2024.12.22
あらしのよるに
冬休みで帰国している姪っ子たちと一緒に歌舞伎座へ。十二月は三部構成で、二部構成の普段の月より各部の上映時間が少し短い。絵本が原作の「あらしのよるに」が一部、世話物「加賀鳶」と舞踊「鷺娘」が二部、三部は中村屋の「舞鶴雪中花」と泉鏡花の(というべきか、玉三郎の、というべきか)「天守物語」。月のはじめに「あらしのよるに」を観て、これならイギリス生まれの姪っ子たちも楽しめるだろう、と思い、なんとか切符を取ったのだった。
『あらしのよるに』は、きむらゆういちさん原作の絵本で、狼のがぶと山羊のめいの物語。食うもの・食われるものであるはずの二人が育む友情は多少いびつで、切なく、おかしい。めいのお尻を見て、「友だちだけど、美味しそう……」と思うがぶ。がぶにとってめいは、食べものだけど友だちで、友だちだけど、食べてしまえる存在なのだ。一方、めいは、心やさしい大事な友だちから時折漂う血のにおいを忌まわしく思い、そんな自分を責めたりする。本能のみに従えば、友だちになどなりえない二人が共に生きていく物語だ。
歌舞伎として上演するにあたっては、がぶ役の獅童さんのお母さまが大変にご尽力されたと聞くけれど、とても美しい新作歌舞伎。ひびのこづえさんの衣装は演者の動きに沿ってひらひらきらきら、すっきりと抽象化された動物たちの動物らしさが、舞台のうえで煌めいていた。
「ももちゃーん、よかったようー!」
幕引き後、少し離れた席に座っていた姪っ子たちが飛び跳ねるようにやってきて、口々に感想を言う。歌舞伎がこんなに面白いって思わなかった、わかりやすかった、今度はもっと難しいの(古典のことだろうきっと)も観たい、という弾んだ声をわたしも嬉しく聞きながら、銀座で買い物をするという皆を見送り、一人でまた歌舞伎座へ戻った。
2011.01.10
目覚ましもかけていないのにぱっちりと目が覚め、いそいそと支度をしてお正月の銀座へ。テアトル銀座に、玉三郎さんの阿古屋を観に行くのだ。
寒い寒い外を歩き会場に入ると、ぱっと華やいだ雰囲気。紅白の繭玉がこぼれんばかりに飾られていて、思わず頬がゆるむ。エスカレーターを上がり、客席に入ろうとしたところで、獅子舞の姿。いつもより着物姿の人たちも多く、いつのまにか心が浮き立つ。
*
平家の武将景清の愛人である傾城、阿古屋は、景清の子どもを身籠っている。景清の居場所をつきとめようとしている源氏に、捕えられ問注所に引き出されるが阿古屋は居場所を知らないという。詮議を執り行う畠山重忠は、それならば、と琴を持ち出す。心にやましいことがあれば音色が乱れるはず、真実行方を知らないのなら、琴、三味線、胡弓の三曲を完璧に弾けるはずだと……。
故に、阿古屋を演じる女形は、この三曲を弾きこさなさなければいけない。しかも、気位高く、一点の曇りもなく、切々と。今現在、この役を演じられるのは、玉三郎丈の他にはいないとか。
そして花道から登場した阿古屋の姿を見た瞬間に、わたしはその、この人以外に阿古屋は演じられないのだという、そのことが腑に落ちた気がした。豪華な衣装を身にまとい、子を身籠り、だから足取りはかすかに気だるく、その分透き通るように美しい。まるで内から輝くようだけれど、それは太陽のぎらぎらした明るさではなく、しんと光る月のよう。気高くて強くて美しい。ああ、これが阿古屋だ、とわたしは思う。阿古屋そのものだ、と。出てきただけで空気が色づき、会場は感嘆の溜息で満たされ、まるごと、なにかうっとりと魔法にかけられたようだった。
三曲の最後、胡弓の演奏を聴きながら少しだけ泣く。
*
そもそも、この公演はもともと予定されていたものではなかった。急に舞台に立てなくなった海老蔵さんの代わりに、急遽、玉三郎さんが引き受けたものだという。しかし、その、言わばピンチヒッターで受けた公演の演目にこの「阿古屋」を選び、それだけでなく初役の「女伊達」を演り、そしてこのしつらえである。一体どういう才能が、こんなことをやり遂げるのか。いや、才能ではないのかもしれない。血でもないのかもしれない。ただ舞台とそれを見る人のことを考え、ずっと歩いてきた人だから、こういうことができるのかもしれない。
「女伊達」の最中、わたしは手を叩きながら、歌舞伎ってこんなに楽しいものだったっけ、と思った。沢山笑って、沢山拍手をして、劇場には着飾ってにこにこしている人たちがいて、楽しくて、年の初めからこんなお芝居が観られるなんて、今年はいい年になるかもしれない……。
幸せだった。
2010.11.19
中国の代理店から、少し大きな案件なので客先に同行してほしいという打診があった。いつですか?と聞くと、来週だという。あわてて飛行機を押さえて、ホテルの予約を依頼する。
携帯で連絡を取りつつ、夕方、すみだトリフォニーホールへ向かう。セルゲイ・シェプキンのコンサートへ。「熱情」と、「展覧会の絵」。去年、彼の平均律を聴いてすっかり夢中になったのだ。発売されるのと同時にチケットを買い、ずっと楽しみにしていた。
セルゲイ・シェプキンのピアノは、坦々と歌う。テクニックを見せつけるのではなく、声高に歌うのではなく、まるで誰かと会話しながら音楽をつくっているような、そういう音で鳴る。ストイックで、でも自由で、芸術家というより技師のよう。それが本当に素晴らしい。希有なピアニストだと思う。
「熱情」も素晴らしかった。技巧に寄るのではなく勢いに引きずられるのではなく、隅々まで繊細な織物のよう。けれど、「展覧会の絵」は、さらによかった。しみじみととても美しく、身体に直接響いてくるようなそんな演奏だった。これは物語だ、と思う。彼は、物語を紡いでいる。アンコールのブラームス、その後の、ゴルトべルク変奏曲のアリア。神さまにしかできない種類の音楽があって、たぶん、最後のアリアはそれだった。
素晴らしかった。
2009.06.12
真珠のような
昨夜、仕事をとりあえず棚上げにして、バッハ。マルティン・シュタットフェルトの平均律クラヴィーア曲集、すみだトリフォニーホール。
もう何度も書いているので恐縮しながらでもまた書くのだけれど、バッハの鍵盤作品といえばやっぱりわたしにとってはグールドだった。初めて聴いたのも、ずっと聴き続けているのも。だから、昨日も、コンサートが始まる寸前まで、わたしの頭の中で鳴っていたのはグールドの平均律だったのだ。
なのに、始まったとたん、わたしは馬鹿みたいにぽかんとして、なにか感じる暇もなくきらきらとした音に飲みこまれていた。グールドとは全然違う……モノクロームではなく色鮮やかなピアノ。ひとまとまりの潮流のなか一音一音がくっきり際立って、鮮やかな光と沈むような影がいくつも積み重なり、言うに言われぬ奥行きになる。歌い過ぎない音、なのにボリュームがたっぷりあって、瑞々しい。まあ、とにかくすごい。ポリフォニックってこういうことか、と、思う。
とにかく音の質感が素晴らしくて、まるで、とびきり上等な真珠の粒をきらきらとばらまいているような演奏だった。手に取れそうな……手のひらにすくいとってみたくなるような、大粒でしっとりと輝く音。まあ、こんなふうに言葉を並べてみてもどこか物足りない気がするのは、本当に、好きになってしまったという証拠なのだけれど。
陳腐な言い方をするなら、燦然と輝くグールドがいて、それでも尚他の演奏を聴く意味があるのか、なんて思っていたのだ、実は。でも、本当に素晴らしくて、またいつか彼のバッハが聴きたい、と思った。
芸術家と同じ時代に生きることの意味って、こういうことなのだろう。今ここに、同じ時間を生きているということ。彼はずっとあんなふうに音を鳴らせるのだろうか、枯れたあとに瑞々しく立ちのぼる何かがあるのだろうか、どちらにしろ聴きたい、聴けるのが嬉しい、と、思うこと。
それにしても、アンコールのプロコフィエフ(なんとトッカータだった)、なんなんだあれは。その後のシチリアーノ、素晴らしく引き込まれる。平均律の後にアンコールなんて、と、思ったけれど、それでも。
いい夜だった。
マルティン・シュタットフェルト
J.Sバッハ 平均律クラヴィーア曲集 第一巻
2009年6月11日
すみだトリフォニーホール
2009.05.31
小説にあたったのか、どうか。目が覚めてみると喉の奥と節々が痛い。昨日の夜、厄災の前触れのように喉がちりちりしたのだが、こうなるともう、早々に諦めてなるべくおとなしく寝ているしかない。わたしの扁桃腺はすぐに脹れる代わりに高熱は出ない。いつもお医者さまに行くたび、おかしいな、こんなに脹れているんだからもっと熱が出てもいいはずだけれど、と言われるくらいだ。
朝一度起きて着替えたのだけれど、喉が重く、声を出すのも何か食べるのも億劫なのでまたベッドに逆戻り。うつらうつらと夢ばかり見る。昨日読んだ小説の夢、友だちとどこかで絵を見た夢、やけにリアルな、ロンドンに行く夢(ビッグ・ベンに向かって歩いていた)。そして、ちょっとびっくりすることがおきた(もちろん夢の中で)とたんに目が覚めて、それきり眠れなくなってしまった。
眠れないので、ジュリエット・ビノシュの『ショコラ』を視る。少し前、六本木でドローイング展を見て以来、一番気になっている女優なのだ。この映画、見終わってストーリーだけを考えてみるとご都合主義のファンタジーと言えなくもないのだけれど、色鮮やかで芳しくて、……甘くて、風邪ひきの夜に見るには悪くない。やっぱりビノシュ、いいな。確かで、美しくて。存在自体がものがたりみたい。もしくは、交響曲かも。
2009.05.08
家族と世界のものがたり
いくら連休だったとはいえすっかり遊んでしまった、もう明日から心を入れ替える、きちんと仕事をしよう……、なんて昨日思ったのに、夜、『レイチェルの結婚』を観にいく。お姫さま役ではない(それどころか口汚く怒鳴りまくる)アン・ハサウェイもいいけれど、父親役のビル・アーウィンが最高。微妙な表情がとてもよくて、時折する泣き笑いの顔など、そうそう、人生ってそうだ(つまり、泣き笑いみたいな顔をしてやり過ごすしかないことがたくさんある)よね、と思わずしみじみしてしまうくらいだ。
それにしても、あるひとつの家族を描くということは、世界を見せるということなのだなと思う。赤の他人同士が身を寄せ合って生きていくということ、そこに血のつながりが生まれ、でもそれぞれ違う人間で、誤解があり許しがあり代謝があり諦念があり劣化があり前進があり……それが、全てのドラマの始まりなのだ。
2009.05.07
メイプルソープとコレクター
仕事を早めに終え、メイプルソープの映画を見に行く。渋谷の小さい映画館、一番後ろの席。メイプルソープ、というと、皆何を思い浮かべるのだろう。花の写真、ポルノグラフィック?、まるで彫刻、クールな、芸術か猥褻か、とか。わたしが一番に思い出すのは、パティ・スミスのポートレイト。見るたびいつも、この写真は長編小説みたい、と思う。
その、パティ・スミスがスクリーンで語っている。パティだけではなく、当時を知る様々な人が。
メイプルソープの、というより、彼を表舞台に連れ出したキュレーター、サム・ワグスタッフへの映画だけれど、なかなか面白い。……わたしはたぶん、誰かの話を聞くのが好きなのだ。誰かが、愛すべき誰かのことを、語っているのを聞くのが。
特別な目を持っている人たち、というのがこの世にはいて、彼らは美しいものを見分け、見出し、光をあてていく。その人たちが、相対的な基準ではなく絶対的な何かで、隠されている美しさをぴたりぴたりと探し当てていくさまを見ていると、まるで魔法だと思う。たぶん、才能って多かれ少なかれ悪魔的だ。そして、悪魔を隠し持っている人同士が引き合うのはもう仕方のないことで、それは愛とか恋とかとは違うかもしれないけれど本能的で、きっと抗えない。たぶん、ワグスタッフとメイプルソープも、そうだったのだろうと思う。
メイプルソープの名前は歴史に残るけれど、彼を見出したワグスタッフは過去の人になり、忘れ去られていく。たぶんこの映画は、そのことへの抵抗なのだろう。でも、メイプルソープが撮ったサムの写真は本当に素晴らしくて、そして、あの写真が永遠に残るなら、それが全てなのではないか、と思った。
*
映画館から出て、コーヒーを飲んでいると同僚から電話。お取引先と飲んでいるから、と言われ呼ばれる。「アスターじゃなくてアスタリスク………、いや、何だっけ、牡蠣って」「……オイスター」「あ、そうそう、そのオイスターバーの先の店」というめちゃくちゃな道案内でたどり着いた焼き鳥屋で、最初から最後までビール。家で待っている人もいないんだからもう一軒行こう、とのたまう同僚を置き去りにして電車に乗る。この時間にしてはやけに空いている。まだ、連休中の人もいるのかもしれない。
2009.05.05
ひかりのあるところへ(ラ・フォル・ジュルネのマタイ受難曲)
チケットを取ったときは、それでも少し不安だった。バッハの、マタイ受難曲は通して聴くとたっぷり三時間の大作だし、CDは持っているものの途切れ途切れに再生するだけで通したことは一度もない。高校がカソリックだったから聖書は読んだけれど、福音書の、キリストの受難を信じているわけでもない。だから開演前、友だちに何度も、わたし大丈夫かな、と言った。
なのに、最初の合唱が始まったとたん、すっかり――本当にすっかり、夢中になってしまった。荘厳、という印象は意外にも薄く、行きつかなけばいかないところまで、そっと、でも淀みなくたゆまず歩を進めていく感じ。ひとつひとつ完璧なのに、でもしみじみとやさしい和音、突き動かされるように動く響きと情景、生きている鼓動に抱かれているようで、どきどきして、苦しくて、なのにこの上なく心安く、包み守られている気がした。
ペテロが、予言通り「キリストなど知らない」と答え涙する場面で泣き、その後のアリアで祈り、まるでどこかから光が差してくるようなオルガンと、リュートの音に心奪われ、合唱に溺れ、気づいたら夢中で拍手していた。なにか長い夢を生きているような時間、どこか違う場所へ行っていたような、からだの中に何かが入ってしまったような、不思議な気持ち。
ホールを出た後も、雨で濡れて光る路面さえ何か自分と共鳴しているようで、見るものすべてが美しく、湿った冷たい空気さえ甘くて、雲の上を歩くような気持ちで家まで帰った。ずっと、わたしの奥の方であの和音が響いていて、何をしていてもそれがいつまでも消えない。だから、その音を聴きながら、うたうように眠る。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン「熱狂の日」音楽祭 2009 「バッハとヨーロッパ」
5月5日(火)
J.S.バッハ マタイ受難曲 BMV244
ミシェル・コルボ(指揮)
ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル
シャルロット・ミュラー=ペリエ(ソプラノ)
ヴァレリー・ボナール(アルト)
ダニエル・ヨハンセン(テノール)
ファブリス・エヨーズ(バリトン)
クリスティアン・イムラー(バリトン)
2008.10.06
ゆれる
iPodの中に映画を沢山入れてもらったので、寝る前に少しずつ見ている。テレビがないし雑誌もほとんど読まないので、わたしはびっくりするくらい芸能人の名前を知らない。だから、加瀬亮もオダギリジョーもここ数日でやっと名前と顔が一致した。
ところでそのオダギリジョー主演の「ゆれる」という映画を見たのだが、これがよかった。ほんの少し、のつもりが結局最後まで見てしまった。オダギリジョーが写真家役でライカとハッセル(たぶんライカはM3だと思う)を使っているのがなかなか素敵。それにしても、ライカもハッセルも本当に格好よくて、見慣れているもののはずなのに、ああして画面に映ると改めてはっとしてしまう。
と、まあここまではごく個人的な嗜好の問題なのだけれど、映画としてもとても面白い。地元で家業を継ぐ兄と写真家として東京で成功する(しているようにみえる)弟、兄が好意を持ち、弟に憧れる地元の幼馴染、ふるさとの町と東京、留まるものと出て行くもの、狭間でゆれる心のものがたり。 ちょっと深くて、見終わった後もしばらく眠れなかった。
2008.05.30
グールドのゴールドベルクを聴きながら朝を過ごす。
昔、ピアノを習っていた頃、歌え歌えとよく言われたものだけれど、グールドのピアノは決して歌わないのだな、と思う(いや、本人はうたっているけれど)。あの、音から色を削ぎ落とすスタイル、モノクロの音だけをつきつめて音楽の輪郭を際立たせるやり方、いつ聴いても、どこで聴いても、そこがまるで違う場所になってしまう。
2005.02.06
歌舞伎
はらりはらりと静かに落ちる一枚の桜の花びらに、どうして心が動くのだろうか。
役者のいない舞台の上に、薄桃色の花びらがはらりと落ちた。かすかに、でも確かに気持ちがふるりと揺れる。そして思わず、わたしは涙ぐみさえするのだ。ただの、一枚の花びらに。
久しぶりの歌舞伎座へ。指先は春まだ遠く冷たいけれど、舞台の上には桜が咲いていた。明暦の初年、三月半ばの午後。岡本綺堂の「番町皿屋敷」は美しい。あの怪談のイメージからは遠く、せつない恋。命がけで男の心を試そうとするお菊の揺れる心と、一生の恋を疑われた男の無念。若々しく一本気な青山播磨と一途なお菊。梅玉さんと時蔵さんの心打つ芝居に拍手を。
吉衛門丈の義経腰越状、初役らしいがさすがの芸で、楽しい。この人は本当に所作が美しいと思う。悪役、錦戸兄弟にのせられて酩酊状態になる五斗兵衛。わたしも一緒に酔っぱらい、大きく笑って手を叩く。
*
体調がまだいまひとつ。後ろ髪をひかれながら劇場を途中で出た。家に着きすぐベッドに横になったが、重い身体が、どこか、なぜか浮き立つようで。
瞼の裏には、桜がひとひら。
歌舞伎座(http://www.kabuki-za.co.jp/)
青空文庫 岡本綺堂作 「番町皿屋敷」(http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1309.html)
2004.12.20
うたごえ
一番古い耳の記憶は、やはり、うたごえだったように思う。
だれかの、たぶん母親のうたごえ。遠いところからかすかに聞こえてくるやわらかな音。ゆらゆらと、それは確かに甘いにおいがした。
あったかい音楽を聴きに行こう、と久しぶりの友人からメールが来たのは数日前のこと。行く行く、と答えておいて、あわてて仕事を調整した。ちいさなカフェのライブスペース。こんなに近しくて親しい感じのステージは久しぶりで嬉しい。
おないどしだ、とか、小さくて可愛いらしいよ、とか、そういう情報をちらりと耳に挟んだりしていたし、友人からおくってもらった彼女の曲を聴いたりはしていた。それでも、裸足で彼女がうたいだしたとたん、そんなことは全部忘れて、わたしはただただ懐かしい、と思っていた。古い記憶。どこかで知っている声。根源的な懐かしさ。歌詞がそのまますうっと身体にはいってきて、わたしは心地よく混乱する。いつかどこかで重なる言葉や記憶が、ふわふわとかたちにならずに浮かんでは消えていった。
うたはただそこにあるのではなく、うまれてくるのだ、というシンプルな事実。うたう彼女を見ていると、それが素直に信じられた。こころあたたかい唄い手と同じ時間を生きていること。それを幸せに思いながら、やさしい夜が更けていく。
NUU http://www.mauvenet.com/nuu/
mona records http://www.mona-records.com/
2004.07.30
歌舞伎
平成中村座のニューヨーク公演が大成功のうちに幕だったという。ニューヨークタイムズでも「心動かされる作品」と絶賛されたとか。わたしは純粋にとても嬉しくそのニュースを聞いた。
歌舞伎が好きだ、とはじめて思ったのは高校生の終わり頃だったと思う。当時、同級生だった歌舞伎役者の友人の影響でちらほらと歌舞伎を見始め、休みの度に歌舞伎座へ足を運んだ。正直、見始めた頃は、セリフも分からずすぐ眠くなり、面白いとは思えなかった。大人に連れて行かれた歌舞伎座で、あくびをかみ殺しながらじっと席に座っている、そんなことが常だった。
ところがある日、ふとしたきっかけで知り合った人から「歌舞伎は"よく知っている""同じものを""何度も観る"のが楽しいんだよ」と言われ、歌舞伎座に足を運ぶ前に、その演目を調べてから行ったのだ。その物語の背景や、着物の意味や、台詞。少しでも、「知って」から観た歌舞伎は、今までのつまらなかったお芝居とは全く違う、面白いものだった。
そして、自分で何度も幕見席に足を運ぶようになってから、初めて歌舞伎が好きになれたのだと思う。だから、わたしにとっての歌舞伎は、数百円で楽しめるとても身近な娯楽だ。
歌舞伎には、「型」がある。坂東玉三郎は、養父である守田勘弥に、よくこう言われたという。
「型破りってえのは型を持っている人間の言うことなんだ。形も何もないヤツラがやれば、いいかい、それは形なしって言うんだよ。」
型がぴたりと決まったときの美しさを、時々、奇跡のように思うことがある。そしてその型にはまったなかで溢れでてくる一期一会の舞台を、とても愛しいもののように思いながら、いつも歌舞伎を観ている気がする。
2004.02.28
おぼえがき
人間の身体は、時々ひどく美しい。流れるように動く腕や指先、優雅にしなう背中のライン。息苦しくなるほどに、静止と躍動が拮抗する。研ぎ澄まされた美しさ。
けれど、身体とは別に、心にも、ぞっとするような美しさがある。心が持ち得るのは、永遠の美しさであり、底なしの暗さでもある。眼に見えない分だけ切実に、きりきりと響く。
ファム・ファタール、と聞くと、わたしはサロメを思い出す。美しく、妖艶な女。
もともとサロメに名前はなかった。「マルコによる福音書」には、王妃ヘロディアスの娘としてしか登場しない。不義の結婚を預言者ヨカナーンに非難されたため、ヘロディアスが娘をそそのかして踊りの報酬としてその首をはねさせる。その「娘」がサロメだ。
オスカー・ワイルドは、彼女に光をあてた。母親にそそのかされ、罪に荷担するだけではなく、自らの意思でヨカナーンの首を欲するサロメ。彼が書いたのは、もはやただの娘ではなく、自分の力で自分の人生を選び取っていくだけの力がある女だ。
幾多の芸術家が彼女に惹かれ、題材にしてきた。クリムトが、モローが、ビアズリーが、美しく魅惑するサロメを描く。
サロメがこれほどまでに美しいのは、彼女が自分の美しさを力にしてしまえるからだ。自覚的な美しさ。
かなわぬ恋をし、敗れ、踊り、見返りに愛するものの首を所望し、はねられた首に口づけする。幻想と罪、未熟で、それだからこそ激しい恋。
顔を見たい、声が聞きたい、その肌に触れてみたい…、サロメの願いは、つかの間、わたしの願いでもあったかもしれない。