至れるかな。極端に走らない味というのは好ましいし、立地を考えれば正解なのだろう。
夜が深い。星を見ながら眠る。
2007.06.10
今日も青
今日も青空。起きてまず一番に窓を開け、テラスの椅子に座りぼんやりとする。海の音が、遠く、近く聞こえる。海は、海というだけで、いつもどこか懐かしい。
部屋に戻り荷物をまとめ、身支度をする。大きな鏡に映る自分の顔。少し、日に焼けただろうか。一旦朝食に出て、また部屋に戻り、ベッドにごろりと横になる。天井のファンがくるくると回っているのを眺めながら、またいつか来よう、と思う。
*
ラウンジのソファに座ってお茶を飲んでいるうちにチェックアウトは終わり、既に荷物が運ばれたタクシーに乗る。笑顔に見送られ、もう一度、また来よう、と思う。
空港へ向かう途中、近くにある新しくできたホテルに寄ってもらう。五月にオープンしたばかりの、小さなホテル。すこし見せていただけますか、とお願いすると、気持ちよく館内を案内してもらえた。リゾートホテル、というのとも違い、もちろん旅館でもないけれどどこか和風な設え。海までは少しあるけれど風が吹き抜けるつくりになっていて、親密なのだけれど清清しい。まだ出来たばかりなので、少しよそよそしい感じがするけれど、年数を上手く重ねていけば馴染んでもっとよくなるホテルかもしれない。しかし天井や床の質感がどこか軽く、それを少し残念に思う。
たとえば、親密なふたりが、冬の何日かを滞在するのにいいかもしれない……、などと思いながらお礼を言い、再びタクシーに乗り込む。たぶんわたしは、ホテルという場所がとても好きなのだ。家でもあり、非日常な場所でもあり、親しげで、でも濃い関係の煩わしさはない。いろいろな人がやってきてはまた去り、いつも空気が動いているところ。
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空港で、沖縄そばと海ぶどうを食べ、DFSを横目で見つつ飛行機に乗る。実感として、二時間半は近い。しかし、それだけの時間の先にはいつも、あの楽園があるのだ。
旅の終わりは、いつも切ない。家の前でタクシーを降り、なぜかこぼれてくる涙をぬぐいながら家に入った。ああ、わたしは本当に楽しかったんだな、と、そのとき思った。
2007.06.08
旅に出よ
旅に出よう、と決めたそのときからが、旅なのだと思う。
仕事で出張に行くときは、とにかく自分の荷物は少なくする。けれど、自分のために行く旅には、好きなものをもっていく。いつも使っている化粧品、革のアクセサリートレイ、プールへ行くサンダルとガウン、食事のときのワンピース、一眼レフのカメラとフイルム、着替えをたくさん。……とは言っても、自分で荷物を運ぶわけだから、小さなスーツケースに納まる量にする。南へ行こう、と決めていたので、つばの広い帽子を持った。飛行機の中で読む本と、大きなストールを手持ちの鞄に入れて、タクシーに乗る。嬉しくて、頬が緩む。
梅雨だというので少し迷ったのだけれど、やっぱり沖縄に行くことにした。ホテルは、以前泊まったことのあるあのホテルにしよう。観光に行くわけでも、誰かに会うわけでもなかった。ただ日常と違う場所に身を置いて、そこの空気をすいたいだけだ。雨なら雨で、ぼんやりとテラスで本でも読んでいればいい。
運よく窓際の席になり、クッションを背中に押し込んでストールを膝にかける。いつの間にか眠っていたらしい、お茶菓子が配られたのにも気づかず、目を開けると窓の外には青空しか見えなかった。
*
雨が降っていた。想像はしていたものの、少し気落ちしながら帽子を鞄にしまう。タクシーの窓からしょんぼりと灰色の空を見上げていると、運転手さんが「あの花見てごらんなさい」と言う。「今の時期、一番きれいでしょう」。指し示される方を見ると、街路樹に朱色の花が、ぽっと火がともるように咲いている。そうしてみれば、その木は道の脇にずらりと並んで、なんともいえないあたたかな色の花を咲かせているのだった。「きれいな花ですね」と、月並みな返事をすると、運転手さんはおかしそうに笑い、「一生懸命外を見てるからもう気づいてるかと思ったよ」と言う。
国際通りの近くで降ろしてもらう。目に付いた案内所で荷物を預け、地図をもらう。ホテルは車で一時間以上かかる海沿いにあり、一度チェックインしてしまうと、もう那覇には戻ってこないだろう。けれどどこか遠くまで足を延ばして観光をしている時間はない。それならば、市場へ行こう、と思う。
思えばいろんな町の市場へ行ったような気がする。築地にはお客様がいるからよく出かけるし、どこかへ旅したときも、時間があれば市場に出かけた。函館、青森、秋田……仕事で四国へ行ったときも、飛行機が早く着いてしまったので魚市場で朝ごはんを食べたのだっけ。食べものは確かだ。食べ物は、そのまま生活だと思う。
豚足の前で立ち止まるわたしにおばちゃんが笑いながら言う。「これはね、てびちにするんだよ。コラーゲンよ。なんでも全部食べちゃうのよ、ここでは。びっくりするでしょう!」。熱帯魚(にしか見えない色鮮やかな魚)の前で多少ひるんでいると、「上で料理してもらえるよ。買っていかない!」と。隣にある尾長鯛は可愛い顔をしている。結局、セミ海老、という海老を買って、お刺身にしてもらう。頭は味噌汁。この味噌汁が素晴らしく美味しかった。味噌汁、と言っても味噌より出汁の味が勝っている。お刺身は甘く、歯ざわりがよかった。
すっかり重たくなったお腹を持ち上げて、荷物を受け取り、ホテルへ向かう。高速で一時間ほど。笑顔に迎えられ、通された部屋は以前泊まった部屋と同じタイプの部屋だった。ただいま、となんとはなしに思う。ワッフル地のパジャマとスリッパは肌触りがよくて、それだけで少し機嫌がよくなる。ベッドに置かれていたメッセージによると、明日は曇り。雨が降ってもいいけれど、それでもやっぱり晴れるといい、と思いながら眠る。
2007.04.07
山小屋を
山小屋を改造したアトリエは、海に面した壁がすっかりガラスになっていて、空と海がはるばると広がっていた。
知り合いに案内され、軽自動車一台がやっと通れる位の山道を登ってきた。明日お天気が良かったらバーベキューでもしたいね、なんて言っていたのが昨日の夜。それを聞いていた知り合いが、それならいい場所があるよ、と教えてくれたのがここだった。近くの山の中腹にアトリエがあり、そこのオーナーは旦那さんも奥さんも芸術家。今日は午前中、子どもたちの絵画教室があって、お昼過ぎから皆でバーベキューをするから、せっかくだからそこに混ざったらどうだろう、というのだ。振って沸いたような話に最初は多少気が引けたが、出入りの多い家だから大丈夫、という言葉に一押しされてやってきた。手土産はワイン、飲めない自分に、サンペレグリノを一瓶。
納戸を通り抜け、斜面を降りていくと、目の前が海。おこした火にダッチオーヴンがかかっている。大きな笑顔に迎えられ、到着した5分後には、鶏とパエリアが山盛りになったお皿を持って、皆の中に座っていた。絵画教室の子どもたちが何人か、近所の人たち、オーナーご夫妻と、わたしたち。干物やら、持ってきたワインやら、ご馳走を食べながらおしゃべりをする。何故、外で食べるご飯はこんなに美味しいのだろう。蜜柑の香りのいい風が吹く。
途中、少し寒くなって、アトリエの中に入れてもらうと、大きな翼が壁に立てかけてあった。眺めていると奥さんがやってきて、お茶を入れてくれる。ニケの羽ですか、と聞くと、そう、大きなニケも外にあるのよ、モーゼもある。個人で所有している人はそういないでしょうね、と、にっこり笑う。それを聞いていた子どもが、「ニケ?何?」というものだから、ナイキだだの、ルーブルだの、ロードス島だの四方八方から皆勝手なことを言い、当の本人はきょとんと翼を見つめていた。
帰り際、ふとアトリエを振り返り、はっとした。翼の前にたつ子どもの肩から、ちょうど羽が生えているように見えたのだ。何か言おうとして、それでも何も言わず、手を振って皆と別れた。ぱらぱらと振り出した雨のなか山道を降りていくと、さっと光が差し、その向こうに、くっきりと虹が出ていた。
2007.02.04
人事のこ
人事のことで、多少のトラブルがあった。簡単にいえば、ある社員が行った不正が発覚した、と言うことなのだけれど。でるわでるわ、証拠の山。日曜日のオフィスで、一瞬途方に暮れる。嫌な仕事だが、仕方ない。会社としての方針を決め、責任者で話をして、明日以降の処理を考える。しかし、溜息が出る。(溜息をひとつつくと幸運がひとつ逃げる、と言うのだったっけ。)
2007.02.03
今日は節
今日は節分です、日本では豆まきします、中国ではどうですか、などと話しながら、採用試験の合間、皆でお昼ご飯に餃子を食べる。こちらで餃子、といえば大抵水餃子。大勢なので、何種類か頼む。三鮮、という海老やイカが入ったものと、なんという名前だったか、キュウリと卵が入っているのがおいしい。トマト入りのが食べたい、と騒いで追加で頼んでもらう。キュウリにしてもトマトにしても、日本ではあまり餃子の具になっているところを見ないけれど、こうして食べると確かにおいしいのだ。(しかし、日本でわたしがつくってもこういう味にはならない。不思議だ)
午後からは面接。時期が悪いのか、今回は応募者も少なければ結果も芳しくなくて、しかし結局は熱意がある一人を採ることに決め、夕方前には予定が終わった。
早々にホテルの部屋に引き揚げて、スーツを脱ぎ、ベッドにごろりと横になって本の続きを読む。よしもとばななの『チエちゃんと私』。今回はバタバタしていて、何の本も持たずに家を出てしまい、あわてて成田で買ったのだ。そのお店でつけてもらったブックカバーがぼそぼそしていて読みにくかったのでふとはずすと、「突然おとずれた中年の従姉妹との同居生活……」という帯が出てきて、少しびっくりする。なんとなく、その言葉のイメージと、わたしが読んでいた本の世界と、随分違うように思えたからだ。
結婚もせず、子どももいない女性が、少し変わった育ち方をした従姉妹と同居するようになる。日常は過ぎていき、働いて、日々ゆるやかに歳をとっていき、家族のような同居人を疎ましく思ったりいとしく思ったりして……、というごく普通の生活の物語だ。生きていくのは哀しくていとしくて、ごつごつしたりきらきらしたりしている。それは当たり前のことなのだけれど、改めてそのことを思った。
気づいたら寝てしまったらしい。ご飯がまだなら食べましょう、という電話で眼が覚めた。時計を見ると九時半、いや、こちらの時間で八時半だ。近くに新しくできたレストランで、海老の唐揚やスペアリブなど。コートを着て出てきたが、ちっとも寒くない。今年の冬、初雪を見たのは、数ヶ月前のこの街だったのに。
2007.02.02
行ってき
行ってきます、と言って会社を出た。タクシーを呼んでもらうのはやめて、今日は電車。成田エクスプレスに乗る。今年は、本当に暖かい。念のため着てきた厚いコートの、長い毛足が頬に触れる。
一人で出発するのは久しぶりだった。もしかしたら、三年ぶりくらいかもしれない。しかし、この方が気が楽だ。のびのびする。
成田では、タッチパネルの端末であっという間にチケットが発行され、もう出国カードを書く必要もなく、あっという間に搭乗口までたどり着いた。簡素化されていく手続き。それ自体は結構なことだけれど、少し、つまらなく思う。いくつもいくつも手順を踏んで、ようやく出国する、昔は、それ自体が旅の始まりだったのだから。
免税店の化粧品にも宝飾品にもあまり興味はなく、新しくできたフードコートでオーガニックだというオレンジジュースを飲む。大きなホットドッグを食べていた隣のドイツ人と眼が合う。スーツ姿。リュックサックにつけているタグには、同業の、大手の社名が書いてあった。「どちらへ?」「北京です」「留学かなにか?」「いいえ仕事です」眉毛をちょっと持ち上げて、そうなの、という顔。今日のわたしはセーターにジーンズ。スーツでも着ていたらすんなり納得してもらえただろうか。「あなたの会社とも、一緒に仕事をしたことがあります。あの機械でシステムを構築して」と、その会社の製品の名前を言うと、少し目を見開いて頷くと、にっこり笑った。
*
飛行機に乗り込むなり、担当のフライトアテンダントさんにすみません少し具合が悪いので、と声をかけた。基本的には何の問題もない、お医者さんの許可ももらってある、それでも途中で気分が悪くなるかもしれないのでお願いします、と。たぶん何も起こらないだろうし、結局のところ今の体調で飛行機に乗るのを決めたのは自分なのだから、そんなことをお願いするのは恥ずかしいことなのかもしれないけれど、今回は無理をしないようにと決めたのだ。実際、彼女がにこにこと気配りしてくれたおかげで、フライトの間中とても楽だった。
お礼を言って飛行機を降り、ゆっくりとスーツケースをピックアップしてタクシーに乗り込む。いつも滞在するホテルの名前だけは、中国語でうまく言える自信がある。念のため、手帳にも住所を書いてあった。万が一通じなくても、それを見せれば事足りるように。
タクシーのメーターを見つめながら、わたしは、交渉しなければいけないような旅をもうずっとしていないな、と、ふと旅の空にいる友人を思った。バックパックを背負い、交渉しながら自分の足で歩き、つかのま旅の中に生きる、そういうことをしていない。飛行機からタクシー、ホテル、仕事、レストラン、ホテル、飛行機、タクシー。その行程のどれもがそれなりに快適で、想定外のことはほとんど起きないし、安全だ。そして、だからこそ少しつまらないけれど、そのつまらなさの中で安穏と生きていくのが今の自分は案外好きなのかもしれない、とも思う。自分が戦うべきところは、別のところにあるのだから。
*
今朝、昔、親しかった人からメールが来ていた。もう連絡さえずっととっていなかったけれど、満月を見て、思い出してくれたのだという。その人も、よく、旅に出る人だった。わたしが東京にいて、その友人がどこか遠くにいて、それでもどんなに離れていても、頭の上には同じ月だね、と言いあった昔のことを思い出して空を見上げると、ほんの少しだけ欠けた月が、ぼんやりと浮かんでいた。
2006.09.26
いってきます 4
東京は土砂降りです、というメールが届く。北京は快晴。新しく入った社員に、日本語のレベルチェックをする。この後の面接で、何人か日本に来てもらう人を決めることになっているので、皆真剣である。
慌しく筆記試験の採点をし、一覧にまとめる。皆勉強したのだろう、よくできている。ひとまず仕様書が読めるレベルであればいいだろう。幸いなことに、漢字の意味は大体通じるし、基本的な単語はかなり共通しているから、上達するのは早いだろう。
*
夜、カメラを持って外に出た。感度1600のフイルム。明るいレンズを使っているので、フラッシュなしだが結構撮れる。
歩いていると、土が積まれた工事現場で、つるはしを揮っている人がいた。向こうには、高層ビルが見える。カメラを構えてみる。「2006年、北京」なんてタイトルにぴったりの写真が撮れそうだった。開発と発展、そんなテーマか。それでも、シャッターを切らずにカメラを下ろした。わたしが撮りたいのはそういう写真ではないのだった。タイトルもなし、テーマもなし、ただその時の、わたしの写真だと、それだけがわかる、そういう写真が撮りたいのだった。
2006.09.25
いってきます 3
朝から雨。タクシーで事務所へ向かう。昼過ぎから晴れ、雨で空気が落ち着いたのか、きれいな青空になった。
ミーティングを終えて、午後からとある日本企業の現地法人へ。税金のことなど、いくつかを聞く。担当の方は日本人だったのだが、北京に来て半年ほどだという。しかし、流暢な北京語。なんと、4ヶ月勉強しただけだという。一緒に行った劉さんは、「ほとんどペラペラですよ、彼」としきりに感心している。彼曰く、「仕事の話は定型的なのでこうしてできますが、プライベートの話題となるとまだまだです」とのこと。しかし、年に何度かこちらに来ているのに、何も話せない自分が恥ずかしくなる。
わたしの一番上の姉などは、早くに日本を離れ、こちらの大学を卒業しその後イギリスへ移った。結婚したのは香港架橋のイギリス人なので、北京語はもとより、日常的には広東語と日本語で話し、仕事では英語を使っている。何にしても慣れるものだとは思うが、同じDNAを受け継いでいるはずの妹は、英語でさえ微妙な有様なのだった。
事務所に戻った後、社内で新規に始まるプロジェクトの説明をする。夜は皆で会食。皆は紹興酒、わたしはジャスミン茶。ジャスミン茶のことをこちらでは「花茶」という。「花茶」もそうだが、「緑茶」「烏龍茶」「菊茶」「プーアル茶」、お茶の発音だけは、最近随分上手になった。
2006.09.24
いってきます 2
ロンドンが霧の都と呼ばれたように、今の北京は煙っている。産業革命時代のイギリスと比べるのは妥当でないかもしれないが、昔東京がそうだったように、今、高度経済成長期の北京の空はスモッグで覆われている。増え続ける車の排気ガス、高層ビルの建設ラッシュ。いつの滞在からだっただろう、この街はこんなに煙かったっけ、と思うようになった。喉が痛い。秋なのに、空の青も遠く霞んでいる。
結局、どの街もたどる道なのだろうか、と思う。開発がすべてに優先され、環境が二の次になる。健康を害する人が出てはじめて対策が取られる。得るものも大きいが、一旦失ったものを取り戻すには時間がかかる。人は過程の中で生きていくものだし、点と点をつなぐように生活できるわけではない。だから、ぽっと来た人間が云々できることではないのだろうけれど……それでも、これでは生きていくのが辛いだろう、と、空を見上げながら思う。鳥だって、これでは苦しいに違いない。
*
普段は、北京出張だからといって、所謂名所旧跡の類にはほとんど行かない。単純に時間がないせいもあるし、なにかあまり気が進まないのだ。それでも今回はなぜか、万里の長城に行ってみよう、と思っていた。幸い、飛行機の関係で今日は一日オフになった。ホテルの前で値段の交渉をし、タクシーに乗り込む。
一時間半ほどでふもとに着き、運転手さんの携帯の番号を聞いてからリフトで上まで。素晴らしくいい風が吹く。大陸の空気はからりと乾いていて、日差しは強いが日陰に入ると涼やかで、過ごしやすい。
目のまえを、ドイツ人だろう、小さな女の子がお父さんと手をつないで歩いていく。万里の長城は、月からみえる唯一の人口建造物だと言う。さもありなん。山の峰づたいに城壁が、遥か彼方まで続いている。
さてどこまで歩こうか、と思う。どこまででもいいや、と思う。行けるところまで行こう。パチパチとシャッターをきりながら歩いていたら、ロシア人だろう、年配の女性が振り向いて、「ニコンのカメラね」と言う。そう、日本製、わたしもカメラも、と言うと、こちらを向いてにっこり笑った。
*
階段を登ったり降りたりしながらたっぷりと歩いたので、車に戻る頃にはすっかりお腹がすいていた。どこかでお昼ご飯が食べたいなあ、と思いながら、運転手さんに話しかける。とはいっても中国語はさっぱりなので、身振り手振りの世界だ。
「吃飯(食事)?」と言ってお腹を押さえる。お腹すいた、と言う顔。運転手さんはなにやら言っているが、ちっとも分からない。そういえばこの運転手さんは短髪で、りりしい顔をしている。ゴルゴ13みたい。
北京で?、と聞かれたような気がしたので、ううんこの辺で、と日本語で言いながら人差し指を立ててぐるぐる回す。通じるかしら。運転手さんはなにやら頷くと、車を出した。
しばらく走ると、釣堀が見えた。どうやらレストランもあるらしい。運転手さんは駐車場に入り、ここでいい?、と言う。ここでいい、ありがとう、と、車を降りる。「いっしょに食べますか」と言いながらレストランを指差し首をかしげると、大丈夫、という返事(たぶん)。
釣堀の脇のテーブルに座り、なにやら適当に頼んだ。魚のフライにしたものと、白いご飯、茄子を甘辛く炒めたもの。魚はちっとも生臭くなく、カリカリに揚がっている。茄子はほくほくと甘く、野菜自体の味が濃いのだろう、美味しかった。ふと顔を上げると、釣堀の向こうに運転手さんが見えた。手を降ると、ちょっと笑って手を振り返す。怖い顔をしているが、笑うと結構可愛らしい。
*
帰りの車で、ぐっすりと眠ってしまった。気づくと車は見慣れたホテルに入るところで、ドアマンのおじさんがお帰り、という。運転手さんにお礼を言って、車を降りた。楽しかったな、と思う。
ロビーのラウンジでぼんやりとお茶を飲みながら、ゆるゆるとどこまでも続く長城のことを考えた。
2006.09.23
いってきます 1
出張で北京に行きます、と友人に伝えたら、返事には、「桃さんらしい写真が撮れたら是非見せてください」と書いてあった。「いい」写真ではなく、「わたしらしい」写真、というところが嬉しい。また別の友人は、「ひかりを捕らえて、空気を映しなさい」という。そうだわたしの撮りたいものは結局のところ、ものではなく、特別な景色でもなく、名前のないものなんだ、と思う。それは瞬きのうちに移ろう何かであり、目にも見えなくただ感じとらなければいけない何かであり、それでもそこに確実に存在していて、時に世界を変える、そんな何かでもある。……たぶん。
いってきます。
2006.07.19
20年後 6
ちっとも写真を撮っていなかった。
そう思ったらいてもたってもいられなくなって、カメラを持ってホテルを出た。早朝の空気はまだ澄んでいて、気持ちがいい。
あちこちで、地下鉄の工事をしている。2008年のオリンピックに向けて、北京は建設ラッシュだ。「経済が大事」と、劉さんも言う。
実際、ここ数年で、びっくりするくらい北京は変わった。ぴかぴかのデパート、笑顔の店員さん、トイレもきれいになり、道行く人は水筒ではなく、ペットボトルから飲み物を飲むようになった。
……その代わり、空は煙っている。
随分歩いた。ホテルの前の通りに戻り、しばらくぼんやり立っていた。まだ出勤ラッシュには間があるのだろう。人通りも、自転車も少ない。
ブレないように肩を後ろの壁に預け、ピントを合わせ、何度かシャッターをきった。通り過ぎていく自転車の人たち。のんびり走るバス。向こう側に見える工事現場。
絞りを開放にして、もう一度構えたところで、目の端を通り過ぎて行った二人乗りの自転車が、きゅっと止まった。白い半そでのシャツ、陽に焼けた肌。何やらこちらを向いて話している。
わたしは一瞬慌てて、カメラを下ろした。彼がもう一度こちらに向かって何か言う。カメラを指差している。
ゆっくり首をかしげると、後ろに乗っていたもう一人が、おもむろに言った。
"Are you a photographer?"
ふっと力が抜けた。なにか説明しようと思ったけれど、止めた。わたしはにっこり笑って頷くと、こちらを向いて笑う二人を写真に収めた。
*
飛行機の窓を雨粒が通り過ぎた。雨だ。
空港の建物から出ると、大きく息を吸う。なんとこの、うるんだ空気の甘く優しいことよ。
都内へ向かうタクシーの窓から、緑の水田が見えた。わたしは、ほそく窓を開け、新しい風で身体を満たす。
有明を過ぎたあたりで、高層ビルを横目で見ながらふと思う。
どうやったら、きちんと古くなっていけるのだろうか、と。
新しく建ち続けるビル。それでも、新しさはいつか、確実になくなるのだ。そして、「新しさ」をなくしたときに、それでもなお美しくいるためには、どうすればよいのだろうか。続いていく価値を、どうつくっていくのか。古びてなお愛せる街を、どのようにつくるのか。
街だけではない。
自分は、どう歳を取っていけばいいのだろうか。
2006.07.18
20年後 5
雨だ!と思い嬉しくて飛び起きた。雨が降っている。部屋のクーラーは切ってあるのにひんやりとしていた。見下ろす街路樹も、その緑色を濃くしている。
雨だ、雨だ、と思いながら、傘もささずに歩いた。日照りの後のカエルみたいに。
*
夜のこと。
一緒に食事をしていたレストランで、劉さんが、お店の人を呼んだ。あれ、と思ったので、聞いてみる。
「劉さん、今の、もう一度言ってみて」
「何?」
「お店の人を呼んでいたでしょう。去年の冬に来たときは、"小姐"って言ってたけど、今のは違う単語ね?」
「ああ、そう。"服務員"って言ったの。"小姐"はもう使わない。いつのまにか、いかがわしい意味に使われるようになってしまったから。今は皆、"服務員"と言うのよ」
「そう」
「それにしても。……桃さん、本気で北京語を勉強した方がいいよ。もったいないよ。本当よ。そりゃあ、別に話せなくても仕事はできますよ。でも、ちょっと勉強すれば、多分すぐ話せるようになるよ。それに」
「それに?」
「わたしたちが中国語で話しているでしょう、桃さんが聞いているでしょう、時々、この人は、話の内容をみんな分かってるんじゃないか、そういう感じのときあるよ」
「あはは、それは気のせいよ。全然分からないよ」
「そして、今みたいなことを時々言うでしょう。それに、たまに中国語しゃべるでしょう、冗談で。びっくりするよ、発音だけだったらたまに中国人かと思うよ」
「だって、しゃべるっていっても、謝々、とか、ニイハオ、とかそれだけじゃない」
「それでもよ。それか、半年くらいこっちにいたらいいよ」
*
その時、恥ずかしくて劉さんにはいえなかったが、昔、中国語を習っていたことがある。姉がこちらに居た頃、実家の近くの大学に招聘されていた知り合いにお願いして、教えてもらっていたのだった。未来ちゃん、という名前の、わたしと同い年の女の子がいる、楊さん、という上海の大学の教授で、見た目は、さえない普通のおじさん、といった雰囲気なのだが、恐ろしく頭の切れる人だった。毎週同じ曜日の夜に、彼は手製のプリントを持ってわたしの家にやってきて、中国語を教えてくれた。
教えるのが上手な人だった。まずいいところを探して誉める、違うところは根気よく直してくれる。きちんと復習し、身につけさせる。その時、わたしは、「中国の人だから、中国語を教えられるのだ」と、単純に思っていたのだけれど、今になってやっと、それがどれだけ難しいことなのか、しみじみと分かる。日本語を話せるけれど日本語を教えられるわけじゃない。それは、大学時代にわたしが嫌というほど思い知らされたことだ。実際、そのための教育を受けたはずの今のわたしだって、あのときの楊さんのように教えられる自信はない。
習っていたのは、わたしと母で、母はいつも熱心だった。わたしは時折飽きて、居間のソファでぴょんぴょん飛び跳ねたり逆立ちをしたりした。父は、気が向けばたまに付き合うが、普段は横で、晩酌をしながら聞くとはなしに、わたしたちのレッスンを聞いていた。それでも父は、楊さんのことを随分気に入って、そしてそれだけではなく尊敬していたように思う。なんというか、楊さんというのはそういう人だった。決して威張るわけではなく、謙虚で、それでいてにこにことよく話した。なにか新しいものが大好きで、いろんな知り合いがいて、前衛バレエにつれていってくれたり、書道家の先生と合わせてくれたりしたこともある。そして、いつも、明るい感じがしていた。自分のすべきこと―研究者として日本で技術を学んでいくこと―をはっきりと理解していて、それにまっすぐだったからか、それとも、彼には夢があったからか。おじさんなのに、そんなふうにきらきらしていて、……そんな人を嫌いになれる人は、あまりいないのだろう。
そんな楊さんに教えてもらったはずの中国語も、今やすっかりどこかへ行ってしまった。
*
帰り道、劉さんがお土産にくれた蓮の実を食べながら、楊さんは元気かな、と思った。あれから、二十年経ったのだ。今もどこかの大学で、教えているのだろうか。
歩いていたら、ふと思い出すメロディがあった。手繰り寄せるようにつぶやいてみると、そういえば、楊さんに習った、中国語の歌だった。行きつ戻りつして、何とか全部、思い出した。……明日、劉さんに聞いてもらおうかな、と、小さな声で歌いながら、夜道を歩いた。
2006.07.17
20年後 4
朝起きると、扁桃腺が熱っぽく喉にふたをしていた。やれやれ。冷たい水で何度もうがいをしたら少しよくなり、ラウンジに降りておかゆを食べる。
数日前からこうなるのは想像がついていた。もともと、扁桃腺だけは弱いのだ。慣れているので、喉が重い、耳が痛い、このまま行けば熱が出る、という気配のようなものはすぐ分かる。だから、ことあるごとにうがいをし、水分をたっぷりとって、身体を冷やさないようにしていたのだが、なんというか、避けられない災難のように、「その日」はやってくるのだ。こうなると、声は出ないし熱はあがるし、固形物を飲み込むのさえ時間がかかる。
おお、これは気持ちが悪くて座っているのがやっとだ、などと思いながらそろりそろりと歩き、タクシーに乗り、昨日の続きの面接会場へ向かう。面接は午後早い時間に終わるはずで、寝れば少しはよくなるはずだ。生憎、日本から薬は持ってきていなかった。やれやれ、だ。
タクシーの窓から、砂埃が舞うのが見えた。ひどく乾燥している。せめて雨が降ってくれたら、と思う。息が苦しい。
*
「……ちょっと疲れていて少し体調がよくないんです。あまり話せないけど、ちゃんと聞いていますから。機嫌が悪いわけでもないから心配しないで、どうぞ予定通り進めてください」
ショート・ミーティングでそう言うと、劉さんが心配そうに傍に来てくれた。片言の日本語、きれいな英語。MIⅢに出ているハワイ出身の女優に少し似ている。わたしとほぼ同い年で、うちの会社も長い。
「桃さん、大丈夫?お水飲む?」
「お願いします。それと、できれば熱いお茶が欲しい」
「紅茶がいい?中国茶?それとも日本茶?」
「中国茶を」
すると、劉さんがペットボトルと漢方薬を、ホテルのボーイさんがお茶を運んできてくれた。お茶は、わたしの好きな菊茶だった。
「これ、飲んだほうがいい。漢方だから効くよ。熱があるんでしょう。近くにくると熱いもの」
「ありがとう」
「大丈夫?」
「没関系」
なんとか笑って言うと、
「まあ、そのぶんならまだ大丈夫みたい。とにかく、今日は早く終わらせちゃいましょう」
と、劉さんは最初の面接者を呼びに行った。
*
部屋にたどり着き、やっとのことでスーツだけ脱いでベッドに入る。コンタクトをはずさなきゃ、と思ったがもう一度立つ気力がなく、そのまま眠る。手足が重い。喉が痛い。
*
ふ、っと、暗いところから浮き上がるように目が覚める。汗をびっしょりかいていた。喉の重さが少しとれている。外は、まだ明るい。とりあえずシャワーを浴びるため立ち上がると、少しからだが軽くなっていた。
枕もとの時計を見ると、三時間くらい眠っていたらしい。劉さんの漢方薬が効いたのか、眠れば治るということなのか、おそらく熱は下がっていた。まだ大丈夫だ、と思う。
でかけようか、それとも部屋でおとなしくしていようか、と思いながら、窓際のソファに座り、外を見る。曇り空。霞んでいるのは、スモッグなのか。雨は、まだ降らない。
2006.07.16
20年後 3
採用試験に伴う会社説明会、その後の面接で、北京に来てからというもの、ずっとホテルの会議室にカンヅメになっていた。冷房が効きすぎていて、スーツを着ているというのに、恐ろしく寒い。頭の芯がじわりと痛む。
実際の筆記試験も、採点も、現地のスタッフが滞りなく進めてくれた。わたしの仕事は、説明会でのプレゼンと、経歴のチェック。後は、面接で、その人の顔を見ることだけだ。瞬く間に点数がつけられ、ランク毎に振り分けられた集計用紙を手渡され、一枚ずつ確認する。
情報処理の適性検査や、コンピュータ言語のスキルチェックは、ある程度までは意味がある、と思う。それでも、あくまでも「意味がある」程度だ。最低限、規定の点数に満たなければならないが、その後は、今までどんなことをやってきたか、だ。だから顔を見なくては始まらないし、本当のことをいえば、しばらく話してみなければ分からない。が、今回、わたしは少し遠くで眺めている役だ。現地の代表の決定が、本社の判断とずれないように、あまり口を挟まずに見まもる、ということ。
*
喉が痛い。空気が乾燥しているのに加え、どこでも、室内はクーラーが効き過ぎている。雨が降ればいいのに、と、空を見上げながら希うように思う。雨が降ればいいのに、と。
*
実家には、交通整理をする警官の足元に座るわたしの写真が残っている。半ズボンを履き、こちらで買った別珍の黒い靴を履いている。ゴム底で、歩くとキュッキュッといい音がしたのだが、そのときはとにかく疲れていた。北京の夏は暑い。天安門広場だったか、故宮だったか、もう歩くのに疲れたわたしはぐったりと、そこに座り込んでしまったのだった。
小さい頃から我慢弱く意気地なしだった。今もその性質は大して変わっていないのだろうと思う。疲れたら座り込んでいたいのだし、動きたくないのだ。今、そうしないのは多分、そうするよりしないほうが、楽だからだ。
姉なのか、父なのか、この写真を撮ったのが誰か今となっては判然としないが、その誰かは、きっと面白がってこの写真を撮ったのだろうと思う。膨れた顔をして、足を投げ出して、道の真ん中に座っているわたしを。いつもそのようにして家族はわたしの我侭をひとまずまとめて放り出し、時には面白がり、わたしが諦めていつしかすごすごと立ち上がるのを遠く見つめているのだった。
ふと、そんなことを思い出した。頭が痛い。もし、親しい誰かが今ここにいたら、もう疲れたのだと言えるだろうか。
2006.07.15
20年後 2
旅支度をしていると、自分の生活に必要なものと、そうでないものがよく分かる。
去年買った紺のスーツケースをわたしは本当に気に入っていて、それ以来海外出張が少し好きになった。荷物は自分が持てる量だけ、と決めているのでサイズは小さい。少しの着替えと、スーツが一着、ノートパソコン、文庫本を一冊、無地のノートとペン。石油由来の成分が入っている化粧品やシャンプーは使わないことにしているので、いつもの石鹸と、化粧水のボトル。カメラとモノクロのフイルム。これだけだ。三泊以上はどれだけ長くなっても荷物の量は結局同じだ。どうせホテルに泊まるのだし、服が汚れれば洗うなり、クリーニングに出せばすむ話なのだから。
回数を重ねるごと、旅はどんどん気軽になる。その代わり、あのときのように、「旅に出る」だけでまるで胸がいっぱいになる、そんなことは、もう、滅多になくなってしまった。
*
旅の話だ。
20年前、わたしたちは姉を訪ねてこの国に来たのだった。姉たちはその数年前に、ハワイに旅行していたが、わたしにとっては初めての海外だった。よそゆきのワンピースを着て、いつもは履かない革靴で歩いた空港の、床の感じをまだ覚えている気がする。
姉は、その半年ほど前に、市内の語言学院に入学していた。夏休みに行くからなにか欲しいものはないか、と電話で尋ねた父に、姉は、仲良くなったインド人の子がいるから、浴衣を持ってきてほしい、と言ったのだった。
だからその夜、わたしは姉の部屋に、浴衣を持っていった。そこには見知らぬ国の人たちがいて、わたしが差し出した浴衣を笑顔で受け取り、わたしにはピンク色のふわふわした服を着せてくれたのだった。
姉と、その人たちは、知らない言葉で会話していた。生まれたときから一緒にいた姉が、たった数ヶ月でよその国の言葉を話している。わたしはびっくりして、それでもぼんやりと、姉のベッドの上に座っていたのだった。
あの、夜の感じ。外に出ると風が吹いていて、暑くもなく、寒くもなく、夜に抱かれているようだった。通りには柳の木がずっと並んでいて、まだ早い時間だったのか、たくさんの人が外にいた。道行く人たちの言葉は分からなかったけれど何の不安もなく、それでも、どこか心浮き立つような感じがいつもあって、そう、あれが、わたしにとって初めての、旅というものだったのだと思う。どこか知らない場所に、純粋に身を委ねるということ。
*
今の会社の営業所は、あのころ姉が住んでいた場所と目と鼻の先にある。住所を初めて見たとき、驚いて地図を広げたくらいだ。
学校くらいしかなかった静かな街には、今、高層ビルがいくつも建ち、IT企業が集まる場所になっている。馬が荷物をひいていた道の面影もない。
それでも、こうして吹いてくる風と柳の木だけは、あのころと何も変わらない。
2006.07.14
20年後 1
なんていう一週間だったのだろう。
ほぼ毎日のように、移動していた。関西に二回、そこからさらに地方へ一回、北関東に一回。そして、今、北京行きの飛行機のシートに座っている。週の半ばごろから、意識が自分を離れてふわふわと浮いているようで、いつもぼんやりしていた。もう若くないということなのか、ずっと微熱が下がらなかった。寒い。ブランケットを肩まで引き上げて、目をつぶる。離陸が遅れる、というアナウンスを霞がかった遠くの方で聞きながら、わたしは、どこかにひきずり込まれるように眠りについていた。
*
目が覚めると、空の真ん中にいた。窓の外を見ると青くて、そうだ雲の上はいつもこんな青空なのだ、と思う。頼んだオレンジジュースをごくごくと飲む。機内食はパスして、フルーツだけ。ワインはどうですか、という笑顔に首を振り、代わりにジャスミンティをもらう。乗る寸前に買った文庫本を開くまもなく、また、意識が遠くなる。
夢を見た。小さいわたしが、小さな部屋で、姉の隣に座っている。ふわふわした外国の服を着せられていて、目の前には、白地に赤い金魚の浴衣を着た、わたしと同じ年頃の女の子がいた。褐色の肌、黒檀の瞳、すらりとした細い手足、彫りの深い顔立ち。わたしは不思議な気持ちで、でもそれがどういう気持ちなのか言い表すことができないでいた。それは知らない場所の知らない部屋で、ただ、姉だけが良く知っている、親しい人だった。わたしは姉の顔を眺めている。姉は、わたしの知らない言葉を話していた。
*
一番最初にこの国に来たのは、ちょうどこの時期だった。夏休みが始まるほんの少し前に、学校を休んで飛行機に乗った。父親の隣に写ったパスポート。姉が二十歳前だったのだから、わたしも九歳か、十歳だった。
何故姉が北京の大学に行くことになったのか、詳しいことは分からなかった。けれど、わたしは、事情はともかく、それを誇らしく思っていた。少しずつ増えてはいたが、まだ留学がそれほど珍しくなかったころだ。まだ昭和だった。中国でも、天安門事件が起こる前のことだ。
空港に着き、姉に迎えられ、小さくて清潔な宿泊所に着いた。練炭工場の招待所だという。外の道は砂利道で、広い道路を空色の小さなタクシーが走っていた。
そして、窓から外を眺めていたわたしは、百日紅が咲いている、と思ったのだった。うちの庭にも咲いている同じ花が、この国にも咲いていた。
*
あれから二十年、と思いながらタクシーに乗る。
2006.05.07
京都だより 2
彼が友人と飲みに行ってしまったので、これ幸いとホテルのスパに出かけ、すっかり満足してから夜の喫茶店でこれを書いています。
ふと入ったこの喫茶店、この上なく美味しいカプチーノが出てきました。
お店のお兄さん曰く、世界で六番目に美味しいカプチーノ、ですって。なぜだろう。でも確かに、こっくりと深いエスプレッソにしっかり泡立てられたミルクがふわふわ乗っていて、本当に美味しいのでした。
外は雨です。
わたしは夜の喫茶店を好きです。ひとりならなおさら。気安さと心細さの具合がちょうどよいのだと思う。すっかり長居したい感じです。……けれど、もうすぐ閉店みたい。お兄さんがラスト・オーダーを聞きにきました。
閉店間際のお店も好きです。変に明るくて、ろうそくが燃え尽きる前みたい。
さて、しかし、いつものごとく傘がない。はて、どうするかね。
2006.05.06
京都だより 1
旅に出ると、条件反射的に手紙を書きたくなるのは、昔読んだ詩人の、友人に宛てた旅の手紙があまりにもすばらしかったからなのか、何か他の理由があるのかはわからないけれど、とにかく、わたしは旅先では、何かしら、誰かに向けた言葉をいつも探しています。
京都には何度か来ているはずなのに、今回はいつもとはまったく違う趣なのは、隣を歩く人のせいか。そう、彼は京都の人なのでした。
それでも地図を片手に、あちこちを歩いています。
ここは不思議な場所です。なにせ、日本で一番有名な観光地、でしょう?名前、そしてそこがどんな場所なのかくらい知っている場所がいたるところにあります。たとえば清水寺とか、銀閣とか、祇園とか。この街を歩くことは、そういった点を結んでいくことに、よく似ています。
そして、「知っている」はずだったところに実際に立ってみると、もちろん、それぞれ、「違う」のです。
……これは、「旅行ってそういうものだよね」という話。ツキナミですが。
いいお天気です。
2005.12.08
旅の空 6
目覚ましが鳴る前に起き上がり、スーツケースを開ける。カーテンを開けると、空は、朝がくる前の一番深い色をしている。ノートパソコンを片付け、スーツケースにしまう。ワードローブにかけてあったスーツも、机に立てかけてあった本も。劉さんが貸してくれていたダウンのコートは別の袋に入れて、チョコレートとメモ書きを添えた。これは、ホテルのフロントに預かってもらうことになっている。そのコートじゃ寒いから、と、劉さんが持ってきてくれたコートは、本当に暖かく、ありがたかった。
*
成田に着くと、空気がやわらかい。携帯の切り替えをすると、とたんに何件か立て続けに鳴る。戻ってきたんだ、と、思う。
*
ただいま、と会社に顔を出し、溜まっていたメールや書類を確認し、印を押し、みんなに声をかけてから早々に帰った。もう、仕事で海外に行くことも、もしかしたら最後かもしれない、とふと思う。こんなふうに何気なく、色々なことが終わっていくのか。
スーツケースをあけると、ひんやりとした北京の空気がつかのま、部屋を漂い、やがてその気配も、溶けるように消えていった。
2005.12.07
旅の空 5
実家に、一枚の写真がある。
傍から見たらどう見えるかは知らないが、わたしは恐ろしくわがままで甘ったれだ。それは、昔も今もあまり変わらない。……その写真には、ぶんむくれた顔のわたしが映っている。にこにこした男の人の膝に座って、家族に囲まれて。可愛らしいワンピースを着ているが、ほっぺたをふくらませて、いかにも小憎らしい顔をしている。見るたびに顔から火が出るほど恥ずかしい思いをするのだが、最後には、そうだわたしはいつもこうだよなあ、と、諦めにも似た気持ちで肩を落としてしまうのが常である。
姉が中国へ行こうとしたとき、まだ海外留学は今ほど一般的ではなかった。いくつもの煩雑な手続きがあり、書くべき書類があり、現地での身元保証人を見つけなければいけなかった。まだ、コネがモノを言った時代だったのだろうと思う。どういう知り合いだったのか、ある伝で紹介してもらった李さんが姉の保証人になってくれた。そのときは知らなかったのだが、李さんは政府の要職についていて、姉はその後何度も、それに助けられたのだと言う。現地の知り合いに李さんの名前を告げると、周りは皆びっくりしたのだというのだから相当なものだ。
例の写真で、ふくれたわたしを膝の上に乗せている男性が、その李さんである。姉が留学した年の夏、家族で北京に行ったときのものだ。確か、北京に着いた次の日かなにかで、疲れていたのだろう。李さんのお宅にお礼と挨拶に伺って、そこでわたしはソファでぐっすり眠ってしまったのだと言う。みんなで写真を撮るから、と起こされて、それで機嫌が悪くなり、李さんがそんなわたしをなだめ、あの写真になったのだそうだ。子どもというのはほんとうに恐ろしい生き物だ、と思う。今でもわたしはその時の自分の横面を張り倒したい気分になるのだが、父と母、そして姉は、どんな思いでそこにいたのだろうか。(お父さん、お母さん、あの時は本当にごめんなさい)
李さんはとても日本語が上手だった。漢詩にも造詣が深く、わたしが今も暗証できるいくつかの漢詩は、全部李さんに教えてもらったものだ。残念ながら、数年前に鬼籍に入られたが、今も、あの優しい声を覚えている。
*
北京で尋ねるべき人の二人目は、李さんの奥さんの蔡さんだった。蔡さんももう七十歳を超えているはずだが、今も仕事をされている。昼休みに電話をすると、息子さんが出られて、今日は会議なのだという。「桃さん、昔、お会いしたことがありますよ」と言われて、もしやあの時のことか、と思い、ひやりとする。ホテルの名前を告げ、会う約束の相談をした。
*
部屋のドアを開けると、小柄な女の人が立っていた。「桃ちゃん!」と言って握るその手が暖かい。しばらく、話をした。この前会ったときは小さかったねえ、と蔡さんが言う。あの時は子どもでした、本当に恥ずかしい、と言うと、蔡さんは思い出したように楽しそうに笑う。不思議な感じだった。幼かった頃のわたしを知っている人がここにいて、北京のホテルで、二十年ぶりに思い出話なんてしている。本当に大きくなったねえ、きれいになったねえ、と言ってくれる蔡さんと、姉のこと、父のこと、母のことを話した。
父に漢方薬、母に乾物を。紙袋からお土産を次々に取り出す蔡さんが、桃ちゃんにはこれね、と言って、真珠のネックレスを渡してくれる。大粒の、淡水パール。今着ている黒い服にも似合うわよ、つけて御覧なさい、といわれるままに首から提げると、静かにひかって、本当にきれいだった。蔡さん、ほんとうに、かえってすみません。いただいてばっかりで、と、お土産のお菓子を渡すと、また今度みんなでいらっしゃい、懐かしくって嬉しいから、と言うその声があたたかくて、なんだか少しだけ、泣けた。
運転手さんが待っているはずだから、という蔡さんを送って外まで出た。すこしおぼつかない足取り。手をとって、ゆっくり歩いた。車に乗り込む蔡さんに手を振って、見上げた月はさえざえと光っていた。蛾眉山の月、半輪の秋、と、昔教えられた漢詩を、思い出している。
2005.12.05
旅の空 3
眠りが深い。朝起きてしばらくは、自分がどこにいるか分からずにぼんやりしてしまう。カーテンの隙間から漏れる朝の光や、ソファの脇のブーツ、デスクのノートパソコン、枕元の時計。ひとつひとつ確認しているうちに、ああそうだ、わたしは北京にいるのだった、と思い出す。
何気なくカーテンを開けて、思わず息を呑んだ。街が、やわらかな朝陽に照って、薄紅色に輝いている。静かな通りの向こうから、昇りはじめた太陽のひかりが隅々に流れ込み、まだ生まれたばかりの一日が、薄く清んで、ひかっていた。
ふと、細い通りを、男の人が一人、歩いてくるのが見えた。寒そうに身をかがめて、上着のフードをかぶっている。思わず、声をかけたいような気持ちになって、朝日を浴びる彼の背中を見送った。
*
震えながら、ホテルから事務所までの道を歩く。次第に身体が温まっていくのが分かる。あちこちの屋台から、なにやらあたたかそうな湯気が立ち上っていて、思わずのぞき込んでしまう。すごい勢いで鼻の先を通り過ぎていくバスに気圧されながら走るように道を渡り、公園を抜け、久しぶりのエレベーターホールに行き着くと、事務所の副代表の劉さんが立っていた。
おはようございます、と、にっこり笑った後で、劉さんはわたしのコートを見、これじゃ寒いでしょう、と眉毛を寄せる。自分のマフラーをわたしにぐるぐる巻いてくれながら、エレベーターに乗り、事務所に入る。
2005.12.04
旅の空 2
今回の出張のスケジュールは少し変則で、今日はオフ。広いベッドでぐっすり眠って起きてみると、もう十時過ぎだった。ホテルのカフェでお茶を飲みながら、今日はなにをしようか、と考える。天安門広場、故宮、天壇公園……。観光地はいくらでも思い浮かんだが、どうも気乗りがしなかった。とりあえず、身支度をする。陽のさしこむ窓際にいると暖かいが、外はきっと寒いに違いない。
ふと、小龍包が食べたいな、と思う。思いついて、レストランを調べ、住所をメモする。とりあえずタクシーに乗り、運転手さんに住所のメモを手渡す。運転手さんは頷き、地図を調べると、走り始めた。
その昔、父と母と一緒に、中国語を習っていたことがあった。あったのだが、今、わたしの話せる中国語はほんの一言二言で、役になんてたちやしない。だから、北京にいるときのわたしはいつも紙とペンをポケットに入れている。困ったら書く。書いたら、なんとなくは通じるもので、改めて、漢字という文化を共有していることを在り難く思う。
*
そういえば、こちらの営業所ができたばかりの頃、わたしはまだ新入社員だった。立ち上げで何日かこちらにいたが、その時はなんでもやった。
電源タップを買ってきて欲しい、と言われ、二つ返事で電気屋に行ったはいいものの、どこに売っているかが分からない。字を書いてみても、絵を描いてみても通じない。展示されている洗濯機の後ろに、電源タップを見つけ、お店のお姉さんをつかまえて、指差して、やっと通じて買えたのだった。
今は、そんなことをする機会もない。他の人がなんでもやってくれるようになり、楽になったと同時に、やっぱり少し、寂しい。
*
タクシーの運転手さんは、何度か車から走り降り、道を聞いて、レストランの前まで連れてきてくれた。ありがとう、と言うと、にっこり笑って、なにやらわたしに声をかけ、手を振って去っていった。嬉しかった。いい一日だ、と思った。こんなふうに始まる一日が、悪いものになるわけがない。
小龍包はとてもおいしかった。栗の実ほどの小ささの小龍包をスープにつけてつるりと食べる。素材の味がきちんとして、食感がいい。思わずおかわりをする。……この調子だと、日本に帰る前に、わたしはすっかり太ってしまうに違いない。
*
食後、外を歩いた。ぴゅうぴゅう吹く北風に、早々に音を上げる。ひどく、乾燥している。木々に揺れる葉っぱも、カラカラと風に吹かれている。
十分も歩くと、指先がしびれ、耳がぴりぴりする。手袋を持ってこなかったことを後悔しながら、かじかむ指先でカメラを構え、何度か、シャッターを切った。
2005.12.03
旅の空 1
夕方のフライトのいいところは、窓から見える景色が美しいところだと思う。暮れてゆく空を飛び立ち、藍色の空を行くと眼下に街の明かりが広がる。ほんの数分の後には見えなくなってしまう光だが、何度見ても、わたしは思わず涙ぐみそうにさえなる。海の底に静かな輝きを見るような、手のひらでそっと包みたいような光景。
北京までは、ほんの四時間でつく。移動時間だけを思えば、新幹線で関西の営業所に行くのとあまり変わらない。それなのに、飛行機の中では、なぜかどんどん現実が遠くなっていくようで、わたしはぼんやりと座っていた。
目の前の座席の背に埋め込まれたディスプレイを、手元のリモコンで何気なく触っていた。ふと、画面が変わり、世界地図が映し出される。指先でボタンを押すと、地図は夜になり、そこには国々の明かりが見えた。日本でひときわ明るいのは東京、大阪、名古屋。ソウルも同じくらい明るい。三十八度線を境に、きっぱりと明りの量が違うのがわかる。ずっと移動して、ミラノ、ロンドン、パリ。ぐるっと戻って、ニューヨーク。照明が落とされた機内で、ひっそりと光る世界地図を見ながら、ここではないどこかのことを、少し、考える。
*
飛行機を降りたとたん、身に刺さるような寒さ。一息に目が覚める。随分きれいになった空港を歩きながら、ふと、昔のことを思い出した。
ここにくるたびに思い出す。初めて来た外国は、この国だった。父に手を引かれて、父と同じパスポートで。留学していた姉を訪ねて、わたしたちはここへ来たのだった。わたしが八歳、姉が十八歳のころである。ふと、十八の姉の気持ちを思う。日本から出て、どんな気持ちでこの場所に立ったのだろうか。姉は、五年をこの国で過ごした。その後はイギリスに移り、結局のところ、日本には帰ってこなかった。もう、姉が日本を出てから、二十年にもなる。そのころのこの国は、今とは比べようもなかった。舗装されている道路は珍しいくらいで、人民元と兌換券は分かれていたし、街角には練炭が積まれていた。
がらんと広い高速道路を走りながら、高層ビルを眺める。二十年か、と、思った。
*
*
無事、到着しました。メールをいただいた皆さま、ありがとうございます。
元気です。……しかし、寒い。寒いです。今日は、最高気温-2℃、最低気温が-9℃ですって。
手袋と腹巻を持ってくるべきでした。しまった。
2005.10.18
「昨日は
「昨日はどこに行ってたの?」
お昼ごはんのビーフバーガーを食べていたら、メリー・ジェーンがやってきた。
わたしの傍らにおいてあるリュックサックとジャケットを見て、眉毛を寄せる。
「もしかして、もう帰っちゃうの?」
「うん。夕方の飛行機で」
メリー・ジェーンはオーバーに嘆き、もっとゆっくりしていったらいいのに、と言う。
「またいつかくるわ。きっと。」
と応えると
「そうだ、十二月に来ればいいわ。クリスマスのイベントを沢山やるのよ。日本は寒いでしょう?ここはあったかくていいわよ」
と、紙を差し出しながら住所を書いて、と言う。
*
メリー・ジェーンに手を振って別れた後、ぐるっと散歩をした。砂浜で海を見ていたら、また潜りたくなった。嘴の細い、あの透明な魚はなんという名前だったのだろう。見上げると、変わらずやっぱり青い空に、この空の価値を思う。
もう少しいたいな、と思った。もしわたしが親に手を引かれた子どもだったら、帰りたくない、と涙を流し、駄々をこねていたかもしれない。ふと、一昨日、子どもたちが砂浜で作っていた砂の城を思い出す。
それでも、帰ろう、とわたしは思う。帰らずにいるには、わたしはまだ若すぎるし、一方で、もう歳をとりすぎている。
カメラを向けて最後に、フレーム一杯の青空を撮った。
2005.10.17
こぢんま
こぢんまりした国内線のカウンターに恐る恐る近づき、「島へ行くチケットをください」と言った。ほんの10分のフライト。往復で60ドル。名前と体重を聞かれる。何ポンド?と聞かれ、ごめんなさいキロでしか分からない、と言うと、カウンターの女性は黙って頷き、計算機をたたく。複写式のチケットに手書きでなにやら書き込み、帰りの切符を渡してくれる。
飛行機の出発時間を確認すると、「多分その時間より早く飛ぶから、待合室で待っていて」と言う。彼女が指し示した待合室の窓からは、小型のプロペラ機が見えた。
「島に行くの?」
人気のない待合室のソファに座っていると、大きな声が聞こえた。さっきからこちらをちらちら見ていた掃除のおじさんが、白い歯を見せている。
「大丈夫、ちゃんと飛ぶよ」
先程からわたしがずっと飛行機を眺めていたのを見ていたのだろう。おもちゃみたいな小型機。あれに乗れるのは嬉しいけれど、本当に大丈夫かしら、と思っていたのを見透かすようにおじさんは言う。
「日本人?」
「はい」
「めずらしい。日本人の女の子が一人で」
頼りなく笑うわたしにおじさんは、もう一度「大丈夫だよ」と繰り返す。
*
名前を呼ばれ、外に出た。プロペラ機の狭い操縦席に、身体の大きなアメリカ人のパイロットが一人。近くで見ると、つくづく、小さな飛行機だった。カメラを取り出し、シャッターを切る。手招きされるまま翼に飛び乗り、操縦席の後ろに座った。タクシーのシートよりまだ狭い。五人乗りの飛行機。
自由への翼か、と思う。
空は青く、青く、小さな飛行機はふらりと滑走路に出る。開いた窓から、乾いた風が髪を揺らす。ぐんぐんとスピードが上がり、パイロットが窓をパタンと閉め、広い滑走路を頼りなく走っていた小さな飛行機は、ふわり、と宙に浮いた。
みるみるうちに飛行場は遠くなり、海が見えた。ぐん、と向きを変えてぐるりと飛ぶ。飛行機は貸切だった。わたしはしばらく、窓に張り付いて外を眺め、握っていたカメラのことさえ忘れていた。
*
「レンタカー?」
と聞かれ、頷く。
そのレンタカーの小さなオフィスと空港の建物より他に、見渡すかぎり何もない。運転するのは、何年かぶりだけれど、たぶん、大丈夫だろう。
小さなトヨタに乗り込み、地図をもらった。とりあえずビーチに行こう、と思った。
まっすぐの道をしばらく走る。どことなく懐かしい道。小さな看板が出ているビーチに車を止め、そのまま着替えて砂浜に降りる。
しばらく風に吹かれていた。空と、海と、風と、それだけで十分だった。波打ち際に膝を抱えて座って、ぼんやりしていた。さらさらと、砂と波が、寄せてはかえす。
2005.10.16
昼食に出
昼食に出たスパークリング・ワインのせいか、午後の海辺で本を読んでいたらいつのまにかぐっすり眠ってしまった。眼を開けると、松の木の葉っぱと、青い空が見える。びっくりして起き上がり、時計を見ると、もう夕方になるところだった。三時間近く眠っていた計算になる。
ぼんやりとビーチチェアに座り、海を眺めた。遠くで、ウインドサーフィンをしている人影が見える。砂浜をしばらく歩き、海に入った。しばらく潜ったまま泳ぐ。水泡が気持ちよく頬をなでる。随分静かな海だった。沖の方で波は砕け散り、穏やかな水面がずっと続いている。水に浮いて岸のほうを眺めると、青い空を背に立つ椰子の木が眩しい。
*
プールバーに戻り、炭酸水にレモンを絞ってもらう。プールサイドでは子どもたちが浮き輪につかまってはしゃいでいた。
「日本からきたの?」と言う声に振り向くと、にこにこと女の人が立っていた。アロハシャツのユニフォームを着て、トレイを持っている。
「そう。昨日来たばかり」
「ここは、はじめて?」
「この島、ということ?それともこのホテル?」
「このホテル、ということ」
「うん。二度目。五年くらい前に、一度来たことがある。きれいで、何でもあって、夢みたいなところだと思った」
「わたしはメリー・ジェーン。よろしくね」
と、彼女は自分の胸の名札を指差してから、手を差し出した。
彼女の手を握り返しながら、わたしも名乗る。
「メリー・ジェーン、ね」
というと、
「そう。そして、あそこにいるのはメリー・アン」
と、カウンターの中にいる女性を指差してにっこり笑った。
*
シャワーを浴びて、着替えてから夕食。夜風にあたりながらぶらぶらと散歩していると、プールバーからメリー・アンが手を振っている。
手招きされるままにテーブルにつき、「お水。ガス入りの」と言うと、「お水?もう夜よ?何か飲めばいいのに」という返事。じゃあ、カンパリをほんの少しだけ入れて、レモンを絞って、と言うと、メリー・アンはにっこり笑って親指を立てる。
少し経って、メリー・アンは随分濃いカンパリ・ソーダと、山盛りのポップコーンと一緒に戻ってきた。随分サービスがいいのね、と言うわたしに彼女は笑う。
ステージでは、先程からビリー・ジョエルの曲が演奏されていた。目のまえのテーブルに、女の子がひとり、座っている。身体ごとギタリストの彼の方に向けて、しっかりと見つめて。褐色の肌。耳に刺した金色のピアス。まだ少し幼げな表情だが、あと一年もしたら、あどけなさはすっかり消えてしまうに違いない。
わたしの目線に気づき、メリー・アンは言う。「彼女はね、ここのスタッフの娘なの。夜はいつもここにいるのよ……」
ビリヤード台では、背伸びしないと台にも届かないくらいの年頃の男の子が、一人でキューを構えていた。ぶかぶかのTシャツの中で身体が泳いでいる。飽きもせず、繰り返し玉を突く音が響く。
ドン・マックリーンの懐かしい曲が流れてきた。「星降る夜に……」という歌声につられて空を見上げると、プルメリアの白い花がぼんやりと浮かんでいた。
2005.10.15
南の島の
南の島のいいところは、空港の建物から外に出たとたん、空の青さが違うことだ。ほんの数時間飛んできただけなのに、この色の違いは何故だろう。海沿いの道を走りながら、やしの木の隙間から見える海をずっと見ていた。海だって、わたしのよく知っている海とつながっているはずなのに、あまりにも青い。
昨日はほとんど眠れなかったのに、やけに足が軽かった。スーツケースを部屋に置き、カメラだけ持って外に出る。少し歩いては止まり、何度もシャッターを切る。
パラパラと降り出した雨に気づき、わたしはぼんやりとカメラをバッグにしまった。濡れて困る格好ではなかったので、そのまま歩く。いつもこんなふうにいられたらどんなにいいだろう、と思う。雨宿りせず、濡れるのも気にせず、歩いていけたら。
雨が上がり、ふと見上げると、大きな虹が出ていた。サーモンピンクの夕焼けの後には、澄んだ月がすっと浮かんでいた。
2005.09.08
おぼえがき・旅
少し遅めの夏休み。そうだ金沢に行こう、と思ったのは何でだったか。旅は二種類ある、と思う。リュックサックを持って行く旅と、そうでないのと。ジーンズで行く旅と、そうでない旅、と言ってもいいかもしれない。今回は、リュックサックにジーンズ。電車に乗って出かけ、たくさん歩こう。
旅は、ひとりか、ごく親しい人と行くのがいい。わたしは随分我侭なのだし、予定というものをまるでたてない。旅に出たものの、川べりに座ってぼんやり何時間も座っていることだってあるし、思いついたほうに歩くので、一緒にいる人をくたびれれさせてしまうから。
そして、たとえ二人でいたとしても、時々、ひとりに戻っていきたい。結局のところ、どうしても共有できない何かがあるのだということを、(そしてそれはちっとも寂しいことではないということを、)味わいたいのだ、と思う。同じ場所に立って、違う景色を眺めること。
*
電車をいくつも乗り継いで、駅に着いた。電車の窓から見える緑深い景色がまだ頭に残っている。それがどんな旅であっても、始まりはやっぱりわくわくする。普段だったらタクシーの距離を、てくてく歩く。
空気が甘い。日差しは強かったがいい風が吹いていて、気持ちがよかった。ホテルに荷物を置いて、身軽になってすぐ出かける。風情ある街並み。城下町か、と思う。
川の流れる街が好きだ。繁華街を抜け、犀川のほとりをゆっくりと歩いた。空は広く、芝は青く、美しい、でもごく普通の午後だった。
*
結局のところ、わたしは旅に出ても特別なことは何もしていないように思う。ただ純粋に時間の流れに身を置き、町を歩き、時折写真を撮って、いくつもの文章の切れ端を心に浮かべる。それだけだ、と思う。なのにどうして、こうやって、いつもどこかに焦がれるのか。
のびのびと「知らない場所」を歩いている心のどこかで、「帰りたい」とかすかに思っている自分がいる。「帰れる場所」を確認するために、わたしは旅に出るのだろうか。
2005.07.18
朝食の後
朝食の後、部屋の前の芝生に座っていた。夏の日差しがかりかりと肌にあたる。散歩して、朝露に濡れたジーンズの裾が、だんだんと乾いていくのがわかる。
膝を抱え、顎を膝に乗せぼんやりと考える。これは必要なことなのだ、と。少しの間、自分を日常と違う場所に置くこと。ペットボトルの水をごくごくと飲んだ。いつも飲んでいるものと同じものだったけれど、何故か、いつもより確かに美味しかった。
*
いろは坂を下るにつれ、だんだんと空気が変わるのがわかる。周りから蜻蛉は姿を消し、夏の暑さが戻る。帰りの電車で、仕事用の携帯が鳴った。案の定トラブル。やれやれ、と思いながら、浅草からタクシーで会社へ向かう。こうやって、飛ぶように過ぎる日常に戻るのだ、と思う。
ひと段落ついた夜、自分のデスクでキイボードを打ちながら考えた。きっとわたしは、旅に生きることはできない。それでも、いつも、どこか違うところにいる自分を思うことができる。すぐ近くに涼やかな風が吹く場所があることを確かに知っている。そして思い立てばいつでもそこに行けるのだと思いながら、いつも通りに夜を過ごす。
家に帰って、窓を開けた。星は、どこかへ隠れて見えなかった。ベランダの風鈴を、夏の風が揺らして過ぎた。
2005.07.17
そういえ
そういえば去年も今の時期は旅に出ていた。あの時は、岩手の温泉の自炊部に泊まり、花巻を歩いて、猪苗代湖と五色沼をたどり、奥日光へ向かったのだった。行き当たりばったりの旅行だった。朝、目を覚ましてから行く先を決め、途中で気が向けば向いた方へ行った。リュックサックを背負って、毎日よく歩いた。山に漂う雲と、帰りの電車の中で眺めた夕陽を今もよく覚えている。
去年と同じ場所に足が向いたのは何故だろうか。そうだ中禅寺湖のほとりに行こう、と思いたち、電車に乗った。どこか水の近くへ行きたかった。できれば、緑もあるところがいい。ただ広いところで何もせずにぼんやりしたい、と思ったときに、去年行ったあの場所を思い出した。
荷物はほとんど持たない。着替えを少しと、本と、カメラ。少し考えて、いつもは持っていくノートパソコンは置いていくことにしたら、小さな鞄に納まるほどの量。荷物を持ち上げながら、わたしの生活に本当に必要なのは、もしかしたらこれだけなのかもしれない、と思う。
浅草から特急で数時間。日光の駅から車で一時間ほどでホテルに着いた。湖畔に建つホテルは、鬱蒼とした森に囲まれていて静かだった。肌にあたる風がさらりとしていた。午後の木漏れ日が芝生に模様をつくっている。樹のにおいがして、鳥の声が聞こえる。しばらく湖畔の桟橋でぼんやりした。水は澄んでいて、小魚が泳いでいるのが見える。蜻蛉が飛んできて、ロープに止まった。つながれたボートにあたる水の音を聞きながら、忘れていた何かを取り戻す。
*
遠くの雷鳴がだんだん近づいてきた。空がみしみしと音を立てている。腰掛けていた桟橋から立ち上がり、グレーの空を見上げていると、肩にぽつりと雨が落ちた。雨が落ちる湖はきれいだ。空気も、山も、湖の色も、先ほどまでより一段落ち着いてかすかに煙っている。わたしは、持っていたカメラをかまえ、シャッターを押そうとして、止めた。声を掛けられ振り向くと、宿泊しているホテルの方が、傘を手に立っていた。
*
夜、雨がやんだのでまた外に出た。足元の草は露に濡れていた。洗われた空に星がよく見える。どうしてだろう、水辺はいつもこんなふうに懐かしい。
カーテンを開けたまま、ぐっすりと眠った。木立と湖が見える部屋で、なにか銀色の夢を見た。
2005.07.13
たまに「
たまに「趣味は何ですか」と聞かれることがあるのだけれど、そんなとき、はたと困ってしまう。本を読むのも自転車に乗るのも外を歩くのもどこか遠くへ行くのも好きだけれど、どれもどこか「趣味」とは違うような気がするからだ。読書も自転車も外を歩くのも、趣味というよりはもうずっと長いこと、食事をするように、水を飲むようにやってきたことのような気がする。どこか遠くへ行くこともそうだ。ここではないどこかへ行きたいと、いつも思っている気がする。それは趣味というよりはむしろ憧れのようなもの、心の向きのようなものだ。
それでも、「趣味は何ですか」と聞かれると、「旅をすることです」と答えることが一番多いかもしれない。「旅」という言葉への憧れもふくめて。
*
行った国を数えるような、名所旧跡をくまなくまわるような、そんな旅をしなくなったのはいつからだろうか。少し遠くのお客さまのところ行った帰り道、電車の中から見慣れない駅名を眺めながら思った。最近のわたしは、どこへ行ってもそこで暮らす自分をいつも考えている。たとえば青森で、ニューヨークで、徳島で、北京で、初めての道を歩きながら、もしかしたらそこにあるかもしれない自分の人生のことを考える。街角のニューススタンドを見れば明日はここでチョコレートを買おう、と思ったり、美味しそうなパン屋さんを見つければ入ってクロワッサンを買ってみたりする。本屋さんで立ち読みをして、疲れたら喫茶店で紅茶を飲む。それはもはや旅ではないのかもしれない。それでも、少しの間、自分をいつもと違う場所におくことは、わたしにとっては必要なことなのだ、たぶん。つかのま、いつもとは違う生活を生きてみるということ。
*
そろそろ、どこかへ出かけてみようかと思っている。
2005.06.06
自転車で
自転車で朝を走りながら、そうかわたしは海へ行きたいのではなく、どこかへ行きたいのかもしれない、と思った。
去年、白神山地へ行った。電車に乗って、重たいリュックサックを背負って。晩秋の山々は静かで、雨と色づいたブナの葉がはらはらと散っていた。誰もいない山深く足を進めるたびいろいろなことが遠くなり、最後には落ち葉の土を踏む感触だけが残っていった。
旅はいつも、自分と向き合う行為だ。心細く、たったひとりで、でもひろびろと心が澄んでいく場所。見渡すかぎりなにもなくて、風が吹きぬけていくあの場所に、わたしは自分を立たせたいのだ、と思う。
「私は宿命的に放浪者である」という林芙美子の一節をふと思い出す。しかしわたしは放浪者にはなれない。旅に生きることができない。古里にうずくまりながら安寧の地を求める、そんな生き方をしているように思う。それなのに、ときおりあの風が吹く場所に行きたいと希ってしまうのは何故なのか。そしてそれが手の届くところにあるのだと、確かな気持ちで思うのは何故なのだろうか。
2005.05.17
歯磨き粉の日常
スターバックスのカフェラテは、やっぱり落ち着きます。
僕はそんなコーヒーは嫌いだね、と言う上司の横で少し肩身の狭い思いをして両手で持つカップは、それでもわたしの指先をあたためてくれるのです。
喉をすべり落ちる、いつもと同じ味。「いつもと同じ」ことの効用。
食べものとか文房具とか、日常使うものが見慣れないとき、
わたしはいつも「どこか遠いところに来た」と思います。
たとえばスーパーで、目にする歯磨き粉のパッケージが全部見慣れないものだったとき、
お菓子の棚の前に、知らないクッキーばかりが並んでいるとき、
わたしは「ああ、こんなところまできてしまった」と思うのです。そして、少し心細い気持ちになる。
初めて海外で暮らすことになった中学生のとき、見慣れぬパッケージばかりの棚の前で
途方にくれていたわたしにとって、それだけは日本と同じだった「ミロ」(牛乳を入れてつくるアレです)の
パッケージがどれだけ懐かしく思えたか。
……あはは、スターバックスもそれと同じ、なんていったら言いすぎでしょうか。
暮らしていく、ということは、たとえば歯磨き粉であったり文房具であったりするのだ、
とわたしは思います。シンプルな話。
(もちろん、こういうときって、見知らぬ土地に心細く思うのと同時に、
わくわくもするのですよ。期待と不安が混ざり合ったような微妙な気持ち。
震える指先をぎゅっと握り締めながら、まっすぐ歩いていくような、そんな気持ちです。
決して悪いものではない、と思う。)
さて、ここで暮らせる気がしつつあるここ数日ですが、ひとまず帰ります。
ここで暮らせる、という思いと一緒に、会いたい、はやく会いたい、と、
そんなふうにも思いながら飛んで帰ります。
待っていてくれる誰かのところへ帰ることが、なんと、こんなふうに幸せだとは。
2005.05.15
旅に出たい、と繰り返し思っている。
少しだけ喉が痛くて、なぜかいつもより心細い思いをしています。
とは言っても、今日も仕事で、まあ、へこたれてはいられないのです。
こうして、ホテルの部屋にひとりでいると、ここはどこなのだろう、と、ふと思う。
大きなデスク。キングサイズのベッド。ミネラルウォーターの瓶と、さっき買ってきた風邪薬。ラジオからは知らないモダン・ジャズが流れてきて、わたしはどんどん自分がどこにいるか分からなくなってきます。
もうこれは旅ではない。
ニューヨークに来てから、何故か繰り返しそう思っています。もはやこれは単なる仕事のための移動でしかなく、旅とは違う。その事実が、わたしはやっぱり少し寂しいのです。
旅に出たい、旅に出たい、旅に出たい、と、何故か、日本から遠く離れたこの場所で繰り返し焦がれています。
「旅というものは、時間の中に純粋に身を委ねることだ」、という福永武彦の言葉が好きです。わたしは、旅がしたい。自分の意思でどこか純粋に、旅に身を置きたい。
そして、いつかきっとそれが出来る、と思っています。
……今日は少し支離滅裂。それでもまあ、こんなのも、たまには。
異国の空気は、こんなふうにわたしを揺さぶるのです。
また書きます。
2005.05.14
なにか、美しい場所
「あたしの家出は、ただあるところから逃げ出すのでなく、あるところへ逃げこむのにするわ、と決めました。どこか大きな場所、気持ちのよい場所、屋内、その上できれば美しい場所」
――昔読んだ物語には、家出する女の子が出てきました。バイオリンのケースに着替えを詰めて彼女が向かった先は、美術館。そう、その美しい場所の入り口の脇、噴水の縁に腰掛けてこれを書いています。空は相変わらず青くて、さっきから、自転車に乗った小さい男の子が、画用紙で折った鶴を(彼は、「鳥」と言っていましたが…)振り回しながらぐるぐると遊んでいます。
迷路みたいな建物から、すっかり疲れて出てきたところです。随分控えめに言っても、宝の山、という感じ。それでも、展示のほんの十分の一程度しか見ていないと思います。フェルメールの前でぼんやり座っていたらいつの間にか30分。ピカソもゴッホも横目で見つつ(もったいない!)、モディリアーニに目を奪われ、クレーに溜息をつき。シャガールの「婚約者」という絵を見たときには、息を呑みました。静かな小さな絵で、目を伏せる女性の横顔が淡くでも確かに描かれている。絵から立ち上る空気に思わず心奪われるような、透明な湖に広がる波紋を眺めているような。揺さぶられるのだけれどどこまでも静かで、澄んでいて……。ああ、今もまだ、あの絵が気持ちの中にある感じです。こんなの、久しぶり。大袈裟だけれど、でも、本当に。
ふらふらと絵から離れて歩いていたら、ぐっすり眠れそうなビロードの天蓋つきの大きなベッドがあったので、家出するならここで寝よう、と決心しました。家出するなら、わたしもここに来ようと思うので、是非ここまで探しにきてくださいね。
さて、時差ぼけでひどく眠いですが、そろそろまた歩き出すことにしましょう。空はまだまだ青いのだし、今日一日は、自由時間です。
それでは、また。
Marc Chagall "The Betrothed"http://www.metmuseum.org/toah/hd/scpa/ho_2002.456.8.htm
2005.05.13
氷河の名残
今日もいいお天気。
昨日からびっくりするくらいいいお天気で、ひょっとするとこれは日ごろの行いがいいのかしら、とひとりごちています。
こうしてスーツを着て歩いていると、ほとんど海外にいるという気がしません。打ち合わせをして、プレゼンをして、お客様と食事をして……。まあ、相変わらずの日常です。ビジネスの世界、って、どこでも同じなのかもしれない。いや、ビジネスの世界だけではないですよね、きっと。
今日こちらのシステム会社の方とミーティングをしたのですが、使っている言葉が英語になったというだけであとは同じだな、と思いました。
そんなこと、あたりまえのことなのかもしれない。でも、それって、希望に満ちたことのように思えます。ここにくる前まではなんとなく分からない、とか、難しそうだ、とか、そういう漠然とした不安みたいなものがありました。ただ、それを取り払ってきちんと向かい合ってみれば、分かり合えないことって本当は少ないのかもしれない。それは、ビジネスではない、人と人との関わりにおいても同じなのでしょうね。
こちらにきてから、すっかり食べ過ぎで困っています。一皿の量が多いし、満腹になっても手伝ってくれる人がいつもみたいに隣にいないので(!)、自分で残さず食べざるを得ない(あたりまえですね)。朝食はベーグルを食べました。ゴマ入りのやつ。それと、フルーツを山ほど。昨日の夜は、なんと、ここまできてお寿司を食べにいきました。日本食はヘルシーだからと人気があるのですって。今流行っているある日本食レストランなんて、250席のフロアが連日満員で、予約が何ヶ月先までもいっぱいだとか。スタンドカラーのシャツに袴風のユニフォーム、”SASHIMI”や"AKADASHI"……。
コンビニのかわりに24時間営業のドラッグストアがあちこちにあって、飲み物やお菓子なんかはそこでいつでも買えます。花屋さんが東京より多い気がします。花水木、西洋ユリ、ガーベラ、ダリア(そうそう、イチョウの若葉はこちらでもきれいですよ)。英語じゃない言葉が聞こえてくるのもしばしばで、まあ、暮らしていけそうな感じです。
セントラル・パークを歩いてみたら、大きな石がごろん、と置いてありました。置いてある、というより落ちてきた、といった趣で。優に恐竜の足くらいの大きさ(みたことないけど、たぶん)。こんな重いものどこから運んできたのかしら、と思っていたら、なんとこれ、氷河期の名残なんですって。氷河期に氷河といっしょに動いてきて、氷だけ溶けて石だけここに残ったものとか。ちょっと押したり引いたりしてみましたが、ビクともしません。触るとひんやりしていて気持ちよかったので、思わず両手で抱えてみたりして。
さて、そろそろ仕事に戻らなければ。
また書きます。
2005.05.12
from NY
お元気ですか。
今は日本は何時なんだろう、と思いながら書いています。ただいま、こちらは夕方の5時。雲ひとつない、薄いブルーの空がきれいです。水彩画の青ではなく、陶器の青でもない。ましてや藍の青でもなく、そう、強いて言えばいつかどこかで見た油絵に、こんな青が使われていたような気がします。どこかで白色が混ざった青。海ではなく、どちらかといえば湖の青。
戸惑う暇もなく、何時の間にかここまできてしまいました。あれよあれよという間にすべてが決まって、チェスの駒のようにぽんとここに置かれたような感じです。聞こえてくる英語も、聳え立つ高層ビルも、道行く黄色いタクシーも、日常の連続としてここにある感じで……つまりわたしはいつもと変わらずぼんやりと歩いています。
それでも、海外にくると、いろいろな瞬間瞬間で意識的にならざるを得ないのは確かで、たとえば街中で誰かに話し掛けるのにも、ささやかな決意がいります。母語ではない言葉を使って生きていくということはそういうことかもしれません。意識的に、心を言葉に翻訳していく。意識的に、周りの声に耳を澄ます。そういう意味では少し疲れますが、その代わり、だんだんと自分の輪郭がはっきりしていくのを感じます。自覚的であるということ――。
そろそろ少し外を歩いてきます。まだまだ外は明るい感じ。木々は青く、風が吹いていて、風薫る五月だ、と心の中で思いつつ。
また書きます。
2005.01.02
天城山の
天城山の滑沢を源にする狩野川は、一帯のブナや樫、杉の巨木の森に守られて生まれる。森は雨を守り川を育て、川は海へ注いでいく。その狩野川の支流、桂川に沿って開けた修善寺温泉は、弘法大師が河原で病気の父親の身体を洗う少年の姿に心打たれ、川の水では冷たかろうと手にしていた杵を川中の岩に打ちつけ、そこから湧き出た霊湯がはじまりといわれる。今から、1200年ほど前のことだという。名の由来になった修禅寺は岡本綺堂の「修禅寺物語」にも描かれ、非業の死を遂げた将軍源頼家の悲劇の舞台でもある。寺前の街だからだろうか。どこかしっとりと落ち着いた、古い温泉街だ。
*
実家を出たのが少し遅くなったので、修善寺に到着するころにはもうすっかり日が落ちていた。泊まったのは、温泉街の奥、しんとした竹庭が美しい宿。空気は澄んで、星がぴしりぴしりと夜空に凍りつく。
部屋に案内されてすぐに、浴衣に着替えて温泉に入った。こわばっていた身体がゆるゆると溶け出すようで、洗い場に響く子どもたちの声がやわらかく愛しく耳におちる。子どもを湯に遊ばせる母の姿を見て、昔のことを思い出した。まだ小学校にもあがる前、父親に連れて行ってもらった銀山温泉。熱い熱いといいながらつかった湯船は、プールほどの大きさに見えた。あれも確か、雪の冬だった。
*
夜中、胸苦しくて目が覚める。何度も寝返りをうつが眠れない。穏やかな寝息を邪魔する気にもなれなくて、丹前の上から茶羽織を肩にかけた。そっと戸を引いて、外に出る。玉砂利の道を抜け、露天の前の濡れ縁に腰掛けた。足袋の上からひんやりと、夜風が足にまとわりつく。それでも、ゆっくりと冷たい空気を吸うと、少しずつ胸のつかえがおりていくようで、しばらくそこでじっとしていた。
岩陰に湧き出る湯からは、ほとほとと湯気がたっていた。薄白い煙が縁を漂い、立ちのぼり夜にすいこまれ消えていく。それが手招きしているようだから、ほんのすこしだけ、と言い訳をして、浴衣を脱ぎ身体を湯に滑らせた。膝を抱えると、水を舞ってきた紅葉が胸元で身を休ませていった。見上げると、星空。わたしは思わず言葉を無くし、ただ、懐かしい、とだけ思った。遠いどこかで、見上げたことのある星空。大気はさえざえと清みわたり、届くひかりのひとつひとつが、ゆらりと浮かんでは湯に溶けていく。
2004.11.07
ただいま(東京、自宅)
「ただいま」 という前に、 「おかえり」 という声が聞こえた。
アパートの、自分の部屋のドアを開けると、見慣れた風景。
家だ、と思う。帰ってきたんだ、と。
ほんの少し旅行してきただけなのに、こんなにほっとしている自分が少し、おかしかった。
*
散歩に出たら、茜色の雲がきれいだった。近くのお寺の境内のイチョウの木はあたたかく、柔らかいにおいがした。
*
夕方、メールが届く。せつない。
愛は、奪うものでも奪われるものでもなく、与えるものでも与えられるものでもなく、ただ、そこに生まれてくるもののような気がする。
*
明け方の空に金星と木星を眺めた。寄り添う二つの星を、月が見守るように光っていた。
2004.11.06
四日目(湯河原の朝)
目が覚めてすぐに、浴場へ行った。朝が、静かにやってくるところだった。闇に沈んでいた木々が少しずつ輪郭を取り戻し、際立ってくる。高台のここには、いつも風が吹いている。山はふるふると盛りあがり、墨絵のようにかすんでいた。浴衣だけ羽織って、揺り椅子に腰掛ける。御簾が、はらりと揺れた。
静かに呼吸をする。できるだけ静かに。するといつのまにか、こころも空気にとけていくようで、からだの輪郭が曖昧になる。風の音が、すうっとからだを抜けていった。目を閉じると、一滴、まぶたの裏に波紋がひろがる。
ここ数日の安寧はどうしたことだろう、と思う。余計なことに、力をつかう必要がなくなった。言葉は少しずつ音になり、ほとんど読まず、たくさん眠って、つまさきから静かに時が満ちていく。
2004.11.05
三日目(湯河原、いつもの宿)
東京へ向かう新幹線の中、どこかずっとあたたかかった。時々窓の外を眺め、座席に深く身を沈め、ぐっすり眠った。満ち足りた、あたたかな眠りだった。大丈夫だ、と思った。安心していい。大丈夫だ、と心地よい揺れに身をまかせながら繰り返し思った。
*
品川で一旦降り、仕事を少しだけすませて、今度は湯河原へ向かった。
山の上の小さな旅館は、夏に来たときと同じように静かにわたしを迎えてくれた。白檀の香りの廊下。穏やかな顔の小さな石仏。古いけれど、隅々まで清潔な部屋。活けられた吾亦紅。そのどれもが派手なところはひとつもなくしっかりと落ち着いて、さりげなくやさしかった。
重たいリュックを畳に降ろして、身につけていたものをひとつずつ脱ぐ。もうなにもしないで、ただ、ゆっくりしよう、と思った。
浴衣に着替え、温泉へ。露天風呂に身を沈めると、日が、静かに暮れていくところだった。鴉の鳴き声が聴こえる。傍らの椿の木が、ぎゅっと丸いつぼみをつけていた。縁に両肘をついて見渡せば、湯河原の町が静かに夜を迎えるところだった。穏やかな陽が山に落ち、夜は透けるように沈んでいく。
白神山地の、ブナの森のことを思った。風が吹くたびに、山は冬へ近づいていく。男鹿半島の、夕陽のことを思った。今日も誰かが、あそこで夕陽を眺めているだろうか。
ひざを抱え、自分の輪郭を確かめる。日焼けもさめ、随分と白くなった肌。ゆらゆらとあたたかな湯に身をまかせ、近くと、遠くのことを考えた。
2004.11.03
晩秋の旅(青森、白神山地)
「ここの滝でね、毎年一回、お祭りをするんですよ。そしてその時、次の一年を占うんです。これが、あたるんだな………今年はね、風に気をつけろ、とでたんですよ。そうしたらこの台風だったでしょう。」
運転手さんは、小さな滝の前で車を停め、そう言った。指差されたほうへ身を乗り出してみると、細い滝がさらさら流れ落ちていた。
そのとき、どう、と風が吹いた。雨がぱらぱらと落ち、それにあわせて、黄色の木の葉が枝から離れ、滝と一緒にはらはらと散っていった。葉の鮮やかな黄色が一瞬、目に焼きついた。後ろの山は深緑に沈み、しんと立っていた。
気をつけてね、雨だからね、あんまり無理しないように、という言葉に見送られて、暗門の滝を目指して歩いた。振ったりやんだりする雨にあわせて、ジャケットのフードをかぶったり脱いだりした。渓流に沿って歩く。雨で水かさが増え、ごうごうと流れていた。岩から雨水が噴き出し、小さな滝になって落ちていく。見上げれば橙色に色づいた山。どんな絹織物より美しい山肌を背に歩く。本当に錦だ。錦秋、という言葉の意味を初めて本当に、知った気がした。
滝を見た帰り道は、ブナの森を歩いた。足元に降りつもる葉を踏みしめながら歩いた。日暮れが近づき、時雨れる林は一刻ごとに静けさを増していった。ただ、静かなのに、どこか、山の息吹と一緒に歩いている気がした。いつのまにか、ふく風も、雨のにおいも、ふりしきる落ち葉も、川の流れも、足音も、鼓動もどこか一緒になって、山にひびいては、土に沁みこみ、きえていった。
2004.11.02
手のひらの蜜柑
わたしは抱えていたリュックサックと一緒に飛び起きて、「あ、ああ、すみません」と言った。眼の前には、大きな籠を背負ったおばさんが立っている。どこか懐かしい割烹着を着て、頭には手ぬぐいを巻いていた。顔は日に焼けて、深い、でも気持ちのいいしわが刻まれていた。
「終点だよ。まあ、よく寝てたなあ。」とおばさんはにっこり笑って、学生さん?女の子が一人で旅行してるの?と言った後、わたしの手のひらにみかんをひとつ、のせてくれた。あげるからね、食べなさい、と言いながら。
大学の2年の頃だ。初めての、本当の意味での一人旅だった。リュックサックを背負って、スニーカーを履いて、始発電車に乗って出かけた春。確か、あれは旅の何日めかだったと思う。すこし疲れて、空いた電車の座席に座って、ぐっすりと眠ってしまった。終点についても目を覚まさないわたしに気づき、おばさんが肩をたたいて起こしてくれたのだった。もらったみかんは、あたたかい橙色をしていた。しばらく嬉しくて、寝ぼけ眼でぼんやりと、駅に立っていたのを覚えている。
今はもう、あのときのような、各駅停車でののんびりとした旅はすっかり遠くなってしまった。旅はいつしか憧れになり、せわしない日常を生きている。それでも、旅に出よう。そう思ったとき一番に、あのみかんの色を思い出した。
明日から、ほんの少し、旅にでようと思っている。白神山地へ。あのときみたいに、リュックを背負って。
足が軽い。どこまでも、歩いていけそうな気がする。
2004.10.15
おわりとはじまり
夜が明けようとしていた。
薄紅色に染まった朝が、彼方からたちのぼってくる。ほのかな紅はだんだんと青に溶け、雲のない空に続いていった。きれいだった。遠くから、車の走る音が聞こえる。道路を、ぽつりぽつりと人が歩いていた。あなたの国のこの夜明けが、わたしはとても好きです、と、道を歩く人に思った。たくさんの生活がある町並みが、朝陽に照らされている。
わたしは、いろいろな人の朝を思った。たとえば、ご飯と味噌汁の匂いがする朝や、子どもたちのにぎやかな声で満ちている朝を。慌しいシャワーで始まる朝、もしかしたら、夜勤の後の安堵の眠りに始まる朝もあるかもしれない。ふと、いろいろな記憶が頭をよぎり、大切な人たちのそれぞれの朝が、とても愛しいものに思えた。
*
「おはようございます」
早朝だというのに、劉さんがホテルまでやってきてくれた。チェックアウトをし、荷物の確認をして、タクシーに積み込んでくれる。わたしはなんだか名残惜しくて、劉さんを朝食に誘った。しばしのお別れの前の、最後のおしゃべりをする。
「また、すぐくるでしょう?」と彼女が言った。うん、すぐ来ます、と、言うわたしに、「そうしたら今度は、わたしにも日本語を教えてね」と劉さんが笑う。
*
飛行機の中で、眼を閉じてしばらくうとうとした。雲の上の空は、きらきらと窓にひかっていた。
2004.10.13
苹果(リンゴ)
道を歩いていると、カゴに盛られた林檎が売っていた。食べたいな、と思ったけれど、細かいお金がなかったので我慢した。紅玉みたいな、ちいさくて赤い林檎だった。手のひらに馴染みそうな大きさ。きっと甘くてすっぱいに違いない。
なんていう名前の林檎だろう、後で劉さんに聞いてみよう、と思って、わたしは屋台の前を離れた。
ある土地で暮らしていく、というのはこういうことだ。例えば林檎の名前を覚え、毎朝それを買う屋台ができるということ。天気がいいお昼休みにそれを食べる公園を見つけるということ。そういう小さな積み重ねが、「生活」になる。
言葉を覚えることもそれとよく似ている。身の回りを指し示す言葉を覚え、それを使って、少しずつ会話を積み重ねていく。自分と世界との関わりの中で。
*
日本語を教える、ということをするのは何年かぶりだ。わたしは些か緊張して、指導案を作り、教材を用意し、人数分の教科書を抱えて用意された教室に入った。しかし、不安は5分もたたないうちに消え、後は夢中で授業をした。わたしはやっぱりこの場所が好きだ、と思い、何時間かがあっという間に過ぎていった。
初めは挨拶さえおぼつかなかった皆が、だんだんと言葉を手に入れていく。不安げな語尾がしっかりとかたちになり、確実な発話になって現れてくる。
教室を歩き回りながら、わたしはふと、涙ぐみそうにさえなる。誰かが言葉を選び取る瞬間に立ち会える幸せに。知らない言葉を身につけることは、知らない世界を垣間見ることに似て、少しずつだけれど確実に、自分の世界を深くしていく。
*
「桃さんって、なにか特別の教育を受けたことがあるの?」
授業を終えて会議室に戻ると、劉さんがお茶を入れてくれた。
「教育?何のですか?」
「うん。日本語の授業、あんなにきちんとやるとは思わなかったから。」
「あはは。大学ではね、わたし、日本語教育が専門だったんですよ。」
「ほんとう?だったらどうして、システムエンジニアなの?」
「どうしてでしょうねえ、ホント。」
「日本語の先生になりたいとは思わなかったんですか?」
「うーん。こうして日本語を教えるのは好きだし楽しいけれど、おそらくこれが仕事になったらやっぱり悩んだりするんでしょうね。好きだから、尚更。」
劉さんは、少し首を傾げてからにっこり笑って言った。
「でも、システムエンジニアも好きなのでしょう?」
「ええ、とても」
*
帰り道、くずしたお金で林檎を買った。林檎の山を指差し、ひとつ、と言いながら人差し指を顔の前に立てる。わたしと同じ年頃の女の子が、袋にいくつかを放り込み手渡してくれる。
着ていたフリースの裾で拭って、そのまま齧った。さくり、と、甘酸っぱい香り。苹果、苹果、と教えてもらったばかりの中国語の単語をつぶやきながら、さくさくと林檎を齧る。
2004.10.12
一日目
差し込む朝陽で目が覚めた。バスローブを羽織って起き上がり、窓辺に立ち外を眺める。マンションなのか、オフィスビルなのか、高い建物が立ち並ぶ広い景色を眺める。ビルの壁が朝の光を反射して、きらきらしていた。そうだ北京にいるのだ、とあらためて思う。
スーツに着替え外に出ると、石畳の上で、靴がコツリと音をたてた。
空は青かった。冬の初めの冷たい空気の中、楊の木が揺れる道を歩く。飲み物や雑誌を売る屋台が並んでいる。ほかほかと湯気を立てる屋台からは、なにか甘い香りがした。もの欲しそうに見ていたのかもしれない。中から声をかけられて、笑いながら首を振る。周りを見回して、それから、自分を眺めた。同じ髪の色、目の色。似た顔かたち。わたしは、きっと現地の人間に見えるのだろうな、と思って少し足どりが軽くなる。
大通りに出ると、クラクションの音が耳をついた。片側5車線の、広い道路。ひどく渋滞している車の間を縫うように自転車が走っていく。いくつか見えるバス停には人だかりがしている。歩道は広く、イチョウの木が植えられていた。乾いた風が吹く。
わたしは周りを見回しながら、ゆっくりと営業所までの道を歩いた。
「おはようございます」と言いながらドアを開けると、しばらく前まで日本に来ていた劉さんがニコニコと迎えてくれた。「桃さん、いらっしゃい」と、言いながら、会議スペースに案内してくれる。
持ってきたノートパソコンをひろげ、IPアドレスを合わせ、無線とセキュリティの設定をすると、ほんの数分でインターネットにも会社のネットワークにも入れるようになった。ほっとする反面、少し複雑な気分になる。本当にこれは、正しい姿なのだろうか、と。どんどん便利になると同時に、わたしたちは、何かを亡くしているのだろうか。
と、眉毛を寄せてそんなことを考えていたら、劉さんがコーヒーを買ってきてくれた。見慣れたパッケージ。スターバックスのカフェラテだった。「桃さん、これ好きでしたでしょう?」と差し出されたそのコーヒーがとても美味しかったので、わたしはあっけなく眉毛を元の位置に戻し、「謝々」と言った。
2004.10.11
北京の夜
初めてのパスポートは、父親と一緒のものだった。近所の写真屋さんで、父の隣に立って撮った写真が貼られた赤いパスポート。もう、20年も前のことだ。初めて知った海外は、思えばこの国だった。
成田から北京までは、三時間半程しかかからない。移動時間だけでいえば、国内出張とほとんど同じ。国際契約の携帯電話は問題なく繋がるし、ノートパソコンとネット環境さえあれば、できる仕事にまるで差はない。手続きはどんどん簡素化され、世界はどんどん狭くなる。……それでも、空港に着いたとき、いつもこれほど心が浮き立つのは何故だろうか。
飛行機は瞬く間に夜を飛び、わたしを北京に降ろしていった。入国審査をすませ、預けていた荷物を受け取る。空港の建物から外に出ると、冷たい空気が頬に触れた。東京よりも気温が低い。夜気の中で、身体の表面がちりちりした。一歩ごとに、自分の輪郭がはっきりしてくる。緩んでいた身体が、少しずつ形を取り戻し、あの時、父の手に引かれて歩いた場所を、今度は一人で歩いていく。
中国語の響きが、耳にどこか懐かしく響く。漢字の標識は目に馴染むし、わたしはどこかよく知っている近しい場所にきた気がして、車の中から外を眺めた。夜が明けたら、街を歩こう、と思う。全てはそこから始めよう、と。
2004.10.03
箱根八里
「おかあさん、『テンカノケン』ってどういう意味?」
「とても険しい道、ってことよ」
「じゃあ、『カンコクカン』は?」
「中国のね、山にあった関所の名前。」
「じゃあ、バンジョウの山って……」
眼が覚めて、布団の中で雨音を聞きながら、小さい頃の母との会話を思い出していた。「箱根の山は天下の険…」と始まる『箱根八里』の歌をいつ覚えたのかはもう思い出せないが、難しい歌詞を呪文のように歌っていたのを覚えている。母は、聞いたことに対しては、うるさがらずにいつも答えてくれた。分かったのか分からないのか、「はっこねのやっまは、てっんかっのけん…」とわたしが歌いだすと、母も一緒に歌うのだった。小さい頃の、思い出。そんなことを思い出して、わたしは突然母親のことが恋しくなり、今度は一緒に温泉にこよう、と思った。
起き上がって軒先に出ると、雨がざぶざぶと降っていた。今日行く予定だった場所を少し考え、もう今日はのんびりしよう、とそう思った。朝食の前と後にゆっくり温泉につかり、チェックアウトの時間ぎりぎりに、旅館を出た。
雨の芦ノ湖。遊覧船に乗って、対岸まで。そうだ箱根神社に寄ってみよう、と思い、石段を上がる。雨はますます激しく降り、周りには誰もいなかった。
鳥居をくぐり、賽銭を投げ、手を打った。いつもならすぐ出てくる願い事が、今日はまったく出てこなかった。わたしはただ、黙ってしばらく眼をつぶり、そのままそこを離れた。
おみくじをひいたら、大吉だった。わたしはそれを大切に胸のポケットにしまい、そして、また母のことを思い出した。
高校三年の、冬だったと思う。受験を控え、わたしは毎日イライラしていた。センター試験の勉強に、二次試験の小論文対策。毎日、早朝から机に向かいながら、ひどく焦って、ひどく、疲れて、母には随分あたりちらしていた。
そんなある日、母がわたしに、おみくじを渡してくれたのだ。姉と出かけた大きな神社でひいたら、大吉だったのだという。「あなたの大学のことをお祈りしたのよ。それでひいたら大吉だった。だから、きっと大丈夫。」といいながら、母がくれたそのおみくじを、けれどそのときわたしは素直に喜べなかった。神頼みで受験に成功するなら、だれだってお祈りするよ、と、すげなく思ったのを覚えている。おみくじは、そのとき毎日持ち歩いていた手帳に、しっかりしまったのではあったけれど。
姉から、その時、母は大吉が出るまでおみくじを引き続けたのだと聞いたのは、志望の大学に入学してから随分たってからだった。「あの時ね、お母さん、何度も何度もおみくじ、ひいてたんだよ。桃ちゃんに渡すんだ、って。大吉が出るまで」
昨日の朝、母から、電話がかかってきた。普段は、用事がないのに母から電話をかけてくることなどほとんどないのに。
「どうしたの?」 と聞くと、「なんでもない」と母は言い、少しの世間話をして、「あんまり働き過ぎないようにね」といって、電話は切れた。声が、いつもより心細く、小さく聞こえた。……そのせいだろうか。今日は、母のことばかりを思い出す。随分働いて、もう60歳もとうに超えて、いつか田舎で暮らしたい、といいながら、まだ働いている母のこと。
*
関所跡をまわったあと、湖畔のホテルのラウンジでお茶を飲んだ。あたたかいミルクティが冷たい身体に沁みていく。窓からは、湖が見えた。湖畔の木々は、はにかんだように色づき始めていた。あと半月もしないうちに、色鮮やかな紅葉が見られるだろう。
まだ見ぬ紅葉に、「秋の夕陽に、照る山紅葉……」と心の中で歌いながら、母が傍にいたら、きっと一緒に歌うだろうな、と、思った。
2004.10.02
秋の箱根
仙石原のススキ野原がきれいだというので、電車に乗って箱根へ向かった。清々しい青空を背負って、久しぶりのロマンスカーに乗る。箱根湯本で電車を乗り換え、元箱根へ。鉄道は、スイッチバックを何回かしながら、山を登る。少しずつ、空気がひんやりと、少しずつ、山の密度が濃くなっていく。駅に降りて、深呼吸すると、身体の中が少し透明になった。
*
窓を開け、外を眺め、うわあ、と、思わず声を上げたわたしに、運転手さんがにこりと笑った。金の野原。なだらかな丘がゆるゆると左右に広がり、黄金のススキがふわりふわりと風に揺れていた。野原に降り立ち、ススキの中をしばらく歩いた。足元にはアザミ。どう、と風が吹くと、ざわわ、とススキがいっせいに波立つ。見上げると、白い雲が立ち込める空の一箇所だけ青く、光が差している。風が吹く。ススキが揺れる。野原が、さあっといっせいに揺れる。
*
旅館は大正時代のものだという数寄屋造りの建物だった。入ってすぐに、ススキとワレモコウが活けられていて、嬉しくなる。吾も亦た紅なりと…。わたしはこの、慎ましやかで可愛らしい花が好きだ。
通された部屋は十分広く、小さな檜風呂までついていた。お湯は、白く濁った大湧谷の温泉だという。土間があり、籐の椅子が置いてある。戸をがらりと開けて外に出ると、鬱蒼とした庭が迎えてくれた。
浴衣に着替えて、大浴場へ。白いにごり湯に身体を沈め、手足をゆったりと伸ばした。窓の外には竹林が広がっていて、しんと静かだった。湯に身体を遊ばせていると、一日が、静かに溶け出していく。
*
夕食後、椅子を庭に出して、しばらく星を眺めていた。雲が流れる。眼が慣れるにつれ、星はその数を増し、静かにまたたいていた。星も、さやさやと音をたてるもみじの葉も、鳴いていた虫もみんな傍にいてくれたけれど、わたしはそれを感じながらも、何も考えずに、ただ、そのまま座っていた。少しずつ、すこしずつ、わたしはただのわたしになり、ただそこに座るだけで、夜はひっそりと更けていった。
2004.07.11
なつやすみ、その2
ふと眼が覚めて、外を見た。
うす青い空に、雲がふわふわと流れていた。まだ目覚めたばかりの山並みが、しんと立っている。枕もとの時計を見ると、4時半だった。
起き上がり、しばらく窓辺に立っていた。鳥の声が聞こえる。わたしは浴衣をはおって、温泉へ向かう。
ここの旅館の大浴場は見晴らしがよく、露天風呂からは湯河原の町が見おろせる。浴槽の縁に顎を乗せて、まだ半分眠っている街を眺めていた。ふと上を見ると、昨日は気づかなかった柿の木に、青い実が沢山なっているのが見えた。秋になったら色づいてきれいだろうけれど……、お風呂に入っている人の頭の上に落ちてきたりしないかしら、とちらりと思う。
散歩をしながら部屋に戻ると、渡り廊下を朝の風が吹く。御簾がはらりと揺れ、どこからか白檀の香り。隅に佇む小さな石仏は、とても穏やかな顔をしていた。
部屋の窓から外を見ると、空はその青色を濃くし、雲は輪郭をはっきり際立たせて、きっぱりと朝がきていた。
*
旅館から山を降り、近くの公園へ行った。渓流があり、滝があった。水しぶきを浴びながら、ゆっくり歩く。流れに手を浸すと、ひんやりと気持ちがよかった。首筋に手をあてながら、しばらく涼む。
わたしは空を見上げ、快晴の空を眺め、午後から雨だという天気予報のことを考え、それでもやっぱり、もう一度海に行くことに決め、歩き始めた。
昨日お世話になった海の家のお母さんに挨拶をして、「おかえり」と言われ、着替えて砂浜に横になった。日差しが肌を焼く。しばらく我慢した後で海に入ると、焼けた身体からジュッと音がした。水に潜り、泳ぎ、またしばらく浮かんで、随分と長い間海の中にいたように思う。
陽が翳ったな、と思ったとたんに、雨粒がぽつぽつ落ちてきた。わたしは海に浮かんだまま沖を眺め、雨をしばらく見ていた。空から絶え間なく落ちてくる雨粒が水面を叩き、海に吸い込まれていく。終わりがない、と思った。いつまでも雨は海に落ちていく。わたしは眼を離せずに、そのままそこでじっとしていた。
だがしばらくすると雨は止み、気まぐれな太陽が顔を出した。わたしはほっと一息ついて、岸へ向かって泳ぎ始める。
波の音を聞きながら、砂浜でしばらくうとうとした。すっかり寝足りた子どものように起き上がり、ぼんやりと海を眺める。背中が熱い。シャワーを浴びに戻るわたしに、「あら、背中、すっかり焼けたわねえ」と、チョコレート色に日焼けしたお母さんが笑う。
シャワーを浴び、着替え、海の家の畳の上でぼんやりしていると、また雨が降り出した。今度は、かなり激しく降っている。遠くから、雷鳴が聞こえる。膝を抱えて、ずっと海を見ていた。遊んでいた子どもたちも、すっかり海から上がって、あっという間に砂浜は静かになった。傘がないなあ。でも、濡れて困る格好じゃないし、と、ぼんやり考えていると、眼の端がきらりと光って、光の筋がまっすぐに海に落ちていくのが見えた。追いかけるように、落雷の音。ゾクッとした。それでも、恐ろしいくらいにきれいだった。
*
帰り道は、いつも少しだけ寂しい。できれはずっと、あそこにいたかったなあ、とかすかに思う。
それでも、わたしはすっかり満ち足りた気持ちで、家への道を歩いた。藍色の空が澄んでいて、きれいな夜だった。
まだ、耳の中に、海の音が残っていた。旅館の白檀の香りや、樹々の間を抜ける風も。
あそこにいつも海はあって、毎日あたらしい朝がきて夜が来て、あの旅館はまた違う旅人を迎え、樹々は今夜もざわめいている。わたしは今東京にいて、それを確かに知っている。……それでいいじゃないか、と思った。
その場にいられない自分を寂しく思う必要はない。さっきまで、あそこに確かにわたしはいて、今は、ここで、歩いている。そしていつでも、遠くにいる何かを思うことができる。それだけで、十分じゃないか。
夜風が肌にさらりと触れた。星が出ていた。家に帰って鏡を見ると、すっかり赤くなった背中に、水着の跡が残っていた。
2004.07.10
なつやすみ
品川駅で、文庫本を二冊買った。
水着と、少しの着替えと、おにぎりが入ったカバンにそれをしまって、電車に乗る時にはわたしはすっかり夏休みの気分になっていた。
湯河原へ。少し早めの夏休みと勝手に決めて、旅行にいくことにしたのが数日前のこと。小さな旅館を予約して、わたしはいそいそと電車に乗った。
品川の高層ビル街が遠くなり、電車が走るにつれて、自然に肩の力が抜けていくのが分かる。車窓の景色が、どんどん変わっていく。川を渡り、青々とした水田が見えるようになるとたまらなく嬉しくなり、やがて海が見えるころには落ち着いて座っていられないほどだった。
電車が駅につくとすぐに、海へ向かった。砂浜に降りると、波の音。快晴とは言い難い空だったけれど、そのせいで海も空もやさしい浅葱色をしていた。
しばらく砂浜で本を読もう、という気でいたのに、あっという間にいてもたってもいられなくなって、水着になって海へ入った。少し沖へ向かって泳ぎ、しばらく仰向けに浮かんでいた。雲の向こうから柔らかな日ざしがふりそそぎ、どこか懐かしい海の音が、近く、遠く聞こえる。わたしは眼を閉じて、ただゆらゆらと波に浮かぶ。ひんやりと水が肌に触れ、身体を少しずつ流していく。たまに眼をあけると、水面の青がゆらりゆらりと光っていた。
砂浜に戻り、うつ伏せになって本をめくった。一ページ、二ページ。だんだん身体が重くなり、波の音を聞きながら、いつの間にか、本を閉じる。
*
旅館は、丘の上にあった。
周りに木々が鬱蒼と茂っているから、「何か出てきそうですね」と冗談を言ったら、「たぬきも猿も猪も、ハクビシンもでるねえ」という返事がかえってきて思わず笑う。
部屋の数でいったら10室にも満たない小さな旅館だが、入ったとたんに、あ、いいな、と思った。古いけれど、しっかり手入れされた建物。白檀の香が焚かれていて、畳はつやつやとしていた。
荷物を置くなりすぐに浴衣に着替え、温泉へ行く。ゆうらりと身体を湯にあそばせながら、空を眺める。雲が、凄い勢いで流れていた。後で雨が降るなあ、と思いながらざぶりと出て、鏡にうつる裸の自分と向かい合う。
部屋に戻ると、ちょうど暮れていくところだった。大きな窓からは、梅の木や、つやつやした椿の葉っぱや名前の知らない木がたくさん見えて、緑が眼に鮮やかだった。ひとつとして同じ色はなく、それが集まって深い陰影をつくる。
しばらくすると、雨が降り出した。ぱたぱたと雨粒が葉を叩く姿を、ずっと飽きずに眺めていた。空は煙り、雨は光るように空から落ちてきて、樹々の上で弾け土に沁みていく。わたしはそれを眺め、眺め、雨音を聞く。
やがて雨音は遠くなり、自分の心臓の音だけが聞こえ、それもその後ひっそりと、静けさがやってきた。
*
寝る前にもう一度温泉に行くと、露天風呂から星が見えた。雨上がり。夜の中に、世界がひっそりと色づいていた。
わたしは自分の身体を眺め、近くのことを少し考えた。そしてそれから、遠くのもののことを考えた。今この瞬間に、どこかで降っているかもしれない雨や、太陽や、海で眠る鯨や、金のどんぐりなんかのことを。
ゆらり、と、星が湯舟に浮かんでいた。風が、どう、と吹いた。